糸穂の章 2
糸穂は、初めて汽車に乗った。
銭湯に入った。寒川の知り合いの女の人に、糸穂は洗われた。
初めて車に乗った。外の広さに、糸穂の心ははずんだ。
寒川の手に引かれながら辿り着いたのは、海のにおいと、なにかを燃やすにおいが混じる場所だった。
門前に車から下りると、お屋敷は糸穂の目には大きな影に見えた。
数人の人から挨拶をされて、畳の部屋に入ると、太く重い声がした。
「待ったぞ、寒川」
「お久しぶりです、海城さま」
笠を脱ぐ、と寒川に言われて糸穂は紐を解いて笠をはずすと、声がしたほうに頭を下げた。
「須栗糸穂です」
顔をあげると、一瞬沈黙が流れた。
「色白なのね。御囲様の着物が似合いそうだわ」
女性の声だった。体を動かしたのか、香水が糸穂の鼻に届いた。
「着替えを、トキ」
はい、と低い声がした。声から性別が分からなかった糸穂は戸惑った。
「大丈夫、わたしの大叔母だ」
寒川が糸穂の背中を押した。糸穂の手をしわがれた小さな手へ受け渡された。
寒川の親類ならばだいじょうぶか、と糸穂は思い、おとなしくとなりの部屋で着替えさせてもらった。
赤い着物に袖を通す。ほどよい重さと、触れるとしっとりと肌に馴染むような滑らかさがある。糸穂は今まで着たことがないほど、上等なものだと感じた。
「手ざわりで分かろう、これは絹だ。御囲様の特別な衣裳。糸穂、お前は大きな網元の生まれと聞いたが、絹を着たことがないのか」
「ありません」
トキは、フムと言うと、あとは帯を結んだ。
着替えを済ませて戻ると、大人たちの感嘆の声が糸穂の耳に飛び込んだ。
「思った通りよ、すてき。なんて綺麗な子なのかしら。まるで市松人形だわ」
糸穂の両肩に夫人はほっそりとした手を乗せた。
「糸穂の瞳と着物は、同じ色ね」
夫人は声を弾ませたが、糸穂は急に夫人からの香りに居心地の悪さを感じ、早く手をどけてほしいと思った。
「御囲様って、なんだか怖いと思っていたけれど違うのね、旦那さま。糸穂には、かわいい櫛や着物をたんと買ってあげて」
新しい玩具をてに入れた子どものように、夫人ははしゃいだ。とたんに咳払いがした。寒川だろうか、海城だろうか。
「御囲様は、着せ替え人形ではないぞ。首尾が上々なら、褒美はやろう」
「あ、あの……」
糸穂は何をするのか。まだ誰からも話してもらっていない。顔を左右に巡らせて言葉を待ったが、誰も糸穂に説明する様子がない。
「暮らしの世話はトキがしてくれる。役目を果たせ」
寒川は、手短に挨拶をすると早々に帰っていった。
「さっそく試してもらおうか」
トキが、はいと応えた。
糸穂は、すぐに御囲部屋に入ることになった。




