第45話「夜の兆し」
夜の帳が、静かに魔界の森を包み込んでいた。
空は人間の世界よりもずっと深い色をしている。紫と黒が混じったような夜空に、赤味を帯びた星がいくつも瞬いていた。見上げているだけで、どこか別世界に来たのだと改めて思い知らされる。
魔王軍の駐屯地。その一角で、シアたちは小さな焚き火を囲んで腰を下ろしていた。
パチパチと薪のはぜる音と、遠くで聞こえる武器の手入れの金属音。どこかから、魔族兵たちの笑い声と怒号が混ざったような喧騒が、くぐもって届く。
「……明日から、どう動こうか」
焚き火の炎を見つめながら、シアが口を開いた。揺れる橙色の光が、銀色の髪と赤い瞳に淡く映る。
エリスが膝の上に広げた簡易の地図に指を置きながら、「うーん」と唸る。
「ここが今いる駐屯地でしょ? で、この先が街? 魔王城は、そのずっと向こうなんだよね」
「そうだな」
ユキが腕を組み、地図と周囲の様子を交互に見やる。
「でも、私たちが勝手に動き回れば、それこそ“侵略しに来た人間”扱いされる可能性もあるわ。今日の森での戦いも、大規模魔法を使えなかったのはそういう理由でしょ?」
「ですねぇ……。あそこで大魔法ぶっ放してたら、“はい戦争スタート!”って合図にしか見えませんもんね」
エリスが苦笑まじりに肩をすくめた。
シアは小さく頷く。
「ここの人たちの事情もわからないまま、僕たちの都合だけ押しつけるわけにはいかない、ってことだよね」
そのときだった。
「……一つ、いいか?」
焚き火の向こう側で黙っていたカグヤが、ゆっくり顔を上げた。灰色の髪が炎に揺れ、その暗い瞳が、シアたちを順番に見渡す。
「どうしたの、カグヤ」
「俺、さっき……ガバゼに頼んで、駐屯地の中を一通り見せてもらったんだ」
「え?」
ユキが少し驚いたように目を瞬かせる。
「いつの間にそんなことを?」
「さっき、夕食が終わったあとだ。見回りに行くって言うから、ついでにって頼んだ」
カグヤは淡々と言いながらも、その表情にはわずかな緊張が浮かんでいた。
「で、どうだった?」とエリス。
「……それが、逆に引っかかっててな」
カグヤは少し言葉を選ぶように間を置いたのち、ぽつりと続けた。
「“異常がなさすぎる”」
焚き火の火の粉が、夜空に弾けて消える。
「なさすぎる?」
シアが聞き返すと、カグヤは頷いた。
「ここは魔界の、魔王軍の駐屯地なんだろ? 人間を嫌ってる奴らも多いって話だった。……でも、実際に中を歩いてみたら、誰一人として絡んでこない。睨まれることはあっても、ただそれだけだ」
「普通に考えたら、それってむしろ平和でいいことなんじゃないの?」
ユキがやや困ったように問うと、カグヤは首を横に振る。
「……俺は、むしろ“変”だと思った。ここの連中の視線は一様に冷たい。人間への嫌悪も、警戒もしている。でも、そこから先がない。怒鳴りつけてくるやつもいないし、挑発してくるやつもいない」
「それは……逆に統率が取れてるってことじゃ?」
エリスが首を傾げる。
「統率っていうより……“揃いすぎてる”って感じだ」
カグヤは胸元に手を当て、ゆっくりと息を吐く。
「魔力の流れも、妙に整いすぎてる。怒りや憎しみを抱えてるはずの奴らの魔力が、どいつもこいつも“同じ方向”に、同じ強さで流れてる。……まるで、全部まとめて同じ型に押し込められてるみたいに」
シアは目を細めた。
「……誰かが、意図的に?」
「断言はできない。でも、そうとしか思えないぐらい“揃って”た。俺がうろついてても、誰も本気で絡んでこないしな。普通、魔王の息子だってバレたら、もっと面倒なことになるだろ」
「それは、まぁ……」
シアは苦笑しつつも、内心のざわつきを抑えられずにいた。
――僕も、少し前から感じていた。
誰かに見られているような、胸の奥がざわつくような感覚。魔界に入ってから、ずっと。
「……なあ」
シアは焚き火の炎を見つめたまま、口を開いた。
「僕もさ、ここに来てから、変な感じがしてた。森でも、駐屯地に入ってからも……“どこかから見られてる”みたいな。うまく説明できないんだけど」
「シアまでそう言うってことは、やっぱり何かあるのかもね」
ユキが真剣な表情になる。
「うん。だからこそ――」
カグヤが続けようとした、その瞬間だった。
駐屯地の門の方から、荒々しい足音が一気に近づいてくる。
「が、ガバゼ隊長ッ!!」
息を切らした魔族の兵士が、ほとんど転がり込むように駐屯地の中央へ飛び込んできた。周囲の魔族たちが一斉に視線を向ける。
「なんだ騒がしい」
低い声と共に、ガバゼが姿を現した。黒く重厚な鎧、短く刈られた黒髪、額から伸びる角。鋭い目が、駆け込んできた部下を射抜く。
「どうした」
「ま、魔獣の……大規模発生ですッ!!」
兵士は肩で息をしながら叫んだ。
「前代未聞の数です! 周辺の森一帯に、魔獣が溢れ出しています!」
ざわ、と空気が震える。
魔族たちの表情が一瞬にして引き締まった。笑い声が消え、武具を手に取る音があちこちで響き始める。
「……スタンピードか」
ガバゼが忌々しそうに舌打ちする。
「発生位置は?」
「駐屯地の北西、おおよそ一刻の距離です。このまま進めば、近隣の村にも被害が――」
「全軍招集だ!」
ガバゼの怒号が、夜空に響き渡った。
「各隊長は自隊をまとめて整列! 戦闘準備急げ! 遅れた者は置いていくと思え!」
「「はっ!!」」
号令と共に、魔族たちが一斉に動き始める。鎧を身に着け、槍を掴み、魔法陣を描く者たち。駐屯地全体が、一瞬で戦場へ向けて変貌していく。
「スタンピード……」
シアは思わず立ち上がり、拳を握りしめた。
このまま放っておけば、間違いなく周囲の村々が飲み込まれる。森で戦ったときの、あの魔物の数。それ以上の地獄が広がることは容易に想像できた。
「ガバゼさん!」
シアは駆け寄ると、大声で呼びかけた。
「なんだ、人間」
ガバゼが鋭い視線を向ける。
「俺たちも、行かせてください!」
「はぁ?」
ガバゼの眉がぴくりと動いた。
「さっき森で魔物と戦った時、俺たちが大規模魔法を使わなかったのは、戦争の引き金になりたくなかったからです。でも……今は違う。村が襲われるなら、見ているだけなんてできません!」
「そうです!」
すぐ後ろでユキも一歩前に出る。
「私たちは戦力になります。少なくとも、足手まといにはなりません」
「魔物の群れ相手は慣れてますからねー!」
エリスも元気よく手を上げる。
「俺も行く」
カグヤが静かに言った。
「――ここで何が起きてるのか、自分の目で見ておきたい」
四人の視線が、真正面からガバゼに向けられる。
「……」
ガバゼは露骨に嫌そうな顔をした。
「いいか、人間ども。これは魔界の問題であって、お前らの遊び場じゃ――」
「隊長」
そのとき、低くよく通る声が割り込んだ。
重い足音が一つ、二つ。シアたちの横を通り過ぎ、ガバゼの近くに一人の魔族が進み出る。
背が高く、ガバゼにも負けないほどのガタイ。片手で扱うには明らかに大きすぎる戦斧を肩に担ぎ、額から伸びる角は少し欠けていた。鋭い目つきだが、その奥にどこか人間臭い温度がある。
「ダイか」
ガバゼが彼の名を呼ぶ。
「……ああ。分隊長のダイです」
ダイと呼ばれた魔族はシアたちのほうへ視線を向けると、じろりと一人一人を眺めた。
「こいつら、さっき森で暴れてた連中ですよね?」
「ああ。余計なことをしないでいただけただけ、マシだったがな」
「俺の隊に入れます」
ダイはあっさりと言った。
「は?」
ガバゼの声が低くなる。
「責任は俺が取ります。こいつらが邪魔になるようなら、撤退させればいい。それでも――」
ダイはわずかに口角を上げた。
「この状況で、“手を出させてくれ”と言えるやつは、嫌いじゃない」
そう言って、もう一度シアたちへと視線を向ける。
「特にお前だ、銀髪」
「ぼ、僕?」
「おう。なんか、“ただ者じゃねぇ”匂いがする」
ダイは鼻を鳴らす。
「怯えてるようで、その実、全然諦めてねぇ目してる。そういうやつは、よくも悪くも戦場向きだ」
シアは一瞬、言葉に詰まる。
怖くないわけではない。それでも、引き返すという選択肢は浮かびもしなかった。そのことを、目の前の魔族は見抜いていた。
「……隊長」
ダイは改めてガバゼに向き直る。
「俺の分隊に入れて、前線に出します。問題があれば、俺が責任を持って撤退させる。それで、どうです?」
「……」
ガバゼはしばし沈黙し、面倒くさそうに頭をかいた。
「お前な……後で文句言われても知らんぞ」
「そのときは、そのときです」
「チッ……」
ガバゼは露骨に舌打ちし、鼻を鳴らした。
「……勝手にしろ。ただし、俺の邪魔だけはするな。人間ども、お前らもだ」
「はい!」
シアたちは声を揃えた。
ダイは満足そうに頷くと、戦斧を肩から下ろしながら言った。
「よし、決まりだ。お前ら四人、俺の後ろについて来い。はぐれたら知らねぇぞ」
「了解です!」
エリスが勢いよく返事をし、ユキも静かに頷く。カグヤは小さく息を吐きつつ、「よろしくお願いします」と頭を下げた。
駐屯地の門が開かれる。夜の闇の向こうから、遠く低い唸り声と獣の咆哮が響いてきた。地面がわずかに震え、風に乗って血と獣の匂いが運ばれてくる。
魔族たちが次々と駐屯地を飛び出していく。その中で、ダイの背中は一際大きく見えた。
「行くぞ、人間ども!」
ダイが叫び、走り出す。
「うん!」
シアは仲間たちと視線を交わし、頷き合った。
燃え尽きそうな焚き火を背に、四人もまた、暗い森へと駆け出していく。
――魔界の夜が、牙を剥こうとしていた。
更新めちゃくちゃ時間かかって申し訳ございません。
仕事が忙しく…言い訳過多ですが…
ご一読いただきありがとうございました。
誤字などございましたらコメント等含めて教えていただけると幸いです。
よろしくお願い致します




