第59話 始まる崩壊と知らぬ過去
魔獣たちの咆哮は、もうどこにもなかった。
辺り一面に、黒く崩れた魔獣の死骸が転がっている。
ダイの大斧も、ユキの氷柱も、シアの魔力も——全部を出し切って、ようやく押し切った数だった。
(……多すぎだよ、これ……。
ガバゼの時より、絶対多い……)
シアは荒く息を吐きながら、胸を押さえる。
ガバゼとの戦いからは日も経っていて、あの時の疲労はほとんど抜けていたはずだ。
なのに今日だけ、魔力の減り方がおかしいほど早い。
そんな中——ただ一人、まだ戦いの中に取り残されている者がいた。
パロだ。
膝をつき、壊れたようにうわ言を繰り返す青年の身体から、黒い靄が漏れ続けていた。
「なんでだよ……なんで……!
隊長は……俺たち守って……死んだのに……!
なんで……お前らなんかと……!」
その叫びに合わせて、瘴気がぶくり、と膨れ上がる。
「パロ、やめろ!」
ダイが一歩踏み出した瞬間、濃くなった瘴気が壁のように立ちふさがり、彼の足を止めた。
空気が、全身を責め立てるように重くなる。
(……器が、もう限界なんだ……。
このままじゃ——)
シアは前に出た。
「シア! まだ魔力、残ってるのか!?」
「……少しだけなら、まだ……!」
自分に言い聞かせるように、シアは腕を前へ突き出す。
白い魔法陣が展開され、半透明の盾がその前面に現れた。
その瞬間——瘴気の奔流が、彼に向かって一斉に噴き上がった。
「っ……!」
盾が悲鳴を上げるみたいにビリビリと震える。
魔獣との連戦で削られた魔力に鞭を入れて、シアは必死に押し返した。
(抑えないと……! ここで抑えないと、村まで……!)
歯を食いしばった、その時。
胸の奥が、ふっと熱くなった。
視界の端に、淡い光の糸が揺れる。
それは、すぐ後ろに立つミサヤの指先から伸びていた。
「……大丈夫。少しだけ、力を分けるよ」
静かな声。
光の糸がシアの胸元へ吸い込まれ、枯れかけていた魔力に、ほんの少しだけ“余白”が戻る。
「ミサヤさん……!」
(今の……分配の、糸……)
シアはほんの一瞬だけ振り返りかけたが、すぐに意識を前へ向け直す。
「まだ……いける!」
盾が再び強く輝き、瘴気の勢いがわずかに鈍る。
だが——その代わりに、別のものがシアの中へ流れ込んできた。
——赤い空。
——燃える家々。
——石畳に広がる血の跡。
——地面に倒れた魔族たち。
——その中心で、黒い外套の背中が、ひとり膝をついている。
(……誰……?)
頭の奥に、ひどく重い感情がもつれ込んでくる。
悲しみとも怒りとも違う、どうしようもない“終わり”の気配。
胸が締め付けられ、息が止まりそうになる。
同時に——盾が、音を立ててひび割れた。
「——っ!」
次の瞬間、白い盾が粉々に砕け散り、黒い瘴気がシアの身体を正面から打ち抜いた。
視界が反転し、地面が背中を叩く。
肺から空気が全部押し出され、声も出ない。
(あ……やば……)
遠くで誰かが叫ぶ声がする。
「シアっ!!」
意識が一度、真っ暗になった。
◇
——何か、あたたかいものが頬に落ちてくる。
「……シア、ねぇ、シア……!」
ユキの声だ。
瞼が重い。身体は鉛みたいに動かない。
それでもどうにか目を開けると、涙で滲んだユキの顔がすぐ近くにあった。
「ユキ……」
「よかった……まだ、息してる……」
震えた声でそう言って、彼女はぎゅっとシアの服を掴んだ。
その後ろで、パロがうわ言のように言葉をこぼしている。
「ごめん……ごめん……ごめん……
隊長……俺……また……」
涙と一緒に、黒い靄がまだじわじわと漏れていた。
さっきほどの勢いはないが、放っておけばまた暴走してもおかしくない。
ユキの表情が、きゅっと固くなる。
「……もういい加減にして」
すっと立ち上がると、パロへ向けて一歩踏み出す。
足元に、青い光が円を描き始めた。
「これ以上、誰も傷つけさせない。
たとえ、あなただとしても——」
氷の魔法陣が、完成へ向けて構築されていく。
その瞬間だった。
シアの脳裏に、さっきの断片がもう一度焼き付いた。
——燃え盛る村。
——炎の中で膝をつく、誰かの背中。
——崩れ落ちていく影。
(あの人……きっと、この先で……終わるんだ……)
意味なんて分からない。
顔だってちゃんと見えなかった。
それでも“あの背中の続き”を、シアのどこかがはっきりと恐れていた。
そして——
ユキの背中が、その影と重なって見えた。
(やだ……!)
身体が勝手に動いた。
「ユキ……やめろ……!」
声になっているかどうかも分からない。
それでも、震える手をどうにか伸ばして、彼女の手首を掴んだ。
その瞬間——
シアの中に残っていたわずかな魔力と、
胸の奥にまだ繋がっていた“分配の糸”の余韻が、一気にユキの魔法陣へ流れ込んだ。
青い陣へ、白い光がぱっと混ざる。
「えっ……?」
氷の魔法陣が、一度だけ眩しく明滅し——
まるで最初から存在しなかったかのように、霧のように消えた。
ユキが驚いて足元を見る。
「今の……私、何も——」
ただ一人だけ、その現象の意味を正確に捉えた者がいた。
(……器が揺れた瞬間に、別の魔力が入り込んだ……)
少し離れた場所で、ミサヤが静かに目を見開く。
(分配の糸を通して、シア君の魔力がユキの魔法に干渉した……
あの短時間で、“二人の器”が重なった……?)
興味。
好奇心。
そして、それに似た何か、もっと暗い執着の芽。
(やっぱり……君たちは、特別だ)
ミサヤの視線がユキの横顔を捉えた瞬間——
シアの指先から、力がすっと抜けた。
(ユキは……ああなっちゃ駄目だ……)
意味の分からない恐怖と、不思議な確信だけを胸に抱いたまま、
シアの意識は、深いところへと沈んでいく。
◇
——静かな部屋の匂いがした。
目を開けると、そこは薄暗い石造りの一室だった。
壁際には本棚が並び、机の上には紙束と金属片、魔法陣の描かれた板が散らばっている。
(……知らない場所……?)
だけど、どこか懐かしいような、胸の奥がざわつくような感覚がある。
自分がそこに立っているようでいて、
同時に“誰かの背中ごしに世界を見ている”ような、不思議な視点。
机の前に、一人の青年が座っていた。
角は小さく、地味なコートを着た魔族の青年。
その上から白衣を羽織り、真剣な顔で金属の筒のようなものをいじっている。
「……やっぱり、魔法陣を全部刻み込むのは無理があるな」
彼は小さく息を吐き、メモにペンを走らせる。
《魔力銃・試作第五号
発動タイミング不安定
転写魔法陣、固定率低い》
(魔力銃……)
聞き覚えのない言葉なのに、妙に胸に引っかかった。
「でも、これが完成すれば……前線の負担は確実に減る。
危ない場所に立たなくても済む兵士が、少しでも増える……はずだ」
ぽつりとこぼした独り言は、真面目で、まっすぐで。
シアは、どこか自分と似た匂いを感じてしまう。
青年の胸元には、小さな名札が揺れていた。
そこに刻まれた文字が、ぼやけていた視界の中ではっきりしていく。
——《Migido》
(ミギド……)
呼んだ覚えはないのに、名前だけが、するりと心の中に落ちた。
コンコン、と戸口がノックされる。
「おーい、ミギド。まだ起きてんのか」
がっしりした体格の魔族の男が顔を出した。
「また徹夜か? お前、倒れるぞ」
「そんなに時間、経ってました?」
ミギドと呼ばれた青年は、慌てて立ち上がる。
目の下に隈はあるが、その瞳はまだ死んでいない。
「せっかく前線が少し落ち着いてきたんだ。
お前の研究も大事だが、倒れたら元も子もねぇだろ」
「分かってますよ。……でも、今のうちに進めておきたいんです。
これが形になれば、あいつら——前で戦ってる連中が、少しは楽になる」
同僚は肩をすくめて笑う。
「ま、そういうとこが“らしい”っちゃらしいけどな。
……家族には、ちゃんと顔見せてんのか?」
「昨日は帰りましたよ。弟がうるさいんで」
ミギドは、少し恥ずかしそうに目をそらした。
「“兄ちゃんの作る武器はすごいんだぞー”って言って回ってるらしくて。
やめてほしいんですけどね、そういうの」
「いいじゃねぇか。自慢の兄ちゃんってこったろ。
……ほら、今日は切り上げろ。また明日でも死なねぇよ、その鉄くずは」
同僚はひらひらと手を振って出ていった。
部屋に一人残され、ミギドは机の上の分解された魔力銃を見下ろす。
「……死なないで済むなら、いいんですけどね」
小さくつぶやき、ランタンの火を落とした。
◇
研究所から坂を下ると、小さな石造りの村が見えた。
家々の窓から、あたたかな灯りが漏れている。
扉を開けると、エプロン姿の母が振り返った。
「おかえり、ミギド」
「ただいま。……遅くなりました」
炉端には白髪混じりの祖父が座り、テーブルに座った弟がパンをかじっている。
「遅い! 兄ちゃん、また研究してたでしょ!」
「ごめん、ごめん。ちゃんと帰ってきたから、許して?」
「むー……今度、研究所連れてってよ。
兄ちゃんの“かっこいい武器”見たい!」
「かっこよくはないですよ。ただの道具です」
「そういうとこが真面目なのよね、あんたは」
母がくすりと笑い、祖父も目を細める。
「でも、ミギドの作るもんで助かる命があるなら、それはいい仕事だ。
お前はお前のやり方で、戦っとるんじゃよ」
「……守れたら、いいんですけどね」
ぽつりと返したその言葉には、まだ澱みがなかった。
ただ、自分の力で誰かを救いたいと願う、ひとりの青年の想いがあるだけ。
この世界の、本当の理不尽を——
彼はまだ知らない。
それでも、どこかで、
シアはその背中が“あの炎の中の影”へと繋がっていく予感を、薄く感じていた。
(……この人が、あの時の——)
問いかけようとしたその瞬間、夢は一度ふっと揺らぐ。
それでも、物語はまだ終わらない。
ミギドの過去は、ここから崩れ始めるのだから。
ご一読いただきありがとうございました。
誤字などございましたらコメント等含めて教えていただけると幸いです。
よろしくお願い致します




