10 エスラ夫人
半刻を過ぎ、船はアルソ島を右舷に見ながら唯一の寄港地であるルワリ島に真っ直ぐ向かっている。回転翼は白い泡の線を二本残しながら、穏やかな波を掻き分けて行く。
エッカーナは、幼少の頃に一度だけ船に乗ったことがある。父王がアルソ島を視察する時に、母と姉たちと共に。小さな体に船は動く城のように感じられ、アルソ島までのひとときは大航海と同じだった。
(島に着いたら小さくて何にもなくて、がっかりしたのだったな)
出港する時の方がよほど楽しかった。船に乗ればこの世界のどこにだって行けるという期待に胸が膨らんだ。
(所詮、簡単に手の届くもの)
少し離れて海側から見れば島は港町と繋がっているようにすら見える。
「ルワリ島まであと二刻半といったところだ」
オーネットが横に来て言った。ふと何かに気付いた様子でエッカーナの周囲を見回す。
「精霊がいない……?」
「そうなんだ。船に乗ってから、光が見えない。どこかへ行ってしまったんだろうか」
幼い頃からそばにいたのは、ずっと城にいたからだったのだろうか。外に出た途端いなくなってしまうなんて薄情な精霊だ、とエッカーナは思った。
「……そうか、それなら」
オーネットは何か考え込んだ後、
「それで、増やした乗組員は?」
「四人だ。女と男一人を調理場にやって、一人でかいのは力仕事。もう一人は雑用を言い付けた」
「船長が知らない人物を船に乗せておくことはできないな。ロベリタス、舵を頼む」
オーネットは甲板に立っていた白髪の老人に声をかけた。
「ええ、わかりました。ところでそちらの美しい女性はどなたですかな」
「ああ、そうだった。紹介が遅れてすまない。予定に大幅な変更があったものでね……こちらは私の妻の、エスラだ」
「妻!?」
エッカーナは思わず、突拍子もない声を上げる。
「そう。まあ、妻になる予定だ……」
オーネットはエッカーナを連れて後ろを向き、耳打ちをする。
「皆を萎縮させたくなければ、王女とは名乗らないようにしなさい。精霊がいなければ、顔を知らない者にはわからない。しかし、私があなたと話してばかりいたら、皆が訝しむ。妻だということにしておけば、君の偉そうな態度にも納得するだろう」
「わかった」
ゴホン、と咳払いを一つして、エッカーナはロベリタスに向き直る。
「いかにもわたくしは、オーネットの妻になる予定の、エスラその人だ」
エッカーナは右手を差し出した。乾いたパンのような、硬い皺の手をしっかりと握る。
「さすがオーネット船長の奥様は肝っ玉がでかいですな」
白髪の老人も、空いた手で帽子を取った。
「ロベリタス・マッケイドです。引退し、精霊王に生気を捧げようかと思っておりましたが、彼がどうしてもと言うもので」
「三十年以上、船の経験がある貴殿がいなくては航海が成り立たない」
「そうなのか。精霊王が早まらなくて良かった。よろしく頼む、ロベリタス殿」
「もったいないお言葉です」
ロベリタスはかすれた声で言い、頭を下げた。
「彼は国の事情に明るい。勘づかれてしまったな」
舵取り場に彼を残し、甲板に降りながらオーネットはエッカーナに言った。
「甲板長のグィオ・フレザックは、ロベリタス船長の元で働いていたそうです。
料理長はコートナー・フビジャ。
医者のライザス・チルキア。
他の乗組員は、彼らの知るよく働く者たちを選んでもらいました。名家の者もいますが、この船は王家の遊覧船じゃない。航海中は正体を明かさないように」
「わかったよ。だが、相手には信頼を求めておきながら、嘘をつくのは気が引けるな」
船内に入ろうとする時に、船首に向かう大きな男が見えた。
(あれは力仕事に回したでかい奴……)
オーネットは腰につけていた携帯灯を外すと、壁をぼんやりと照らしている油灯から芯に火を移した。蓋を閉めると、揺らめく明かりが船内を浮かび上がらせた。
調理場では既に昼食の準備が始まっていた。オーネットはコートナー料理長にもエスラ夫人を紹介し、見習いの元へ向かった。
「ナバル・パームシュカ、カラット・ローレウスだ」
エッカーナは順に指し示してオーネットに教えた。
「オーネット船長!」
ナバルが芋を置き、男二人に向けるのとは正反対の態度でエッカーナに駆け寄った。
横にいたアキリがぎょっとした顔をする。
「えっ……? せ、船長ォ、お……女を乗せたんですかァ?」
その一言に、ナバルの顔色が曇る。
エッカーナはアキリを睨みつつ、ナバルへの申し訳なさで胸が痛んだ。
「すまないナバル。わたくしは実は船長ではないんだ」
「……どういうことですか?」
「こちらが真の船長であらせられる、オーネット殿。わたくしは妻のえー、エスラというのが本名だ。少々、船長の真似事をしたくて。すまなかったな」
ナバルは泣きそうな目で、じっと本物のオーネットを見つめる。
「降ろされますか、私は……?」
と、不安そうに聞いた。
「妻が勝手をしてすまないね。君がこの仕事を希望するのなら、正式に雇用し直そう」
「はい! 私は船に乗るためなら、どんな仕事でもします!」
ナバルはオーネットに大声で、うるさいほどにはっきりと答えた。
「君もかまわないかな、カラット。問題があればルワリ島で降りることができる。遊覧船でオルミスに帰れるが……」
「いえ。俺も船で仕事がしたいです、オーネット船長」
「わかった、ではよろしく頼むよ」
オーネットとエッカーナは、さらに下の層へと向かう。
(あの大男には、名前も聞いていなかったな。もう一人は何だったか……?)
そのとき、厳しい口調でオーネットが言った。
「そこで何をしている?」
見ると、船尾側の薄闇の中に人影があった。オーネットが持っていた灯りで照らし出すと、確かエッカーナが最後に乗せた背の低い男が床に這いつくばっていた。
「船酔いか?」
「いえ……」
立ち上がった男の目つきを見て、思い出す。
(そうだ。確か、ヘイス……)
「彼は君が?」
「ああ。雑用を言いつけた」
「……雑用がここで何をしている?」
「......船の仕組みを調べていた」
「それでここに来るとは、君は船に詳しいのか? しかし、動力区画に近付いてはいけない。灯りもなく……巻き込まれてしまうぞ」
ヘイスはこちらに近づいてきた。灯りに揺らめく灰色の瞳が、オーネットとエッカーナを見比べるように動いた。
「……本物のオーネット・サキタリか」
と、オーネットに向かって言った。
不躾なやつだと思い、エッカーナはため息をついた。
「わたくしは彼の妻、エスラだ。嘘をついてすまなかった」
そう言いつつ、また嘘をついている。何をやっているのだろうかと思わなくもない。
ヘイスは少し考え込み、
「……俺は、ヘイス・カフェトーだ」
エッカーナを無視して、真っ直ぐオーネットを見つめた。
「何?」
オーネットの顔色が変わる。エッカーナを下がらせると、素早く腰に差していた短剣を抜き、ヘイスの喉に切っ先を向けた。




