恩の章 3
恩が寒川と車から降りると、目の前には大工道具の差し金のように直角に曲がった大きなお屋敷があった。
母屋と、馬小屋が組み合わされているようだ。馬のいななきと独特のにおいが庭にまで漂っている。
車の到着に気づいたのだろう、屋敷の者が迎えに出てきた。
「いらっしゃいまし、寒川さま。旦那さまがお待ちです
髪の薄い中年の男性が、両ひざに手を置いて深く頭をさげると屋敷の中へ案内した。
入ってすぐの土間に、大きな釜があり湯が沸かされていた。天井は高く、煤けて真っ黒だ。恩は黒ずんだ太い梁を見上げて息を飲んだ。
「こちらへ」
男性へついていく寒川に遅れないよう恩も続いた。いろりのある小さな部屋から、障子が閉じられた部屋をいくつも過ぎた。
「どうぞ」
あたりをきょろきょろ見ていた恩は、急に立ち止まった寒川の背にぶつかった。
「落ち着け」
寒川は恩に小さな声で話しかけると、大きな座敷へ二人は入った。庭に面した廊下の戸は開け放されていたが、五月のまぶしい光は深い軒で座敷まで届いていなかった。
座敷には恩が見たこともないような、織物が敷かれていた。その上にどっしりとした卓と椅子が二客あり、立派な髭を蓄えた恰幅のよい男性と、品のよさが伺われる丸顔の女性がそれぞれ座っていた。
「海城さまと、その奥様だ」
恩はおずおずと寒川の後ろに隠れるようにして立っていたが、二人は向かい側の二人掛けの椅子に座るよう指示された。
「どんな山猿が来るかと思ったが、なかなかに顔の整っている」
海城は恩を穴が開くほど見つめてから、たばこにマッチで火をつけた。
「そんなふうにいうものではないですよ。お名前は?」
笑顔の夫人にとつぜん話しかけられ、恩は顔が熱くなった。
「恩、と言います。苗字は、守月。聴力に問題はありませんが、口がきけません」
寒川の言葉に、あら、と夫人は指輪がふたつはめられた手で口元をかくした。
「悪くはない。糸穂」
「はい」
部屋の隅、ひかりの届かぬ位置から声がして、背の高い若い女性が不意に現れた。
「糸穂、この子に御囲様の仕事を教えてやれ」
はい、と女性は返事をした。頭の後ろ、高い位置で結われた長い髪がおじぎとともにさらりと揺れた。うす暗がりにいても、それとわかるほどの色白。そして黒く丸いレンズの眼鏡をかけていた。
恩は糸穂の姿に目が釘付けになった。浅黄色の着物をまとい、すうっと背筋を伸ばして立つ糸穂は、まるで白百合の花のように見えた。
「糸穂、元気そうだな」
寒川が糸穂に声をかけた。おかげさまで、と糸穂は返事をして会釈を返した。
「着替えを」
糸穂はうなずくと、恩を手招いた。
「こちらへ。御囲様の衣装に着替えましょう」
恩は戸惑い、いちど寒川の顔を見た。寒川は恩の背中を押して、糸穂のそばへ行くよう無言で伝えた。
糸穂は恩の手を取った。糸穂の手のあまりの冷たさに、恩は思わず手を離しそうになった。
「……隣の部屋で着替えましょう」
糸穂は恩を二人掛けの椅子後ろへと導いた。襖の向こうには別の女中がいた。
「御囲様のお勤めについている間は、この着物を」
たとう紙の結び目を糸穂がほどくと、目にも鮮やかな赤い振り袖が現れた。
――女の子の着物?
恩は鼻白んだ。赤い着物を、男である自分が着るなんて、おかしいと。
「さあ」
帰る家を持たない恩は、着るしかなかった。
「あら、かわいらしい」
夫人は着替えた恩を見て、第一声をあげた。
「思っていたより、ずっとかわいい。頭に大きなリボンをつけたいわ」
恩は夫人の言葉に、恥ずかしさが頂点に達し顔から火が出そうだった。
「御囲様で遊ぶな。恩は働いてもらうのだから」
海城が夫人をたしなめる。夫人は少し頬を膨らませたが、恩を好奇の目で見ている。
寒川は、お茶を静かに飲んでいたが、飲み終わると早々に立ち上がった。
「それでは、わたくしはこれで」
じゃあ、と寒川はいちど恩を見ると、そのまま退出してしまった。とたんに恩は心細くなって、涙が込み上げてきた。
「だいじょうぶ、わたしがおります」
糸穂がひざを折ると袂から手巾をとりだし、恩の顔にそっとあてた。
間近で見る糸穂の目は茶色というより赤が勝っていた。
「わたしが、ひとつひとつ、お勤めを教えます」
そう言った糸穂から、あの香りがした。山椒の実のような、あれらの纏う香りが。




