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六月、長雨で気温はあがらず。七月、晴れの日もあるが、冷たい風が吹く。八月になっても、冬の夜具を被り寝ている。
秋になり、恩がもたらした情報は真実だったことが判明した。
冷害で稲作は壊滅的な打撃を受け、ただでさえ貧しい農村は、娘を売るまでに困窮した。
そんな中、海城の家では食べるものに困らなかった。そのうえ、売るほど米があり、種籾まで確保してあった。
「恩のおかげで、大儲けだ」
恩と糸穂の部屋を訪れた海城は、恩に褒美として尋常小学校の教科書と文房具を、世話係としての糸穂には、毛糸を渡した。
「恩は本当にそれでよかったのか? オモチャの拳銃でもブリキの飛行機でも構わないのに」
恩は首を横に振り、渡された教科書を胸にだいた。教科書は学校へ通えない恩の、ひとつのよりどころだった。
海城は恩の肩を二つ叩いて母屋へ戻って行った。糸穂は、額を床につけるほど深く平伏して海城を見送った。
恩は知っている。糸穂が本当は、実家へ米を融通して欲しいと願い出ていたことを。
しかし、海城から断られたのだ。
糸穂を寒川へ売った実家に一度でも米を送ったなら、どうなるか。もし、このさき様々に糸穂を頼ってこられたならどうするのだ、と。海城の主人に諭されたのだ。
それからしばらく、糸穂が泣いているのを恩は何度か見た。
「いただいた毛糸で、恩のセーターを編みましょうね」
ひと山の深い緑色の毛糸が恩のセーターになるのは、まだ数年先のことだった。
恩が寒川から支持されて御囲部屋に入ったとき、持ち帰った「九月十八日」には大陸で満州事変が起こった。あいつぐ恐慌で経済が行き詰っていた日本では、軍部を中心に満州への進出することは、不景気を脱する手段となるという声があった。
関東軍は柳条湖で南満州鉄道の線路を爆破し、それを中国軍のしわざとした。
満州事変は国民から、圧倒的な支持と熱狂を受けた。
どこかで大きな歯車が回っているように、恩は感じた。
ふだんより、さらに寒く感じる冬、御囲部屋に恩が入る。季節外れの山椒の実の香りがして、目の前の壁にまた障子があらわれた。靄は左右にふたつ。障子の向こうには、柿木にたわわになった実が揺れる影が見えた。
食べ物がなく、凍てつく冬にどれほどの命が消えるだろうか。
もし、障子を開けて柿の実をもいで持ち帰れたら。干し柿にして、糸穂の実家へ送ることができたなら、どれだけいいだろう。
恩は膝立ちになり、障子へと手を伸ばした。しかし障子はなかった。障子ごと壁に写された影だった。
「じしん」
はっ、と恩は靄を振りかえった。いつもとは違う、かすれた声だった。
じしんは、地震だろうか。
恩は首を傾げた。まだ大きな地震を体験したことがない恩には、わざわざ伝えてくる意味が分からなかった。声は続いた。
「ごがつ、いぬかい」
また、あまり意味が変わらない。それでも恩は聞いた言葉をわすれないよう、記憶に刻み付けた。壁から障子が消え、靄もいつの間にか存在が感じられなかった。恩は部屋を出た。
年が明けると、海城は軍部への伝手を見つけるために躍起になっていた。何度も上京しては取引先の会社をめぐっているようだった。
たまに部屋に東京の土産が届く。珍しい菓子や恩が好きそうな童話の本、糸穂へは髪飾りや帯留めが部屋に溜まっていった。
やがて雪が解け、草木が芽吹く五月が巡ってくる。
海城の跡取り息子、一郎の一歳の誕生会が準備されていった。誕生会へは、前回同様会社関係のほかに、幾人かの軍人も呼ばれているようだ。
海城から軍人の名があがるようになると、御囲部屋で時折火薬のような匂いがすることがあった。しかし、それを誰に話せばいいのか、恩には分からずにいた。いや、心当たりは一人だけだ。
寒川も誕生会に呼ばれていた。




