戻らない温もり
夜の街は雨に濡れていた。
駅前の雑踏には傘の群れが行き交い、ネオンが濡れたアスファルトに滲んでいる。
通りを抜けるタクシーの車窓に映る自分の疲れ顔を見て、思わず目をそむけた。
玄関の鍵を差し込み、ゆっくりと回す。
灯りを点けた瞬間、静寂が押し寄せてきた。
秒針の音が壁を打ち続けている。耳障りな音だ。
濡れたコートを脱ぎ、ソファに身を沈める。
ふと視線をやると、部屋の隅に母親の遺影が置かれているのが目に入った。
その瞳が、こちらをじっと見返しているように思えた。
重くなった腰を上げ、遺影の横に置かれた古いタンスの引き出しを開ける。
中には、色褪せた毛糸玉や裁縫道具が整然と並んでいた。
何を編もうとしていたのかも分からない。
思い出すのは、台所の椅子に腰かけて針を動かしていた姿だ。
手元は不器用で、形は歪んでいた。
それでも、何かに縋るように編み続けていた。
あのとき、自分は冷笑した。
「そんな手間のかかる物に何の意味がある」
「買うのは簡単よ。でも、手で編ぐとね、気持も一緒に込められるの」
「ふっ……合理的じゃないな」
結局、編み終わった物を身に着けたことはなかった。
彼女の考え方がうっとおしくなったのは、いつからだったろう。
仕事に没頭すればするほど、彼女の眼差しから目を背けていた。
遺影の瞳は黙ったまま、変わらずこちらを見ている。
問いかけに答えるように、口を開くことはない。
彼女が残していったものは何だった?
この編み物か?この家か?そんなことを考えた時。
はじめて・・・いや気づいていた。
自分は彼女の愛を、無碍にし続けてきたことに。
――そう、残されたのは、この寂しい空間と、もう二度と戻らない温もりだった。
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※この短編にあわせて制作したインスト曲をYouTubeで公開しています。
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[戻らない温もり](https://youtu.be/kgMAV4cBnVY)




