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Karmafloria(カルマフロリア)  作者: 十六夜 優
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第67話 名を呼ぶ違和感



 ガバゼの家を出たころ、王都の空はゆっくりと色を変え始めていた。

 石畳は夕陽を吸ってぬるく、通りを歩く人々の影だけが長く伸びる。


 ——日記。


 胸の奥に、紙の匂いが残っている気がした。

 ガバゼが几帳面に綴っていた文字。村を守れなかった悔しさ。教会へ預けた少年のこと。

 そして、ひとつの名前。


「……ミギド」


 口に出したわけでもないのに、舌の奥でその音が転がる。


 夢の中で見た光景が、ほんの一瞬だけ浮かんだ。

 白い机。冷たい光。誰かの背中。

 燃える村の匂いがした気がして、シアは無意識に呼吸を浅くした。


(……いや)


 すぐに首を振る。

 夢は夢だ。今は王都にいる。現実は目の前にある。


 前を歩くダイの背は大きく、どこか頼もしい。

 その横にはユキ。いつも通り真っ直ぐに歩いている……はずなのに、シアには、彼女が少し遠く見えた。


 耐えきれなくなって、シアはダイに声をかけた。


「ダイさん」


「ん?」


「……“ミギド”って名前、よくあるんですか?」


 自分でも、妙に平坦な声だと思った。

 雑談みたいに聞いたつもりなのに、喉が乾いている。


 ダイは一瞬、歩幅を落としてから答えた。


「いや。魔族の名は、基本的にひとつだ。姓も家名も持たないやつが多い。だからこそ、被らないようにする」


「被らないように……?」


「ああ。似た音も避ける。名前が重なると、戦場でも駐屯地でも混乱するからな。そういう文化が根付いてる」


 軽く言っているのに、シアの背筋だけが冷えた。


(被らない……)


 夢で見た——と、確信したくない断片。

 その中で確かに聞こえた音。

 日記に記された少年の名。


 偶然だ、と言い切るには、引っかかりが強すぎる。


 シアは唇を噛んだ。


(……まさか)


 喉まで出かけた言葉を、飲み込む。

 目の前にはユキがいる。ダイがいる。ミサヤもいる。

 誰の顔にも影を落としたくない。何より——ユキに、余計な不安を渡したくない。


(たまたまだ)


 自分に言い聞かせるように心の中で繰り返す。


(王都だ。人も多い。旅人も多い。名前が似ることくらい……ある)


 そう理屈を並べても、違和感は消えなかった。

 むしろ、脳の奥に刺さった棘みたいに、じわじわ痛む。


 歩きながら、シアは隣をちらりと見た。


 ミサヤはいつも通り穏やかな表情で、少し後ろを歩いている。

 その顔を見ていると、余計に混乱する。


(……この人が“ミギド”なわけないだろ)


 背丈も雰囲気も違う。声も違う。

 それでも——夢の中の“背中”と重なる気がする瞬間がある。

 理屈では否定できるのに、感覚が勝手に揺れる。


「……シア」


 ユキの声で、シアは我に返った。

 彼女が、真横からこちらを見上げている。


「さっきから変だよ。どうしたの?」


「え? いや……なんでもない」


「なんでもない、って顔じゃない」


 ユキの目が細くなる。

 怒ってはいない。むしろ心配している。だからこそ、刺さる。


「……ただ、考え事してただけだよ」


「考え事?」


 ユキは一歩だけ距離を詰めて、声を落とした。


「私に言えないこと?」


 シアの胸がきゅっと縮む。

 隠しているつもりはないのに、隠しているように見える。

 それがいちばん怖かった。


「違う。……言えないっていうか、まだ自分でも整理できてないだけ」


「ふうん」


 ユキは納得していない顔をしたが、それ以上は追及してこなかった。

 その優しさが、さらにシアを黙らせる。


 ダイは前を向いたまま、ぽつりと言った。


「……王都に着いたら、今日は休め。明日から動く」


「はい」


 シアは返事をした。

 けれど、ダイの声にも少しだけ硬さがあった気がした。


 ——違和感。


 自分だけじゃないのかもしれない。

 そう思うと、さらに息が詰まった。


     ◇


 宿に着くころには空はすっかり暗くなっていた。

 王都の夜は明るい。通りには灯りが連なり、どこからか楽器の音が混じる。

 それでも、シアの心は沈んだままだった。


 部屋へ戻るため階段を上がる。

 廊下の途中で、ダイがふと立ち止まった。


「ユキ、少し」


「……はい?」


 ユキが振り返る。

 シアは条件反射で足を止めたが、ダイは視線で「先に行け」と伝えてきた。


「え、でも——」


「シア、休め。明日は動く。……頼む」


 言い方は柔らかいのに、拒めない圧がある。

 シアは頷いて、部屋へ向かった。


 扉の前で、一度だけ振り返る。

 ユキが戸惑いながらも、ダイの方へ歩み寄るのが見えた。


 扉を閉めると、宿の物音が急に遠くなった。


(……何話してるんだろ)


 気になって仕方ない。

 けれど、聞き耳を立てるような真似はできない。


 シアはベッドに腰を下ろし、手のひらを見た。

 白くて、何も変わっていない。


(瘴気をあれだけ浴びたのに……本当に、異常がない)


 その事実が、逆に不気味だった。

 自分の身体が自分のものじゃないみたいに感じる。


(蝶の力……)


 ふと、あの黒い蝶が脳裏をよぎった。

 望んだことのない力。得た瞬間から世界の中心に放り込まれた感覚。


(……俺は、何者になってるんだ)


 答えは出ない。

 ただ、胸の奥に薄い不安が溜まっていく。


     ◇


 ——その頃。


 廊下の端で、ダイはユキに向き直っていた。


「……シアの様子が、おかしい」


「おかしいって……どこが?」


 ユキの声は強い。反射的な防御だ。

 ダイはそれを責めず、静かに続けた。


「何かを知っているように見える。判断が……早すぎる時がある」


「それはシアが賢いからでしょ。考えて動ける人だから」


「そうだな。俺もそう思いたい」


 ダイは一度言葉を切った。


「だが、違和感がある。……俺は指揮官だ。違和感を見落として命を落とすのがいちばん怖い」


 ユキは言葉を失った。


「……ダイさん、シアを疑ってるの?」


「疑ってる、というより——警戒してる」


 ダイの目は、柔らかいのに鋭い。


「シアが悪いと言っているわけじゃない。だが、“シアがいることで大ごとになっていない”……それが続きすぎている」


 ユキの喉が鳴る。

 胸の奥に、触れたくないものが浮かんできた。


(……確かに)


 街で襲撃があったとき。

 カグヤが暴走しかけたとき。

 パロが暴れたとき。


 いつも、最後に踏みとどまれた。

 その中心に、シアがいた。


「……シアは、私の……幼馴染だよ」


 ユキは絞り出すように言った。

 その言葉が、自分に言い聞かせるみたいに聞こえてしまって、余計に苦しくなる。


 ダイは少しだけ表情を緩めた。


「分かってる。だから、お前に話した」


「……」


「お前が一番近い。シアが揺れたとき、支えられるのはお前だ」


 ユキは唇を噛んだ。


(支える……?)


 支えられる自信がある。

 そう言い切りたい。

 けれど、胸の奥に小さな疑問が生まれてしまった。


(今のシアは……本当に、私の知ってるシア?)


 蝶の力を得て、突然、世界の中心に立った。

 それなのに、本人は「普通」でいようとする。

 笑って、優しくて、いつも通りで——


 だからこそ怖い。


 ユキは目を伏せた。


「……私、シアのこと疑わない」


 言い切った。

 でも、声が少し震えた。


 ダイはその震えを見逃さなかったが、追い込むようなことはしなかった。


「それでいい。……ただ、見ておけ。何かあればすぐ言え」


「うん」


 ユキは頷いた。

 そして、扉の向こうにいるシアを思い浮かべる。


(シア……)


 守りたい。

 信じたい。

 でも、不安がゼロにはならない。


 その夜、ユキは初めて、自分の中に「距離」が生まれたことを自覚した。


 それはほんの僅かで、触れなければ壊れないくらい小さい。

 けれど確かに、二人の間に——名もない影が落ち始めていた。

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