1 独活の大木
ドラギエルは、オルミス城下町のあまりの賑わいに立ち尽くしていた。
立ち尽くす以外、何もできない男だった。感嘆の声を上げることも、頭の中で王を讃えることすらも。
足のすぐ先を、木の車輪ががたがたと音を立てて通り過ぎていく。荷車を引いているのは、人、牛、馬。誰も速度を緩めようとはしない。
ドラギエルが行きたい場所は、この道の向かいに見えているというのに。
「そこの、コカトの兄ちゃんよう」
見かねた木工職人が、でかいばかりの体に声をかけた。ぼんやり立っているかと思えば、時折足を踏み出しかける。向こうへ渡りたいのだということは誰の目にも明らかだった。
今行くか、そら行くか――そんな調子で見守り続けて、もうずいぶん経つ。
「あ……俺は、その……何で……」
「何だって? 聞こえねえな!」
予想外の返事に、職人は苛立った。助けてやろうとしただけなのに、男は口の中でぶつぶつと何か言っているだけで要領を得ない。
それなりの年頃に見える体つきなのに、情けないったらなかった。
毛皮の服、脛まで紐を巻いた厚底の靴、大きな皮袋。どう見てもコカトの森の住人だが、本人はそれがどう見えるかもわかっていないらしい。
「そこにいられると気が散って迷惑なんだよ。あっちへ行きな!」
つい、突き放す言葉を投げてしまう。
ドラギエルの太い首が、じわりと赤くなる。目的地に背を向け、逃げるようにその場を離れた。
ドラギエルがオルミスへお使いに来たのは今日が初めてだ。いつもは兄姉や父親が、木材や毛皮を売りに来ている。「お前もそろそろ手伝え」と十六歳のドラギエルが突然声をかけられたのは、今朝のことだった。
幼い頃に父に連れられてきた記憶ならある。そして、町はなんて楽しそうで綺麗なところかと憧れを抱いた。憧れを持ち続けたまま、いざ一人で訪れた城下町は、昔見た景色とは違っていた。
一番嫌なのは、自分がみんなと違う服装をしていることだ。それがばれないように目立ちたくないのに、でかい図体は目立たないわけにはいかなかった。
小走りに逃げ出した先は、商人たちが声を張り上げる市場。市場も大勢の人の行き交いがあるが、荷車が通らないだけ、まだ歩きやすい。
「おい、邪魔だな。でかい兄ちゃん」
また誰かに文句を言われる。下を向いていた顔を上げて、ぶつかってきたのはそっちじゃないか、と言おうとした時にはもう相手がいなかった。
ドラギエルは本当に嫌になった。
(この性格がいけないんだ。いつも緊張ばかりして……何もうまくいかない)
ドラギエルは、腰に下げている皮の袋に手を突っ込む。
(……あれ?)
探している感触に辿り着かず、右手が狭い袋の内を彷徨う。
(ない! ない!)
袋を開いて、目で確認してもどこにもない。確かにそこに入れたはずだ、と言っても、無いものはない。血の気が引き、心臓がギュッと縮み込む。
ドラギエルは背負っていた大きな皮袋も下ろして、中を確認した。大きな方には、今日工房に届ける約束の、動物の毛皮が入っている。腰の袋に入れていたのは、毛皮と交換する物を書いた手紙だった。絶対に失くさず渡せと父親が言ったので、何度も腰の袋に手を入れては、入っているのを確認していたはずだった。
(……落とした?)
もう周りを気にしている場合ではない。地面に這いつくばるようにして、手紙が落ちていないか探し回る。
「あーあー、なあ。もう見てらんないよ」
頭上から、その声は聞こえた。市場の喧騒の中でもハッキリとわかる、滑舌の良い澄んだ声だった。
ドラギエルは起き上がり、声がした方を見た。通りの端にしゃがみ込んでいた、藁帽子をかぶった男が立ち上がる。
(な……何だ? お、俺?)
また何か言われるのかと思い、体が強ばる。
「あんただよ、あんた。そこのコカトの人。探し物は、さっきスリに取られていたよ」
と、藁帽子の男が言った。
「え……あの、……ス、スリ?」
「さっきぶつかった男がいただろ。知ってるか? スリのネビオロ。喧嘩をふっかけて、相手が驚いてる隙に盗っていくのがあいつの手口だ。有名だよ」
「そ、そんな……」
「あんた、やられるんじゃないかと思ってさあ。さっきから見ていたんだが、本当にやられたな。おっと、見ていたんなら助けろなんて言うなよ? 助けるも助けないも、自由だからな。それが、オルミスって国だ」
ドラギエルは恥ずかしかった。
(スリに遭うのを知っていて、それを見られていたなんて)
それに、わざわざそれを言って恥をかかせる。ドラギエルは頭に来てもいた。当然、スリの男にもだ。人から物を盗むなんて信じられない。
ドラギエルの頭は考え事でいっぱいになり、その場に立ち尽くす。
「おいおい、そこで大男が固まっちゃあ本当に邪魔になるよ」
藁帽子の男は慌ててドラギエルを引っ張ってきて、道の端に寄せた。
「そう落ち込むなって。何が取られたんだ」
「……あ……あの、その……」
ドラギエルがどもっていると、町全体に響くような高い音が、カーン、カーン、カーン、と続けて六回鳴らされた。
「あの鐘の音が何だか知ってるか? 仕事終わりの時間を報せているんだよ。俺も、もう帰らなけりゃ」
「えっ……あ、まだ……」
「ん? 何か言った?」
「わ、渡して、ないのに……」
ドラギエルは途方に暮れて、大きな皮袋を抱える。
「なんだいそりゃ? 毛皮? なんだ、それなら渡すはずの相手に、さっさと渡しに行ったら良いんだ。なーんも困る事じゃない。手紙なんて、書き直せばいい。それより約束の日が今日なら、今日中に渡した方がいいだろうな。といっても、工房はもう閉まるんだけど」
「えっ……あ、……」
「ただの手紙かあ。ネビオロの奴、今頃どんな顔をしてんだろうな。……あ、おい! 挨拶くらいしていけよな!」
ドラギエルは駆け出した。不格好に荷物を抱え、息を切らせながら、工房の通りへ走る。
牛や馬はゆっくりと空の荷台を引き、静まり返った通りに車輪の音がコトンコトンと響く。ドラギエルに意地悪を言った木工職人も、いなくなっている。目的の工房に着いたときには、もう扉も窓も閉まっていた。
ドラギエルは大荷物を抱えたまま、トボトボと帰路に着いた。オルミスからコカトまでは、歩いて三刻。馬に乗れば一刻を過ぎるくらいで着くが、ドラギエルは馬に乗れない。
(オルミスは冷たいところだ。約束をしていたのに、待っていてもくれないなんて)
道の途中にある、ロット農場に浮かぶたくさんの淡い光も、夕陽に染まる丘の上の屋敷も、ドラギエルの気を紛らわせることはなかった。酷い気分のところに土や牛の臭いがして、落ち込んだ胸に気持ち悪さが増していく。
「ドラギエール!」
森が視界に入る頃、前方から馬が駆けてきた。ドラギエルの失敗を確実にする、嫌な声とともに。
「おい、グズのドラギエル! 遅いんで心配して来たんだ、ちゃんと仕事は済ませたんだろうな!」
二つ上の姉のワリーデが、手綱を引き、ドラギエルの横で馬を止める。返事など待つ気もなく馬から飛び降り、まくし立てた。
「おい? その荷物、見せてみろ!」
大きな皮袋をひったくり、口を開いて覗き込む。
「やっぱり。何を持って帰ってきてやがる、この役立たず! これは絶対に今日、渡さなきゃならない物なんだぞ、寄越せ!」
「で、でもあの、時間が」
「だからって帰るんじゃねえ! 扉ぶっ壊すほど叩いても届けるんだよ!」
ワリーデは皮袋を馬の背に乗せた後、軽々と飛び乗った。
「さっさと帰ってろ!」
そう言い残し、あっという間に走り去る。陽が落ちて、オルミスの門へ向かう小さな影も見えなくなっていく。
荷物がなくなったドラギエルは、これでまったくの身軽になった。腰の袋にも何も入っていないし、何の役割もない。
ドラギエルはワリーデが苦手だった。家族でいるのが、辛くて仕方ないほどだった。幼い頃には庇ってくれたこともあったのに、いつの間にか、ドラギエルをいじめる側になっていた。
だが、ワリーデのやり方は荒っぽくても、彼女が動けば、どんな失敗も速やかに片付くのだった。
ドラギエルが苦手とするのは、すぐ上の姉のワリーデだけではない。
「やっぱりねー、姉さんと一緒じゃ無いってことは、上手くいかなかったんだねー」
家に帰ってドラギエルが一番に会ったのは、椅子に座って足をぶらぶらさせている末っ子のマルーセルだった。
「剥ぐのもだめ、作るのもだめ、届けるのすらだめ。これで仕事は無くなったわね」
と呆れるのは長姉のシャルケー。
「と言っても、家のことが出来るわけでもなし。身体が大きくて邪魔な無駄食いだ」
二階からは長男と次男が話す声だけが聞こえる。
ドラギエルは九人の兄弟姉妹の六男だった。八人の中に、味方は一人もいない。他の八人は口が早くて手も早く、そうじゃないドラギエルの気持ちなど誰もわかってはくれない。
「ドラギエル」
背後の戸口から、低くしゃがれた声がした。背が、びくりと伸びる。ドーデミリオン家をまとめる父、リルバラスが立っていた。
頭髪から髭まで繋がる毛むくじゃらの顔。毛皮を着込んだ、熊と見間違えるほどの体。その容貌だけは、ドラギエルが最も色濃く受け継いでいる。
父は母が「かわいい」と思っているらしい小さな目でドラギエルを睨み、
「出て行け」
そう言ったきり、背を向けた。
挿絵はAI生成で出来る限りイメージに近づけたものです。




