第8部 第5話『始まりの仏 ― 阿耨多羅三藐三菩提 ―』
第5話
『始まりの仏 ― 阿耨多羅三藐三菩提 ―』
輪廻界に突如、風が吹いた。
だがそれは物理的な風ではない。
記憶と記録、存在の因果をかき混ぜる――「縁風」。
世界の核心に近づいたときのみ発生する、因果の“共鳴現象”だった。
『創神核、崩壊率48%……このままでは……!』
プロト=エルは動揺していた。
仏の無詠唱魔術《無相・五輪転界》は、想定をはるかに上回る干渉力を持っていた。
彼の全存在構造が、因果そのものから削られていく。
その時だった。
空間が裂けた。
いや、時間の裂け目だ。
未来でも過去でもない、“観測されなかった歴史”が露わになる。
そこに立っていたのは、
全身を無数の蓮と経文に覆われた、巨大な存在。
仏に似ている――だが、違う。
「あれは……“始まりの仏”……?」
ミアが膝をつき、震えながら口にする。
「阿耨多羅三藐三菩提……」
すべての悟りの始まり。すべての終わりの先にある“空”。
この世界で最初に“仏”と呼ばれた、原初の存在。
仏――現在の主人公が、深く礼をとった。
「我が前世にして、かつての私。
あれは“仏が仏になる前”、最も純粋な悟りそのもの」
阿耨多羅は言葉を発さなかった。
しかしその目が、プロト=エルに向けられた瞬間――
神は崩れた。
『……定義不能……概念領域外の存在……っ!』
創られし神にとって、“設計されていない存在”は致命的。
神のすべては理論と法則で成り立っている。
だが、仏はその“枠外”だ。
そして阿耨多羅三藐三菩提は、それすらも超えていた。
「プロト=エル。貴様が恐れたのは、私ではない。
この“原初仏”の出現こそが、お前の敗北だ」
プロト=エルの神核が砕ける。
螺旋は消え、光は散り、
彼は静かに消滅していった。
そのとき、大仏の耳元に――低く深い声が響く。
「まだ終わってはならぬ。
この戦いの“真の相手”は……
神を創った者だ」
仏の目が、空の向こうを見た。
遥か天上。次元の壁を越えたさらに上に、
誰かがこちらを――笑っていた。
次回:第6話『創神を創った“無”の王』