13 夜番
夜――エッカーナ号は碇を下ろし、静かに揺れていた。
ドラギエルは、船酔いで昼に寝ていたために、甲板長に夜の見張りを命じられ、甲板に立っていた。
(あの精霊はどこに行ったんだろう)
覗き込む海は真っ暗だ。森とは違い、常に何かが蠢いている。海に光が漂うのが見え、心臓がひやりとした。ルワリ島からついてきた二隻の小さな船の灯りだと気付き、胸をなで下ろした。
「美しいだろう」
背後から声をかけられ、ドラギエルの大きな体がびくりと跳ねた。
「……あ……」
立っていたのは白髪の男だった。小さな目と灰色の髭に覆われた顔が、暗がりの中、星明かりに照らし出されている。その姿はドラギエルに、暖炉の前に座る父親を思い出させた。
「オルミスから遠く離れた海でも、星々は空に輝いている。精霊王の加護がある限り、人間はどこまでも行けるんだ」
「……」
彼に倣って、ドラギエルも空を見上げた。
暗い海は船の影だった。顔を上げて見れば、空も海も明るく輝いている。
「若いうちにいろいろと経験するべきだ。私も初めて船に乗ったのは十三のときだった。もちろん、こんな大きな船じゃなかった。木をくり抜いただけの舟だ」
「……」
ドラギエルが黙っているのを気にはしたようだったが、彼は一方的に話し続ける。
「キルディア女王の時代だ。オルミスはまだ、ファルトーソーがいつ襲って来るかと怯え、アルソリオもコカトも敵か味方かわからずにいた。このように同じ船に乗り合わせられるようになったのは、メルキド王の賢く勇敢な治世のおかげだよ」
「ロベリタス、休まないんですか?」
いつの間にか老人の隣に、グィオ甲板長が立っていた。
「年甲斐もなく、目が冴えて眠れなくてな……歳をとると昔のことを若者に話したくなる」
「明日に差し障りますよ。オーネット・サキタリは怜悧な人物ですが、船の経験はないのでしょう」
「それはそうだ。グィオに夜番を任せている意味がなくなってしまうな。休息も大事な仕事だ」
ロベリタスは笑った。しかし船室には戻らず、今度は反対の舷側にいる、ドラギエルと同じく見張りであるワイロフ・トメイに話しかけていた。
ワイロフは、この船一番の大男だ。彼が階段や間口に立っていると、すれ違うことができないほどだった。
「まだルワリ島が見えているし、見張る必要もないのだけどね。ロベリタスはオルミス一の船乗りだから、休ませないと俺の仕事がなくなってしまう」
グィオは冗談めかして笑う。
「心配しているんだろうな。俺は昔おどおどしていて、人と話すのも苦手だったから。それでもなんとかやってきたよ、ロベリタスのおかげでね。今回、彼が甲板長に推薦してくれたんだ。だから張り切ってやっているよ」
「……」
「君は、どこから来たんだい? 港町出身……じゃなさそうだ」
「え、あの、……」
「言いたくなければ、言わなくてもいいんだ。船に乗る人間は、事情を持っていることも多いからね」
グィオが笑うのをやめると、辺りはしんとしてしまった。波の音だけがやたらと大きく聞こえる気がした。
(せっかく、聞かれたのに……)
今更、返事をするには間を置きすぎているだろうか。ドラギエルは頭の中で失敗と反省をぐるぐると繰り返し――。
(この人は、怒らない。きっと聞いてくれる!)
ドラギエルが意を決して息を吸い込むと、
「船はどうだ。楽しいかい?」
間が悪いことに、グィオが再び話しかけてきたところだった。
「あ……はい。あの……」
グィオは優しげに赤い瞳を細め、ドラギエルの次の言葉を待つ。
「……俺でも、仕事が……あの、出来る……うまく。だからその、楽しいです」
「そうだな。力があれば出来ることがたくさんある」
「……俺は……怒られてばかりで。家でも、そうです。下の弟にも」
「へえ? 下の弟の名前は?」
「マルーセル……」
「そうか。マルーセルはなぜ君を怒るんだい? 兄さんの君に向かって」
「マルーセルは……何でも出来る。兄さんたちに教えられたことも、すぐに出来る。俺はいつまでたっても覚えない。森のことも、仕事のことも、母さんの好きなものも……」
「兄さんもいるのか。ドラギエルは三人兄弟か?」
「いえ、兄弟は九人……」
「そりゃあ偉い母さんだ。全部男?」
「あの、姉さんが二人」
「そうか。それで、君はつまり、コカトの森の出身だ」
「そうです。そう、そうです」
さっき聞かれたことを話すことができて、ドラギエルはとても気が楽になった。
こんなに長く人と話したのは初めてだ。
いつもの、カラットが一方的に喋るだけの会話とは違う。ドラギエル自身が話している。グィオになら、いつまでも話し続けられる。
自分のことを分かってもらえるのは、楽しかった。
(甲板長はどう思っているだろう。優しい顔をしているけど……つまらない奴だと思っているかもしれない……)
カラットのように、面白く話が出来ればいいのにと思った。
(もっと物知りだったらいいのに)
ドラギエルが知っていることで、他の人が知らないことなんて、きっとないだろうと思った。
しかしグィオは言った。
「あとは、そうだな。今までにした失敗の話を聞かせてくれないか。君はこんなに真面目なのに、何を失敗してしまうのか」
(変なことを聞く人だ)
そう思ったのが顔に出たのか、
「ああ、悪かった。失敗したことなんて話したくないよな……。俺は話すのが苦手だから、よく変なことを言ってしまうんだ。物心ついたときには、もうこの仕事を教えられていたから、他の人の話を聞いて違う世界のことを知りたいと思うんだ」
ドラギエルは、話した。
城下町の木工職人に怒られたことや、納品書を失くしたこと、ワリーデに怒られたこと……母さんの誕生日に、兄弟姉妹が全員母さんの好きなものをあげたのに、ドラギエルだけが必要のないものを渡してしまったこと。
たどたどしい説明だったが、グィオはドラギエルが話し足りないことをいちいち聞いてくれるので、ドラギエルは話していて気持ちがよかった。
「それで、母さんの大好物なんだと思ってウンドキの根をあげたけど、もう痒みは治ったから要らないんだってマルーセルが……」
「それは、失敗じゃあないな。マルーセルが失敗だと決めつけただけだ。母さんが言ったわけじゃないんだろう?」
「母さんは……怒らなかった……」
「他の失敗は、君が人の話をよく聞いていないのが原因のようだね。君は、考えすぎなんじゃないか? そして肝心なことを聞き逃す」
「あ……」
確かにそうだ。ドラギエルは思った。
いつも、自分がどう見られているか、失敗したらどう怒られるか、どうして自分だけが上手くいかないのか。そんなことばかり頭に浮かんで、人の言うことを聞いていない。
「恥じることはない。別に、それが悪いなんてことはないんだ。アルソリオの時代には、人はみんな平等だった。全部精霊がやってくれるから、仕事なんてなかった。人々は遊んで暮らすのが当たり前だった。君もその時代に生まれていれば、自分ができないことに気づく必要すらなかったんだ」
「……」
「仕事は人を能力で分ける。出来る奴はいいが、出来ない奴はどんどん落ちこぼれていく。城下町にだって、君の納品書を盗んだスリや浮浪者がいただろう?」
「……」
「俺は、何かが出来ない奴にも、必ず役に立つことはあると信じているんだ。誰も落ちこぼれにはさせない。偉そうにする者には、その力量が必要だと考えている」
ドラギエルは、グィオ甲板長はなんて偉い人なのだろうかと思った。
(王様が彼のような人だったら、オルミスはもっといい国になるのかもしれない)
ドラギエルが見つめていると、グィオが再び口を開く。
「森がざわめき……」
低い声を響かせて、おかしな言い方をした。
返事をしかけたところで、
(……歌だ)
と気づいた。
「……王は生まれた
南へ 南へ……
揺籠は夜を待つばかり」
船の揺らぎに合わせるようなゆっくりとした歌に、瞼が下がっていく。
(……見張りをしなきゃ……)
ドラギエルは大きなあくびをする。
「南へ……南へ……
揺籠は……夜を……待つ……ばかり…………」
グィオの影が、かくりと揺れる。低い声は完全に途切れた。
ドラギエルの意識も沈み――甲板には、波音だけが残った。




