14
昭和八年三月三日、午前二時三十分。
恩は不気味な音を聞いた。地の底で獣がうなるような、何かが大群で押し寄せてくるような低く重い音を。
先に目が覚めたのは糸穂のほうだった。カタカタと屋敷のどこかで音がした。
馬屋の馬の短いいななきが聞こえた。
「恩……」
起きあがった糸穂は小さく恩を呼んだ。が、呼んだ直後、屋敷が大きく縦に揺れた。
寝ている布団ごと、海に投げ出されように左右に揺れる。起きあがろうともがく恩の体の上に、糸穂がおおい被さった。建物がきしんで悲鳴をあげた。
梁や柱が折れるかと思うほどの強い揺れが、どれくらい続いたか。
ようやく揺れが収まり、恩は布団から抜け出した。
目を見開いた。
糸穂が小さくうめいた。糸穂の背には、天井の土壁が崩れ落ちていた。
恩は驚き、糸穂の背から瓦礫を避けて肩を揺すった。
部屋が明るい。見あげると天井のほとんどが崩れ去り、部屋が月明かりに照らされていた。
「恩、けがはない」
恩は首を何度も縦に振った。海城に知らせなければ、と恩は部屋から出ようとしたが、外からの鍵は壊れていなかった。
焦る恩は、扉を何度も何度も力一杯たたいた。手が痛くなっても止めず、ようやく誰かが駆けてくる足音がした。
「恩、糸穂、大丈夫か」
おどろくべきことに、海城が歪んだ扉を壊して飛び込んできた。すぐに糸穂を部屋から担ぎ、母屋へ移動する。そのあとを恩もついて行った。
屋敷の中は、家具が倒れ、足の踏み場もないほどだった。
屋敷の者たちは全員、庭に避難していた。深夜にたたき起こされたこともあり、みな着の身着のままだ。
「糸穂が怪我をした。看てやってくれ。わたしは工場が心配だから、見に行く。自転車はどこだ」
海城は今すぐにでも、駆け出さんばかりの勢いだった。けれど、年輩の下男が止めた。
「旦那様、三十数年前の事をお忘れですか。海に行ってはいけません。津波が来ます」
海城の足が止まった。
ツナミとは何だ。動揺が屋敷の者たちに徐々に広がる。津波を知らぬ恩は、ただこのままでは糸穂が死んでしまうと、不安で泣きそうだった。
「そうよ、行かないで。一郎とわたしだけ、ここの残されても不安よ」
夫人は、宝物の一郎を抱いて、素足のまま庭に立っていた。
いや、けれど、といった押し問答をしているうちに、浜から山の方に、人々がのぼって来た。
「旦那様、どうか、ここにいてください」
下男は深く腰を折り、両手をあわせて懇願した。やがて海城が根負けしたとき、海辺から建物をなぎ倒す音が響いた。
「津波だ」
と誰かが叫んだ。人々は口々叫ぶ。それは悲鳴だったり、誰かの名前だったり。まるで蜂の巣をつついたような騒ぎだ。
水が渦巻く音が響き渡る。
糸穂は恩の手を握って引き寄せた。
「地震の意味をわたしが気づけていたなら……恩は何度も教えていたのにね」
御囲部屋の予測は、幾度となく地震を知らせてくれた。しかし、重大なのは地震のあとに襲い来る津波の事だったのだ。
恩は糸穂の手を握り、涙を流した。
予測は当たった。けれど、多くの命が失われた。屋敷に浜から通いで来ていた下男下女が、数名亡くなった。
海城は缶詰工場を津波に流された。製鉄工場も被害を受け、再建するには多額の費用がかかるのは、火を見るより明らかだった。
そして、御囲部屋の壁には亀裂が入った。
「まったく、これは」
海城は頭を抱えた。
恩と糸穂が寝起きしていた部屋は、天井が抜けて明るい日差しが入るようになっていた。
明るい日のもとで見る御囲部屋は、拍子抜けするほど小さくごく当たり前の小部屋だった。
暗闇の中で入れば、どこまでも大きく、出口が分からなくなるほど、広く感じられたのにと、恩は首をひねるばかりだった。
「寒川はまだ来れないのか」
「今は、山陰のほうに出かけているようで、こちらに来るには、まだ数日かかるようです」
中年の番頭は、海城に頭を何度も下げる。海城が怒鳴ったところで、どうにもならない。
「こんなに壊れて。あちらには繋がるのかしら」
頭と手に包帯を巻いた糸穂が、不安げにつぶやく。
問題は、それだった。
壊れた御囲部屋は、今までと同じく「機能」するのだろうか。もし、機能しないとなると、恩と糸穂は無用となるだろう。海城は用済みとみなされ、軍とのつながりを切られるだろう。
「終わりなのか……」
海城は落ち窪んだ目で、御囲部屋の戸口に立ち尽くした。




