14 一人目
夜明け頃のことだった。
甲板には、どたばたと走り回る音と怒号が響いた。
「回せ! 急げ! 回せぇ!」
グィオ甲板長が、ただならぬ様子で叫ぶ。ドラギエルはハッと目を覚ました。
「違う、そっちじゃない! 碇を下ろすんだ!」
(甲板長!?)
何事が起きているのかわからない。足元が揺れ、ギュルギュルとロープが滑車に擦れる音がした。
碇が沈み、船が流されきって止まった。
エスラ夫人がドラギエルのところへ来て言った。
「さっさと立て! ロベリタス副船長を見なかったか?」
ドラギエルは首を振った。
「どうなさったんです」
同じく起きたばかりのワイロフが、頭を押さえながらやってきた。
「どこにも姿が見えないんだ。いつからいなかったのかもわからない。おかげで船はかなり流されてしまった。なぜお前たち、眠っていたんだ。夜番のはずだろう、甲板長まで!」
そうだ、眠っていたのだ、とドラギエルは思い出した。
グィオ甲板長を見ると、とても焦っているようだった。ドラギエルの脳裏に、グィオが眠るところを見た記憶が浮かんだ。
「話しました……あの、ふ、副船長は、……」
「いつ頃だ?」
エスラ夫人は目尻を釣り上げた。
「はい、船長! ええっと……」
ドラギエルはワイロフを見た。しかし、彼は首を横に振る。
「二刻を超えた頃だったはずです」
と、こちらへ来たグィオが答えた。
汗をびっしょりとかいている。碇を下ろして一安心したのか、表情は柔らかくなっていた。
「甲板……まさか、落ちたのではないだろうな」
エスラ夫人が表情を曇らせる。しかし、グィオは一笑に付した。
「ロベリタスが? 彼が何年、船に乗っていると思っているんですか。あり得ませんよ」
エスラ夫人も、その言葉に頷いた。
「だが、夜番が三人とも寝ているなんてこともあり得ないだろう」
「そうです。でもあり得ないのはそれだけじゃない。碇が上がっていたんですよ」
「オーネット殿も言っていたな」
「……一応、お聞きしますが、今回はあなたの悪戯では……」
「! 断じて違う!」
「失礼。では、ここの者たちには私が聞いておきますから、船医を連れて早く調理室の調査へ行かれた方がよろしいでしょう」
「船医を?」
「眠り草が食事に混ざったかもしれない。料理長が見逃すとは思いませんが。でなければ眠るはずがありません」
「なんだって? すぐに確認する。お前は船長に今の件を伝えろ! いいな!」
エスラ夫人はドラギエルに言いつけると、階段を降りていった。
「頼む、ドラギエル。俺は巻き上げ機を確認しなければならない。思い出せることを言うだけでいい、出来るな?」
グィオの赤い瞳が、真っ直ぐドラギエルを見つめる。ドラギエルは思わず、力強く頷いた。
(あの人の期待を、裏切りたくない!)
勇み、甲板を踏みしめる。船の揺れなのか、心臓の鼓動が体を揺らしているのか、わからなくなってきた。
「右腕号と左腕号もこちらを捜しているだろう。……幸い、何日も流され続けたわけではない。大丈夫だ」
帆柱の向こうでオーネットの声が聞こえた。
「せ……船長!」
思い切って、大声を出した。オーネットと、話していたのはワイロフだったらしい。二人がドラギエルの方を向いた。
昨夜ロベリタスがいたことは既にワイロフが話していたので、話すのは短くて済んだ。
「眠り草だと?」
ワイロフも驚いた顔をしたが、突然意識を失ったことに同意した。
「船……夫人、エスラ夫人が、調理室に……」
「わかった。ライザスに、君たちを順に見させよう。来たら話をしてくれ」
オーネットについて、ワイロフも下へ降りていった。
待機を命じられたドラギエルは船の端まで行って、舷側に手を添えた。下を覗き込むと、明るくても絶えず揺れ動く海面が見えた。
(あんなところに落ちたら、あっという間に飲み込まれてしまう)
ロベリタス副船長が助けを求めていやしないか、と広大な海を注意して見てみたが、同じような波間の連続に目眩を起こしかけただけだった。
「待機か、ドラギエル」
突然声をかけられて、ドラギエルは船から飛び出しそうなほど驚いた。相手も驚き、慌ててドラギエルの服を掴まえる。
「落ちるぞ……副船長みたいにな」
「え……や、やっぱり、落ちた……?」
「海の上で船からいなくなったんだ。それ以外にないだろ。酒でも飲んでいたんじゃないか?」
酒、と聞いてどこか浮ついたようなロベリタスの様子を思い出した。
ドラギエルは海に入ったことがないが、幼い頃に川に落ちて流されかけた事はあった。
(あの時は、本当に苦しかった……ここには、つかまれる枝もないのに……)
ロベリタスの状況を想像し、全身が震える。
「へ、ヘイスは……」
「俺は上で見張りだ」
ヘイスの「ふん」という声が、珍しく嬉しそうに聞こえる。
「よかった、や、やりたい仕事があって」
と、ヘイスに向かって笑いかける。
(あれ……?)
言おうと思ったことを現実に言えた自分に気がつき、嬉しさのあまり全身の毛がよだつようだった。
ヘイスはしばらく考えたあと、
「……掃除を押し付けて悪かったな」
と言った。
きっとヘイスも見直したから謝ったのだ、とドラギエルは思った。
「ドラギエル……あまり、騙されるなよ」
そう言って、見張り台の方へ行ってしまった。
ドラギエルは上を見上げた。沢山のロープが張られた帆柱にある見張り台は、揺れている上に、コカトの木よりも高い。
ヘイスは軽やかな身のこなしで、簡単にロープを登っていった。
▪︎
(ドラギエルが、皮肉を言ってくるほど根に持っているとはな)
見張り台の中に入り、下を覗く。
(使いやすそうだと思って近づいたんだろ。騙して利用するための奴に、騙されるな、だと? ……ずいぶん、気を許したな)
ふん、と自嘲して笑う。
見張りを言いつけられたことに関しては、ドラギエルに言われた通りだった。
(どこを見ても陸地の見えない、海、海、海……)
この景色を見られただけで、逃げたことにも、生きていることにも、意味があったと感じられる。
だが、浮かれるばかりではない。自分の置かれる立場も理解している。
(ここなら、俺を見張れるからな)
夜中、大人しく船員室にいたのは運が良かった。もし誰もヘイスの姿を見ておらず、何かが起こったとなれば、オーネットはもっと厳重にヘイスを拘束しておかなければならなかっただろう。
(誠実すぎるオーネットと言っても、さすがに短絡的ではないか)
しかし、甘い。
(……妻の言いなりになっているような男だからな)
自分が船長ならば、ヘイスの正体が発覚した時点で拘束している。北の町の人間を、オルミス人はもっと警戒するべきだ。
▪︎
ライザス・チルキアは薄い金髪の若い男だった。“コカトの森は医者いらず”――とはいうものの、チルキア家という医者家系の名前はドラギエルも知っていた。
そして彼には、昨日船酔いで一度世話になっている。自分の意識に余裕がないと、精霊に回復を願うこともできない。医者が必要な理由がドラギエルは身に染みてわかった。
「変わったことはありませんでしたか? 意識が朦朧としたり、甲板長やワイロフさんの喋ることが変だったとか、妙なものが見えたとか――」
「……い、いえ……あ。あの……歌……甲板長は、それで、急に見ました、寝るの」
「歌っている途中で急に寝たということですね。あなたも舌が回っていないようだ。効果が残っているのでしょう。危険なので休んでいてください。眠るだけ眠ってしまえば治りますよ」
船員室へ向かったドラギエルは、いくつかのうるさい鼾の中、ハンモックではなく固いベッドを見つけ横たわる。
「……」
ドラギエルの頭は、事件にも、自分が仕事を成し得たことにも興奮していて、眠るのは難しかった。そう思っていたのに、すぐにうとうとと意識が遠のいていく――。
『美味なるかな、美味なるかな』
まどろむ頭の中におかしな言葉が浮かぶ。
『やはり人間の生気が最上よ』
その感覚はコカトの森で、精霊コカトに話しかけられている時のものによく似ていた。
(海の王...?)
『早く次のが来んかのう』
がば、とドラギエルは体を起こす。
ベッドから落ちて、些か痛みに悶えつつ目を開けると、暗い船内にキラキラした光の粒のようなものを残しながら壁をすり抜けていった。
挿絵はAI生成で出来るだけイメージに近づけたものです。




