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去年の一郎のお披露目の時と同じように、恩と糸穂は表座敷に置かれた。あてがわれた着物は、糸穂には縹色の地にカキツバタが描かれていた。恩の着物は茜色に淡い桃色と赤のヒナゲシが散っていた。昨年よりも恩の髪は長くなり、丁寧に編み込まれ硝子の簪で飾られた。
濡れ縁から時折見える真鯉の尾も、運ばれてきたご馳走も去年と同じだった。
「今年は去年に比べて静かね」
糸穂の言葉に恩は糸穂の肩をひとつ叩いた。
海城はあちこちへの付け届けにだいぶ金を使ったらしいが、念願かなって陸軍の軍人を呼ぶことが叶ったらしい。
わが子の誕生会という名目で、軍人を手厚くもてなし関係を作りたいと思っているのだろう。
いずれにしろ、難しい本を読むようになったとはいえまだ八歳の恩には、軍とのつながりを作ることに必死になっている海城の心中は分かりかねた。
「恩、わたしたちはわたしたちで、ご馳走をいただきましょう」
座卓から糸穂に声をかけられ、恩は糸穂の向かいの座布団に座った。お祝いの膳は、鮑や帆立、塩漬けのうに、山菜はワラビにぜんまい、柔らかな姫筍と、海のものも山のものも揃っていた。白米ではなく赤飯というのも祝いの膳に相応しい。
ふだんは、糸穂と裸電球ひとつの狭い部屋で食べていると思えば、表座敷で食べられるだけでご馳走なのだ。料理はどれも美味だった。町の料亭から料理人を呼んできたのだと、いつも食事を運んでくれる姉やが言っていた。
宴では、さらに豪華な料理でもてなされているだろう。けれど、糸穂と二人で食事できることに恩にはなにも不満はなかった。
食事を食べ終わるころ、母屋に通じる廊下の襖が開けられた。
去年のように、寒川かと思って振り返った恩は海城が立っていることに驚いた。
糸穂は座卓から離れ、正座すると掌を畳につけて頭を下げた。恩も急ぎ糸穂にならなったが、慌てすぎて箸を持ったままだった。
「よい、頭を上げよ」
恩は頭を上げて海城を見上げた。どこかそわそわとしたようすで、何度も後ろに視線を送る。
「恩。こちらに」
言われるまま、恩は海城のそばへ歩み寄った。海城とは違う煙草の匂いがした。
「こちら、陸軍の三枝大佐だ」
海城の後ろから壮年の男性が姿を現した。白髪を短く切りそろえ厚いレンズの黒縁眼鏡をかけている。後ろで手を組み背筋を伸ばして、恩を見下ろしている。
恩は思わず半歩後ずさった。海城はわざとらしい笑顔を浮かべて、糸穂に客用の座布団を用意するよう命じた。
「ささ、こちらへ」
海城は三枝を表座敷に通して座布団に座らせた。その向かいに海城が腰を下ろすと、となりに恩は座るように言われた。糸穂は襖の近くに侍った。
「この子が恩です」
恩は手をついて丁寧にお辞儀をした。三枝は近くで見ると体に厚みがあり、どっしりとして見えた。
「この子が先の予測をいたします」
言われて思わず恩は海城の顔を見た。糸穂も動いたのか、後方で衣擦れの音がした。
「去年の冷夏も、満州事変のことも、この子が教えてくれたのです」
教えてくれたのです、という丁寧な言葉に、恩は背筋が凍った。海城は何を言いだすのか予測がつかず、恩は思わず後方の糸穂を見た。
「あ、あの。不躾ではございますが、寒川さまは」
そう尋ねる糸穂の声はふるえていた。海城は明らかにめんどくさそうな顔をして舌打ちをした。
「まだ来ておらん」
「わ、わたくしたちのことは、寒川さまのお許しが無ければ」
「許可など必要ないだろう。寒川はただの『虫取り』だ」
恩はとっさに寒川がいつも腰から下げている、小さな虫かごを思い出した。虫、とはいえあれは虫ではないだろうが。
「きみが恩くんか。年はいくつだ」
三枝の声には温かみがなかった。表情もまったく変わらず、まるで絵が話しているような不気味さを恩は感じた。
「八歳です。恩は口がきけないのです」
海城がとりつくろうにように返事をする横で、恩は畳に額をつけた。
「ならば、どうやって伝えるのだ。文字か?」
「そのとおりでございます」
「こんな子どもが書いたものを信用するというのか、貴殿たちは」
海城は慌てて、恩がもたらした冷夏の予言のおかげで前年から食料や物品を準備することができたことを説明した。
「ひとつ、ふたつの事だけではな。真偽の判別ができぬ」
三枝は立ち上がり、襖を開けた。三枝は、恩をガラスのような目でしばしの間見つめて座敷から出た。三枝は、廊下に待機している部下らしき若い軍人二名を従わせ去っていった。
「お待ちください、三枝大佐」
海城は三枝の後を追って座敷から出て行った。
「恩……」
糸穂は恩を呼んだ。恩はすぐに糸穂のそばに行って、その手を取った。糸穂の手はいつもより更に冷たく恩には感じられた。




