第63話 始動の夜:目覚め、涙、そして揺らぐ均衡
夜は静かだった。
村の医療棟は、夕刻の戦いの余韻を抱えたまま、
ひっそりと冷えた空気をまとっている。
別室ではパロが眠り続けていた。
魔力の漏出は止まらず、器の崩壊は進み、
生命力が削がれていく気配だけが淡く漂っている。
そして、その変化を静かに観察している者がひとりいた。
◆
ミサヤはパロの寝台脇で、
薄い光の糸を指先に絡めながらつぶやいた。
「……やはり、早すぎるな」
感情の乏しい声。
糸はパロの胸元へ触れ、内部の“崩壊”を読み取っていく。
(これでは……段階が拾えない。
変質の過程を追うには速すぎる……)
魔力の波形を思考の中で組み替えながら、
別の答えを呼び戻すように瞼を閉じた。
(——あの男。
ガバゼのほうが、はるかに有用だ)
(崩れ方は緩やかで、変質の始まりも終わりも明確だった。
あれをもう一度……追うべきだ)
ひとつ息を吸う。
「……どちらが“鍵”なのか。
必ず突き止める……」
その囁きだけが、医療棟の静寂をわずかに震わせた。
◆
その頃。
隣室の寝台で、シアの瞼が震えた。
ゆっくりと息を吸う。
胸に残っていた重さや痛みはもうない。
(……夢……?)
意識の奥に残っていたのは、燃える村。
崩れ落ちる建物。
膝をつき、ひとり嗚咽する青年の背中。
なぜだか——その姿だけが鮮明に焼きついていた。
(……誰だろ……
どこかで……会った……?)
ぼんやりとした疑問が胸に残る。
◆
「シアっ……!」
耳に届いた声は、震えていた。
シアが身じろぎした瞬間、
ユキが勢いよく飛び込んできた。
目元は赤く、頬には涙の跡。
迷いも遠慮もなく——抱きしめた。
「よ、よかった……!
もう、目を開けてくれないかと……!」
「ユキ……?」
「怖かったんだよ……!
あんな瘴気、浴びて無事なはずないって……!」
声が震え、涙がぽろぽろ落ちる。
強がりな彼女が、こんなふうに泣くのは珍しい。
シアは一瞬驚いたが、
すぐにそっと背に手を添えた。
「ただいま、ユキ」
「ばか……!」
涙が胸元に染み込む。
◆
「お、おい……! 起きたのか!」
ユキの声を聞きつけて、
ダイが大股で部屋に入ってきた。
「よかった……本当によかったぞシア!
医者が“体に異常反応なし”だとよ。
あれだけ浴びて無事なんて、聞いたことがない」
「そんな……僕はただ……」
「無理するな。
だが問題ないなら——明朝、王都へ向かいたい」
その声には隊長としての判断と、
仲間を案じる温かさが混ざっていた。
「……僕も行きます」
「そう言うと思った。
だが今日は休め」
ダイは少し笑うと肩をすくめる。
「それと報告だが……“あれ”から魔獣どもは普通に戻ったらしい。
というか、お前らが散々倒したおかげでだいぶ減ったそうだ。
下の者にも調べさせたし、ギルドにも行ってきた。間違いない」
「よかった……」
シアは安堵の息を吐く。
だがすぐに別の不安が喉を詰まらせた。
「……カグヤと、エリスは?」
「まだ報告はない。
だが、あの二人はタフだ。信じて待とう」
ダイの声は静かだが強い。
◆
その時、扉が軽く叩かれる。
「やあ、ごめんね。様子を見に来たよ」
ミサヤが顔をのぞかせた。
相変わらず落ち着いた微笑みをたたえている。
「とりあえず今日は休んで、明朝に出発ってことでいいのかな?」
「ああ。“途中からでも聞こえていたな?”」
「うん。
……シアくんが戻ってきたようで、本当に安心したよ。
僕は後方支援しかできないからね。
君の働きには救われた」
「いえ……ミサヤさんの支援があったからこそです。
僕の方こそ……ありがとうございました」
そう言って頭を下げた瞬間。
(……なんだろう……この違和感……)
胸の奥に、言葉にできないざわつきが残る。
ミサヤはただ優しく微笑み返した。
「そう言ってもらえると嬉しいよ」
柔らかな微笑み。
けれど——底が深すぎて触れられない。
◆
夜が深まる。
灯りが落ちた部屋で、
シアは天井を見つめたままゆっくり息を吐いた。
(あの夢の青年……
僕は……どこで……)
まぶたを閉じると、
燃える村の残像が淡く滲む。
青年の顔は炎に隠れて見えなかった。
だがその背中には——
どこか、悲しみと怒りが混ざっていた。
(……気になる……)
その違和感だけが、静かに胸の奥で灯り続ける。
王都への旅立ちまで、あとわずか。
そして崩壊の本流は——
この夜を境に確かに動き始めていた。
---




