12
表座敷に、海城があわてふためいて現れた。浴衣の前がはだけ裾もひらいている状態だった。
まちうけていたのは、寒川、軍服を着こんだ三枝大佐と、青ざめふるえる部下が一人。
恩と糸穂は、座敷の隅に手を取りあって座っている。
「これは……何が」
「それは、こちらの大佐殿にきかれては?」
腕組みをして座敷の真ん中に立つ寒川が海城に冷たい視線を向けた。
「三枝大佐、なにかうちのものが失礼なことをいたしましたか」
海城は浴衣の乱れを直すのもそこそこに、三枝大佐の前に姿勢を低くして尋ねた。
三枝は黙ったままだった。深夜に近い時間、軍人三名は泊まりのはずだ。しかしまだ夜着にも着替えず軍服のままいることに、疑問を持ったのか、海城は首を傾げた。
「恩がさらわれるところでしたよ。糸穂は首を絞められた」
寒川の言葉に、海城はぎょっとしたように背筋をのばした。
「なぜ。恩のことは、信用されなかったのでは」
なおも押し黙ったままの三枝にかわって、部下が声を上げた。
「た、田中が、田中をどこへやった!」
海城は、あ、と小さく叫んだ。
「そうです、お分かりになりましたか。声に応えてしまったんですよ」
寒川が冷静に口にした。恩は、最初の時に言われた【声に応えてはならない】、という意味が初めてわかり糸穂を見上げた。糸穂は静かにうなずいた。
「大佐、海城の旦那様からどんな話をきいたのか、分かりませんが、未来予測は恩だけではできない。部屋が必要なのです」
「では、帝都の軍事施設内に作らせよう。実証実験させて欲しい、その子どもの書くことが嘘か真か」
ようやく口を開いた三枝は、さらりと言った。糸穂に危害を加えることを躊躇せず、恩を誘拐しようとしたことには一切ふれることなく、ただ恩が欲しいと言いのけた。
「いいえ、作ることはできません。この家の御囲部屋ができたのは、慶応のころのことと実家の者から聞いています。今となっては作り方は分かりません」
「貴様は知らぬと言うのか」
三枝の言葉に寒川は肩をすくめた。
「ええ、わたしはただの「虫取り」ですから」
とたんに海城の顔色が悪くなった。
「虫の知らせで来てみれば、この騒ぎだ。旦那様、目に余るようならば、恩も糸穂もわたしが引き取ります」
「い、いや、困る、それは困る」
海城は青ざめたまま、額から大粒の汗を流した。
「きみ」
寒川は不意に部下の青年に声をかけた。
「田中くんといったか。彼はもうこちらには戻れない。ある意味、事故だ。忘れてくれ」
青年はすがりつくような瞳で大佐を見たが、大佐は「事故だそうだ」と言下に断じた。青年は畳に突っ伏し、声を圧し殺して泣き崩れた。
恩は眼を見張った。あれを事故、だというのか。
糸穂が指をかけられるくらいの隙間だった。その隙間から、御囲部屋に田中は一瞬のうちに吸い込まれた。
「この世ならざるものか。非科学的だな」
三枝は鼻で笑ったが、目は笑っていなかった。
「その非科学的なものにすら、あなた方はすがりたい」
寒川の舌鋒は衰えるところを知らない。恩の肌がぴりぴりと痛くなる。寒川と三枝のあいだに、見えない火花が散っているように恩は感じて糸穂にぴたりと体をつけた。
「海城殿」
三枝は額に手をあて、頭をひとなでした。
「取引だ」
「とりひき、ですか」
海城は、青ざめ体を縮こませて三枝を見た。
「その子の書いたものを、わたしに譲れ。今後、ずっとだ。礼として貴殿に【便宜】をはかろう」
え、と海城は小さな声をあげて肩から力を抜いた。
「いかがか」
「も、もちろんであります! 喜んで」
戸惑いから一転、歓喜の声をあげ、またたくまに頬を上気させる海城を見る寒川の目は冷たかった。
「今までのものも、お見せいたします。ささ、あちらへ」
海城は喜色を浮かべ、三枝を母屋へ案内していく。三枝は、いまだ子どものようにしゃくりあげる部下をどやしつけて部屋から去っていった。
「寒川さま……」
「ああ。糸穂、大事ないか」
今さらのように寒川は糸穂に尋ねた。糸穂は首を縦にふる。恩も同じようにした。
「結局、海城のいいようになったか」
つまらん、と寒川はつぶやいた。
「夜分遅く、悪かったな。わたしは帰る」
「そんな、今から?」
すでに一時は過ぎている。恩は緊張感が切れて眠気が訪れてきた。
「母屋のものに、こちらに寝床を敷き直すよう頼んでおく」
「は、はい」
糸穂は、眠りかけの恩を抱いてうなずいた。
「海城には後日、釘を刺しておく。では、月が照るうちに」
恩は、寒川が月光の下を去っていく様を、夢にみた。




