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恩は御囲部屋にいた。
「恩はまもなくここを去るのか。もう十二なのか。いつまでも糸穂の隣に寝ていられないだろうし当然だろう」
からかうような声に恩は顔をしかめながらも、靄たちの話を一言一句逃さぬようにした。
一郎が消えてから四年の歳月が過ぎた。
恩と糸穂の日々は、変わらず御囲部屋とともにあった。恩は赤い振袖を着て、靄たちから話を聞き続けた。聞いたことは半紙に書いて封筒に入れ、食事の差し入れのときに渡すのだ。もちろん、中が見られないように封をして。
恩と糸穂は、海城夫妻と顔を合わせることはなかった。代理の番頭や女中頭が海城と恩たちをつないだ。恩の予測で海城家は再び息を吹き返し、表座敷には軍からの贈り物がうずたかく積まれた。
週に一日、表座敷で過ごすことが許された。恩はモールス信号と手話の本を読み込み、覚えていった。
糸穂は恩のセーターや服を作った。どれもこれも大きめに作られていったのは、やがて海城から出ていく日の準備だろう。それを見るたびに、恩は別れのつらさをいつも考えてしまうのだが。
糸穂と二人きりの暮らしだったが、外の世界に比べればある意味平和だった。
日本は国連を脱退し、ワシントン軍事軍縮条約も破棄して国際的に孤立を深めていた。
国内では二・二六事件が起こり、以降は陸軍の発言力が強まった。
食事の盆に敷かれた新聞が、外の世界をわずかながら教えてくれる。
靄たちの予測はことごとく当たり、三枝大佐は軍での地位をますます確固としたものにしていっているらしい。
「このまま軍隊ばかりが幅を利かせていくのかしら」
糸穂は恩のシャツを縫う手を止めて、表座敷から外を見た。今は五月。もう母屋の庭で鯉のぼりが泳ぐことはない。
――この先のことを知りたければ、前のように誰か……おっと、睨むな。糸穂には手を出せぬ。
御囲部屋は、ひとを喰うのだ。名前を呼ばれて応えたなら、もう終いだ。
赤い壁に今も時折、障子が現われる。恩は、障子に人影が写るのを何度か見た。それは、あの軍人なのか一郎なのか、はっきりとは分からなかったが。障子を開けて、【向こう側】へ行くことができたなら、部屋に喰われた人たちに会えるのだろうか。
もっとも、障子もまた影なので開けることは叶わないのだが。
「寒川さまは、五月の終わりにいらっしゃるそうよ」
糸穂は、先ほど女中頭が来て知らせていったと教えてくれた。
寒川が来るということは、新しい御囲様が見つかったということだ。新しい御囲様と、恩は入れ替わりに任を解かれる。
海城の家を去る日が現実のものになる。恩は手話の本を何度も読み返し、必要な言葉を練習した。それは、悲しみを忘れるためでもあるが、確固とした意志を伝えるための大切な練習だった。
五月の末、寒川は現れた。いつものセーターに一重のコート。初めて会った時より、髪には白いものが目立つようになった。
寒川が連れてきたのは、五歳ほどの少女だった。目鼻立ちのはっきりして、かわいらしい顔をしている。
恩と糸穂は新しい御囲様に、手をついて挨拶をした。
「わたしは、糸穂と申します。あなたさまのお勤めを支えます」
恩は姿勢を正すと、女の子の瞳をじっと見つめて、笑って見せた。女の子は、恩にペコリと頭を下げた。
「糸穂、よろしく頼む。悪いな、なかなかお前をこの仕事から解放できない」
御囲様の世話は、誰彼ができるものではないだろう。結果、経験者である糸穂が残ってしまうらしい。
「わたしは、部屋のそばにいられるだけで」
そう言うと、糸穂はなぜか頬を桜色に染めてほほ笑んだ。
「まあ、そうだろうけれど」
恩は二人のやり取りの意味が分からなかった。一人だけ蚊帳の外に出された感じがして少し腹が立った。
「美津、お勤めに励めよ」
寒川は、美津を糸穂に渡した。美津は大きな目をさらに見開き、糸穂を見つめた。きっと、糸穂の赤い目に驚いているのだろう。
「では、恩。おまえはこちらへ。荷物はそれだけか」
恩はうなずいた。小さなボストンバッグひとつが恩のすべてだった。手話とモールス信号の本、糸穂が作ってくたれセーターやシャツ。それから少しの筆記用具。
今日着ているシャツと上着も、糸穂が作ってくれたものだ。
「恩、元気でね。一年に一度は、寒川さまと一緒にここへ来るでしょう」
「そうだな、金の回収には来る」
寒川は面白そうに、けれど顔をゆがめて笑った。恩は、寒川の袖を引いて手話で話した。
「なんだ? 通訳しろと……別に構わないが」
恩は寒川に手話の通訳を頼み、それから深呼吸をした。長く息を吐いて恩は背筋を伸ばした。
「『糸穂、長い間ありがとう。楽しいときも悲しいときもそばにいてくれてありがとう。ぼくは寒川さんの仕事を手伝って、りっぱなおとなになるよ』って雄々しいな」
寒川は恩の手話に顔をほころばせた。それから、と恩は続けたが、寒川は通訳の言葉を止めて、声を押し殺して笑った。
話し終わった恩は、顔を真っ赤にして寒川をにらんだ。
「分かった、笑って悪かった」
「何か?」
糸穂は首をかしげた。恩は頬を熱くして、寒川の通訳を待った。
「『だから、ぼくが大人になったら糸穂を迎えに来るから、待っていて欲しい』だとさ」
まあ、と糸穂は口に手を当てた。「どうしましょう」と糸穂は頬を両手で挟んで顔を赤くした。
「ありがとう、うれしい。でも、恩が大人になるころには、わたしはおばあちゃんよ」
「そんなの、かまわないそうだ。糸穂はもてるなあ」
糸穂は美津から手を離し、数歩進むと自分より背が高くなった恩を抱きしめた。
糸穂からは、いつか大佐からもらった練り香水の香りがした。鼻の奥と目が熱くなる。恩は涙をこらえた。
「元気で。わたしはここにいるから」
恩は糸穂を一度だけ強く抱きしめ、それから腕を解いた。
「それじゃあな」
寒川の短い挨拶のあと、恩はもう後ろを振り返らず寒川の後に続いた。
母屋を通ることなく、使用人たちの玄関から寒川と恩は海城の屋敷を出た。恩は初めて来たとき以来、海城の屋敷を外から見た。思ったよりも小さく感じた。いや、自分が大きくなったのだ。
「早く乗れ。今日はこれから青森へ行くぞ」
表には、来た時のように車が待機していた。今度は車に酔うことはないだろうか。恩は寒川と並んで後部座席へ乗り込んだ。
「恩、お前の気持ちは分からないでもないが、糸穂には夫がいるからな」
涙をこらえてうつむいていた恩は、顔を上げて寒川を見た。
「あいつは……まあ、半分だけ人だから」
恩は口をあんぐりと開けた。涙は引っ込んだ。
「口を閉めろ、舌を噛むぞ」
いつぞや聞いたセリフを寒川は言った。
車は丘を下っていく。恩は下界へ降りるのだ。
恩の章は、これにて終了です。
次回から、糸穂の章です。




