17 二人目
夜、カラットはハンモックにうずくまってじっとしていた。仕事をしていないと体が疲れることがない。うろうろしても指を指されるので、寝たふりをしているしかない。
ドラギエルとヘイスが船員室に来る時に水と食事を持ってくるのが、ただただ惨めだ。
(早くルワリ島に着けばいいのに)
嘘を言おうとしたことなんてない。自分が知っていることを教えてあげようとしているだけだ。それが少し間違っているくらいのことで、悪口を言われる。
(悪口を言うような奴らは許されて、悪意のない嘘だけは責められる)
ドラギエルの口下手さが羨ましい。そうしたら、調子に乗って余計なことを喋らずに済む。
賢い人間になりたかった。賢くなれと、両親が言ったからだ。両親が持つ難しい本を読めるふりをした。父や母を訪ねてくる客人の話を盗み聞いては、弟妹や使用人にひけらかした。
「よく勉強なさるカラットの坊ちゃんがいれば、ロット農場は安心だ」
弟も幼いころはどこに行くにもついてきて、カラットの真似をした。
「この農場で兄さんが一番物知りだね!」
と自慢していたはずが、今はあまり話さない。いつの頃からか弟の方が賢くなり、兄が虚栄であることを見抜いた。
(……くそっ)
体がだるく、節々が痛む。
もう――何もかもどうにでもなってしまえばいい。
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「――っ!」
(……何か聞こえた?)
その日は雲が広がっていて、昼間から暗かった。星も月も見えない薄く広がった曇り空では、精霊王の加護が受けられない。それは皆が内に秘めていた不安を煽った。
日が暮れ、もうすぐ見張りを交代する時間だ。船員室にいたドラギエルは起き上がった。
カラットに話しかけようと思ったが、一番奥の方にいる。ドラギエルが奥に行こうとすると人を押し退けることになるので、怒られてしまうだろう――この間のように。
近くには、ワイロフがいた。天井の梁から吊られた小さな吊り灯が、波に合わせてゆっくり揺れている。その灯りの下で、ワイロフは手帳に何かを書き付けていた。
「……あの……」
ドラギエルは精一杯、話しかけた。
「……何……」
何か、聞こえませんでしたか。
喉の奥がひりつき、声がうまく形にならない。
「ただの……日記だ。遺言になるかもしれないが」
ワイロフは「何をしているのか」と受け取ったらしい返事をして、手帳を閉じてしまった。
遺言、という言葉にドラギエルは驚く。
「セレニアの加護から外に出ちまったんだ。もう大精霊ファムレの口の中かもしれねえ」
「やっぱり新しい船になんか、乗るんじゃなかったなあ」
今夜は眠れない者が多いらしかった。いらいらしている者、不安そうに足を揺らす者。皆、ドラギエルよりも現実的に不安と対峙している――。
「行こうとする意志が足りないんだ」
ワイロフの動じない響きは、みんなの口を噤ませた。
「この大きな船は、はじめっから外の世界を目指す船だ。戻ろうとするから行けない。とっとと巨大大陸を目指し進めば、案外すぐに着く。そういうものだ」
「それもそうだ」
「乗った時点で覚悟は決めてる」
「あのおっかねぇ奥様の方が、船長に向いてるぜ」
船員室は、にわかに活気付く。
ドラギエルの不安も薄れ、何を言おうとしたのだったかなどすっかり忘れてしまった。
夜が終わり明るくはなっても、船の上の空はまだ白い雲で覆われていた。
舵はグィオ甲板長が握っている。
甲板。オーネット船長の前に座らされている乗組員の男が一人。その周りを船医のライザス、料理長のコートナー、他の乗組員たちが囲んでいる。
「この者はこの船の、オルミスの……精霊王セレニアの掲げる重要な規律を汚した」
船長は、怒りのこもる声で冷たく言い放ち、後ろ手に縛られている男の肩に、強く棒を打ち当てる。空気を切る音を立て、棒は割れ、裂けた。
「女性に乱暴しない事。人の尊厳を侵さない事。その二つを破ったためこの者は、落海の刑に処す」
そう言って船長は、その男を縛ったまま細い板切れへと追いやった。
船長がこんなに冷たい顔をするのを、ドラギエルは初めて見た。男は足をよろけさせながら「許して下さい、許して下さい」と懇願した。
男が細い板切れに乗ると、船長は男の手を縛っていたロープを切り、そのまま真っ直ぐに歩かせた。板切れは男の重みに耐えかね、割れた。
ドラギエルは、恐ろしくて見ていられなかった。男がどうなったかわからない。しっかりと目を瞑っていても、悲鳴と水音は確かに聞こえた。
「持ち場に戻れ」
船長の言葉で、みな各々の配置に戻る。
休憩時間のドラギエルは、恐れているのに気になってしまい、割れた板が落ちた海を覗き込んだ。
落とされた男の姿が見えたような気がした。ドラギエルは慌てて顔を上げた。
船長と女性二人が甲板に残っていた。エスラ夫人の後ろには、ナバルが隠れるように立っている。いつもの威勢をすっかり失い、頭から体が隠れるほどの大きな布を被って、気づかなければ帆か荷物かのようにそこにいた。
ドラギエルは昨日聞いた声を思い出していた。あれはナバルの悲鳴だったのだ。
(聞かなかったことにするんじゃなかった。すぐ様子を見に行っていたら……)
ドラギエルは、深く深く後悔していた。
「両手両足を縛っておくのではいけなかったのか」
エスラ夫人も、張りのない声だった。
「オルミスでも岩山牢に追放。実質死罪となる重大犯罪です。生ぬるい処分を下すわけにはいきません」
「しかし、ナバルが……」
「君が心を痛める必要はない。この罪は、オルミス人として必ず極刑にしなければならないんだ。でなければ北の連中が、トゥヴァリは英雄じゃなかったなどと言い出す」
舵を取っていたグィオが船尾から降りて来て、言った。
「しかし、皆が不安になっているのも事実です。何日も緊張が続くような環境が、彼を犯罪者にしたのでは」
「……今この船が遭難している責任はもちろん取るつもりでいる。しかし、その状況が罪を犯しても仕方ないという理屈にはならない」
オーネットとグィオの間に、息が詰まるような空気が流れた。
(オーネット船長も、船長だから怒られないだけで……本当は何かを失敗しているのかもしれない)
しかし、どこかで安心してもいた。カラットが受けた処罰なんて大したことではないと、わかったからだった。
挿絵はAI生成で出来るだけイメージに近づけたものです。




