15
三月の地震から、ひと月が経った。
恩はもとより家から出ることは叶わなかったが、海城は女たちが浜へ行くことをよしとしなかった。海からの風には、独特のにおいが入り混じった。それは陸地に残った海水が腐った匂いだと糸穂は恩に説明したが、そればかりではないことを恩はうすうす察していた。
浜では、片づけと弔いの煙が上がらぬ日はなかった。政府や軍、赤十字からの援助があっても、もとの暮らしに戻るためには、まだまだ時間がかかりそうだった。
片付けも終わらないうちは、流された工場を再建するのは、無理な話で海城のいらだちは募るばかりだった。海城は毎日、何通もの手紙を書き、下男に郵便局へ行くよう命じた。三枝の部下なのか、軍人が時折海城を訪ねてきているようだったが、恩たちに引き合わせることはもうなかった。
海城の屋敷は幸いにも、大きな被害はなかった。そのため、近隣の者たちのために炊き出しをしていた。二年前の冷害のときには、まわりを置き去りにするような商売をしていた海城だが、さすがに此度の大疫災は無視すわけにはいかなかったのだろう。
そんな中でも、まもなく二歳になる一郎は歩くのも上手になり、おしゃべりも上達してきたようだった。母屋のほうから、ときおり軽い足音と一郎のつたないおしゃべり、それから夫人の明るい声が聞こえてくる。恩はその音や声を聞くたびに、小さく舌打ちするのだった。
恩と糸穂は、天井がぬけてしまった居室にとりあえず戻された。世の騒がしさと違い、これと言ってすることもない二人は、以前とは明るく様変わりした部屋で小鳥のさえずりを聞いていた。
糸穂は、恩のセーターを編む。恩は、寒川からもらった本を読む。しかし、心に不安を抱く恩は、本を読もうにも、目が滑り文字が読めない。
恩は、壁がひび割れた御囲部屋をときどき覗いた。春の柔らかな日差しが居室の破れた天井から降り注ぐ。
壊れた天井や御囲部屋のひび割れを修繕をしようにも、職人も材料も足りない状態だ。
御囲部屋の重い板襖は開けられている。中は、わずか六尺(百八十センチ)四方の広さだった。
入って左手の壁は、赤く塗られていた。恩は壁を指でなぞった。
この壁に障子の桟が現れて、桜や柿の影が映ったのは夢か幻だったのだろうか。なんの変哲もない、ただの壁なのに。
御囲部屋は、以前のように山椒の葉の香りもしない。重苦しさや、湿り気もない。
あの靄のような者たちは、消えたのだろうか。
恩は紙を持ってきて、できるだけ大きく文字を書くと、糸穂へ渡した。
なあに、と糸穂は編み物の手を止めて恩から紙を受け取った。
「こんや、おかこいへやにはいる」
糸穂は紙を明るい日に透かしてゆっくり読み上げてから、恩を見た。
恩は糸穂の肩を一回たたいた。
「……そうね。確かめなくては」
電気はまだ復旧していない。夜は依然と同じ闇だ。淡い月の光は届かない。
恩は赤い振袖を糸穂に着つけてもらった。髪は一つに結い上げ、まえに海城からもらったガラス製の簪で留めた。
「では」
糸穂が御囲部屋の板襖を開けた。恩は頭を低くして部屋の中央へ進むと、正座をした。襖が閉じられると、再び闇が訪れた。
恩は静かに待った。待って、待って……。
山椒の香りは漂わなかった。靄たちは現れなかった。壁はただの壁でしかなく、何も写さなかった。
異界との接点は切れたのだろうか。
何も聞こえない。
ならば、自分が御囲様としてここにいる価値はないだろう。用済みとして、海城家から出されるだろうか。
糸穂は? 糸穂と一緒にいられなくなるのかもしれない。
そう思うと、恩は胸のあたりがぎゅっと痛んだ。
部屋が直らなければ、困る。しかし、直ったらずっと靄たちから予測を聞き続けなければならない。予測に嘘が混じったなら、どうなるのか。
恩は外にいる糸穂から声をかけられるまで、部屋の真ん中にうずくまったままだった。
御囲部屋と異界との通路が断たれたことは、恩が肩を落とした様子から糸穂にも分かったようだった。
「早く寒川さまがいらしてくれたなら、いいのだけれど」
糸穂は恩の装束を解き、浴衣に着せ替えてくれた。恩と糸穂は枕を並べて布団に入った。
寒川はいまだ海城家に顔を出さなかった。
糸穂がいうには、寒川はふつう一年に一度しか海城家を訪れないのだという。
「日本のあちこちに、御囲部屋をもつお屋敷があると前に話していたから。それを順に回るようになっているみたい」
ならば、自分と同じような御囲様が何人もいるのかと恩は思った。寒川は、御囲様になれそうな子を探すのが仕事だということだった。
たぶん、虫を使って御囲様になれるかどうか調べるのだ。自分のときのように、と恩は寒川の虫籠を思い出した。目が細かく、何かを話す虫……のようなもの。いつぞやの目の痛みを思い出して恩は背筋が寒くなった。
「旦那様が、腕のいい左官屋を内陸から呼ぶようだから。そうしたら、御囲部屋も直るわ」
きつと、と糸穂は言うと、そのまま眠ってしまったようだった。
海城が頼んだ左官屋はなかなか来なかった。黒く塗られた外側、上から下まで斜めに入った一本の亀裂。御囲部屋は、あれから何度か恩が試しに入ったが、反応がないままだった。いちど糸穂が入ったが、結果は同じだった。糸穂の落胆ぶりは大きかった。
「今年は一郎さまの誕生会は、あまり盛大にはできないわね」
四月半ばを過ぎたが、曇りのせいか肌寒く感じられる日だった。桜は咲いたのだろうか。かすかに桜の花の香りがする。
「せめて、柏餅のお振舞があればいいわね」
糸穂は恩に話しかけた。恩は糸穂の手の甲をひとつたたく。
昼近くになり、恩の腹が鳴るころ、食事を差し入れる扉があいた。いつもの姉やが盆にふたつ、湯気の立つどんぶりを持ってきてくれた。
「今日は冷えるから、あんかけうどんにしたって。いつもより重いからね」
差し入れられたうどんには、かまぼこや小松菜、しいたけが乗っていて美味しそうな出汁のにおいがして恩は唾を飲み込んだ。
恩は空腹のあまり、盆を受け取ってすぐに立ち上がろうとした。どんぶりが盆の上を滑り、恩は熱いうどんをかぶってしまった。
姉やが悲鳴を上げた。
熱いというより、痛い。恩はどうしていいかわからず、暴れた。姉やが人を呼びに走っていく。
「恩、こっち」
暴れる恩の手を糸穂は強く引くと、風呂場の戸を開けた。風呂桶の蓋を乱暴にのけ、手桶で水を恩にかける。
「着物は脱がない!」
糸穂はそう叫んだかと思うと、恩の足を救い上げ、風呂桶に恩を突っ込んだ。手押しポンプを激しく動かし、風呂桶へ水を入れ続けた。
「手、痛いでしょう。水にあてて」
言われるままに、冷たい水を腕を差し入れた。痛みがわずかに引ける。うどんをかぶった肌が赤くなり、火ぶくれを起こしている。
糸穂が小さく安堵のため息をついたとき、不意に男の声が聞こえた。
「いちろう!」
――あいっ。
どん、と部屋が揺れた。
糸穂と恩は張り詰めた顔を見合わせた。
「恩は、そのままでいて」
そう言い置くと、糸穂は足早に部屋へ戻っていった。
恩は、往診を頼んだ医者に火傷の手当てを受けた。
一郎は姿を消した。




