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御囲部屋の子どもたち  作者: たびー
恩の章

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18/18

糸穂の章 1

恩のお話から、時を遡ります。

糸穂は大きな網元の長女でしたが、あるとき寒川という男が訪ねてきます。

 大正6年(1917)。

 糸穂(しほ)は縁側で雨の音に耳を傾けていた。

 今日は雨、ばあやが梅雨に入ったのだと言う。雨は好きだ。あまり日に当たると、肌が痛くなる。糸穂は、白すぎる肌を持って生まれた。くわえて目はあまり見えない。そのため、いつも耳をすませた。

 雨の音、波の音。

 かすかな湿り気が糸穂の体を覆う。

 差し出した指先に雨粒があたる。くすくすという小さな笑い声とともに、花の香りがする。

 ――いつものだ。だれなんだろう。

 糸穂の長い髪を風が揺らした。まるで誰かが優しく触れたように。

 と、雨の音が変わった。パタパタと傘に当たる音と聞きなれない足音がした。

 花の香りが消えて、山椒の葉のにおいがする。

「こんにちは。あなたは、糸穂さん?」

 聞いたことのない、男性の声だった。


「うちの糸穂を御囲様とやらに?」

 糸穂が寝起きする離れに、珍しいことに両親が来た。

「ええ。わたしは特別な子を探しています。生まれるときに、母親が亡くなった子どもを」

 寒川と名乗った男は、不吉なことを天気の話でもするように口にした。

 父親の姿が揺らいだ。

「それは、そうだが……」

 父が口ごもるのを、隣に座る継母がかすかに舌打ちをしたのを糸穂は聞き逃さなかった。

「旦那さま、糸穂さんをいつまでも離れに置くわけにはいきませんよ。いくらうちが網元だとは言え、息子たちに一生、糸穂さんの面倒をみろとでも言うの?」

 それは、と父の声は尻すぼみだった。

「失礼ですが、こちらには後添いさんとの間にご子息が三人いらっしゃるとお聞きしました。糸穂さんを手放しても差し支えはないのでは?」

 継母は大きくうなずいた。糸穂の視力でもはっきりとわかるほどに。

 糸穂は胸元をきゅっと掴んだ。

「それに、勤め先の海城は会社をいくつも持つくらいの資産家です。糸穂さんが御囲様を勤めあげたのちには、良い嫁ぎ先を用意してくれる手はずになってます」

「いいお話じゃありませんか、旦那さま」

 継母の声は、どこか弾んでいた。

 糸穂には、もう分かった。

 父親は、継母に逆らえないと。

 離れに来る時ですら、妻の留守を確かめてから来る男だ。跡継ぎの男児を産んだ継母に逆らえない。たとえ、美しかったと今だ話に上がる、先妻によく似た娘を手放すことであっても。

「父さま、母さま。しほ、そとにいきます。いってみたい」

 まあ! と継母が手をひとつ打った。

「そうですよ、生まれてこのかた八年も離れから出たことがないんですから、もっともですよ」

 糸穂はなるべく、顔を歪めないようにした。口を引き結んで笑顔を作った。

「謝礼はお渡しします」

 寒川が重みがあるものを、どさりと畳に置いた。

 ふたりが小さく息を飲む音がした。

「よろしいですよね?」

 継母が父親に、釘を刺した。うなずくしかなかっただろう。父親が頭を下げるのを前にして、糸穂はそれでもいっとき息が止まった。

「では、さっそく行きましょう。糸穂さん、出立の準備を」

「い、今ですか? せめて明日にしたら」

 さすがに父が声をあげた。寒川が立ち上がる気配がした。

「今でなければ、だめです。気が変わっても困るので」

 糸穂は急な話に戸惑った。

 今日? いますぐ?

「……ばあや、頼む」

 力ない声で、父は普段糸穂の世話をするばあやに荷物の準備を命じた。

「荷物は必要最低限でかまいません。一時間後に出ます」

 時計は午前十時の鐘を鳴らした。


 何着かの着替えが糸穂の持ち物のすべてだった。裕福な商家から嫁いだ、実母が残した着物や(くし)(かんざし)があったはずだが、それらが糸穂の荷物に入ることはなかった。

「お嬢様、お昼をお持ちください」

 裸同然で外に出される糸穂を哀れと感じたのか、ばあやがおにぎりの包みを渡してくれた。

 抱えると、おにぎりからは磯の香がした。腹にじんわりと温かく、糸穂はばあやに頭を下げた。

「では、これで」

 寒川は糸穂の手を引いた。雨はいつの間にか上がっていた。糸穂は日よけのための笠をかぶり、裏庭からくぐり戸を抜けた。振り返らなかった。振り返っても、何も見えはしない。糸穂は寒川の大きな手に運命を託すしかなかった。

 たちさる生家から、泣き声が聞こえた。

「ゆうぞう……」

「末っ子が泣いているようだな」

「ゆうぞうだけ、わたしと遊んでくれた。まだみっつ。きっと忘れる、わたしのこと」

 赤ちゃんだから、と糸穂は小さくつぶやいた。

「でも、おまえが覚えていたかったら、そうすればいい。おまえの居場所はあそこではない」

 糸穂は目に涙をためて、寒川を見上げた。寒川の顔が見えるわけではなかった。

 ただ、青がひろがっていた。

 

 

 

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