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カンフー給食  ~後編~

中編からのつづき。


   カンフー給食  ~後編~


「松岡さーん、いらっしゃいますかー」

 教室の前のドアから配達員が覗き込んだ。

 教室の真ん中あたりに座っていた体格のいい男子が手をあげた。

「はーい、ここでーす!」

 配達員は黒いバッグを抱えて、松岡の元へ急ぎ、机の上に大きめのお弁当と小さい箱を置いた。

「神戸牛、松阪牛、近江牛の日本三大和牛の食べ比べセットをお持ちいたしました」

 ええっー!

 ほとんどの生徒が驚きの声をあげながら、松岡の机の周りに殺到した。

配達員は毎度ありがとうございますと言って、教室を出て行った。

松岡はさっそく「オープン!」と言って、お弁当のフタを開けた。

三種類の高級焼肉がズラッと並んでいた。

タレも三種類並んでいて、端の方に黒ゴマのかかった御飯が少しだけ入っている。

 生徒たちは松岡の机を取り囲み、教室に配達された日本三大和牛を見つめる。

「小学生が和牛の食べ比べかよ」「僕なんか一生に一度しか食べられないよ」「いいよなあ、高級焼肉」

みんなは目を輝かせながら、口々につぶやく。

 食材不足による給食一揆も終わり、今日から通常通りの給食が始まる。しかし初日は園芸部が育てた新鮮野菜を中心としたメニューだった。

 それを知った松岡は野菜ばかりだとバランスが悪いからと、肉料理をデリバリーしてもらったのである。もちろん給食も食べる。

「松岡くん、これも高いでしょう」女子が羨ましそうに訊く。 

 昼食前なので、みんなは腹ペコだ。

「まあまあまあ、値段のことは置いといて。料理なんて、おいしければいいのさ」

「出ました、松岡君の十八番、まあまあまあ」

「ははは。からかうなよ」松岡はまんざらでもないという顔をする。

「ねえ、松岡君。お弁当から出ているヒモは何?」女子が訊く。

「ああ、これを引っ張ると、お弁当が温かくなるんだ。同じのが駅弁であるよ」

「えっ、そうなの!?」

「下の方に生石灰と水が入っていて、ヒモを引くと二つが混ざって、熱を発するんだ。しばらくするとホカホカになって、熱々のお弁当が食べられるというわけさ。今は引っ張らないけどね」

 熱々の日本三大和牛とご飯と聞いて、クラスメートは興奮が治まらない。

松岡は配達された日本三大和牛を満足そうに見ていて、ふと遠くに視線を感じた。

みんなが机の周りを取り囲んでいる中、一人でポツンと座っている山ノ藤が悔しそうな顔でこちらを見ていたのだ。

松岡と山ノ藤はその日の給食が気に入らないとき、近所の料理店からデリバリーを頼む。

先日、松岡はウニのメガ盛り濃厚クリームパスタをデリバリーしてもらったのだが、山ノ藤が頼んだ懐石料理に負けてしまっていた。今日はそのときのリベンジの意味もあり、奮発して日本三大和牛の食べ比べセットを注文していたのだ。

よしっ、これで勝ったな。

松岡は山ノ藤の悔しがる顔を見て、勝利を確信した。

「では、さっそく味わうとするかと言いたいところだけど」

 松岡は教室の前を見る。

先生が教壇に立って、困惑気味にこちらを見ている。今はまだ授業中なのだ。

 授業中なのに出前を取り、クラスメートに日本三大和牛を見せびらかしても、先生は文句を言わない。松岡家は先祖代々続く地元の名士で、杭杉小学校の設立にも、ご尽力いただいた、とても偉いお方だからである。その偉いお方のお孫さんなのだから、多少のわがままは先生方も目をつぶっている。

「日本三大和牛の食べ比べは給食の時のお楽しみということで、机の中にしまっておくかな。あっ、そうだ。デザートも付けてもらったんだ」

お弁当と一緒に持って来てもらった小さい箱を開ける。

「何かなあ? わっ、大きなカヌレだ!」

フランスの焼き菓子カヌレは通常シュウマイくらいの大きさしかないが、このカヌレはBigプッチンプリンくらい大きい。

「わあ、そんなカヌレがあるんだね」

「実は僕も初めて見たんだ。これは特注品だよ」

「スイーツの特注品なんか作ってくれるんだね。いいなあ、お金持ちは」

「まあまあまあ。これも後のお楽しみということだね。みんなにも分けてあげたいけど、一個しかないからねえ」

 松岡は不敵な笑みを浮かべながら、また山ノ藤の方を見る。

 彼は先ほどよりさらに悔しそうな顔をしている。

これで僕の完全勝利は間違いないね。

 ふふふ。山ノ藤家が松岡家に勝てるわけはなかろう。

そのとき、また教室の前のドアが開いて、さっきと違う配達員の男性が顔を覗かせた。

「授業中に失礼いたします。山ノ藤様、お待たせいたしました」

「はい、ありがとうございます」

 山ノ藤は松岡の席に近寄らず、自分の席に座ったままだった。

この出前を待っていたのだ。

「たいへんお待たせいたしました」

配達員が大きなバッグを背負って、教室内に入って来た。

 クラスのほとんどが松岡の周りから、山ノ藤の席へと向かう。

何を頼んだのか、気になるのだ。前回は山ノ藤が松岡に逆転勝利を収めている。

さて、今日の勝負はどうなるのか。

配達員の男性は、またのご利用をお待ちして入りますと言って、帰って行った。

松岡と山ノ藤の両家の昼食対決にクラスメートの興奮は頂点に達している。授業を妨害されている先生も、さすがに席へ近寄ることはしないが、興味深そうに眺めている。

 しかし、松岡は不思議そうな表情を浮かべていた。

 確かに前回は懐石料理で負けてしまった。あのとき出前に来た割烹着を着た年配男性の姿を見て、山ノ藤はとてもうれしそうな顔をしていた。勝利を確信したからだろう。

 だけど、今はどうだ。なぜか複雑な表情をしているではないか。

 日本三大和牛の食べ比べセットに恐れをなしたのなら、さっきのような悔しい顔を続けているか、負けを認めて、悲しそうな顔をしているはずだ。

 いったいどうなっているのか。答えは配達されたお弁当を見れば分かるだろう。

 山ノ藤はみんなに急かされて、ゆっくりお弁当を開いた。

 中は日本三大和牛の食べ比べセットだった。

 えっ、一緒じゃん!

 続けて小さい箱を開けた。

Bigプッチンプリンくらい大きいカヌレだった。

これも一緒じゃん!

 松岡の表情が固まった。

 山ノ藤は恐れをなしたり、悲しんでいたりしたわけではない。二人は偶然にも同じメニューだったため、困っていたのだ。事前にメニューを聞かされていたのだろう。松岡がお弁当のフタを開いた瞬間、どういう思いが錯綜したのだろうか。

 山ノ藤のお弁当からはヒモが伸びていた。引っ張るとお弁当が温まるという仕掛けまで同じであった。

 山ノ藤家も松岡家に負けず劣らず、先祖代々続く地元の名士で、杭杉小学校の設立にも、ご尽力いただいた、とても立派な家系であった。

この街では松岡家と山ノ藤家が代々いろいろなことで競い合っていた。両家ともに小高い丘の上へ豪邸を建てて、その権力を誇示している。その対立ははるか昔から続いていて、両家の仲はとても悪い。日頃から、何かといがみ合っている。横溝正史の小説なら死人が出ているはずである。不気味な装飾の施された死体がゴロゴロと出現しているはずである。

今回のお弁当勝負は引き分けであった。

 興奮が落ち着いたクラスメートは、何も悪いことが起きなくて、少しホッとしていた。

豪華なお弁当をデリバリーしていた二人は裕福な家庭にもかかわらず、給食費が未納であった。二人の親が示し合わせたかのように、様々な理由を付けて、支払いを免れていた。 

給食費未納三兄妹の三人目坪貝サヤカも二人の席に寄って行くことはせず、一人で自分の席に座っていた。

 サヤカは二人と違って、経済的に給食費が払えない。みんなからは無銭飲食だと陰口を叩かれている。だけど、それもあと少しの辛抱だ。来年の四月から給食費が無償化されるからだ。

これで、こそこそしないで、堂々と給食が食べられる。きっと今までよりも、給食がおいしく感じられると思う。普段はあまり気にしてない献立表もかかさずチェックしよう。その日の給食がどれだけおいしかったかを、毎日お母さんに教えてあげよう。お料理を勉強して、再現した給食をお母さんに食べさせてあげるのもいいだろう。きっと喜んで食べてくれるだろう。早く四月が来てくれないかな。

 松岡と山ノ藤のお弁当対決は終わった。

だが、サヤカの頭の中はまだ給食のことを考えていた。今日は給食一揆以来の久しぶりの給食だ。それを祝ってなのか知らないけど、いつもは二枚の食パンが今日だけ特別に三枚出るようだ。二枚は自分で食べて、一枚はあのカモメへあげに行こう。

パンを全部あげたあとに飛んで来た一羽の小さなカモメだ。子供のカモメだと思うのだが、もしかしたら他のカモメと違ってドン臭いからエサにありつけないので、体が小さいのかもしれない。

あのとき、また明日持ってくると約束をした。キミを優先してあげると約束した。

だから約束を守って、給食を食べた後の昼休み時間内に持って行ってあげよう。

私にはカモメがみんな同じ顔に見える。体の大きさで多少の区別が付くくらいだ。

だけど、あの小さなカモメはきっと私の顔を覚えている。

私が堤防に立つと、真っ先に飛んで来てくれるはずだ。ずっと何も食べてないかもしれない。だから最初に飛来した子がそうだろう。食パンを一枚全部あげようか。でも全部食べられないか。仲間と取り合いになったらダメだから、やっぱりパンは千切ってあげよう。もちろん他の子よりも大きめに千切ってあげよう。

早く給食の時間にならないかな。

給食の時間を待ち遠しく思っている自分に気づいて、サヤカは驚いた。

そうか、みんなはいつもこんな気分で給食の時間を待ってるんだ。私も四月からは毎日こんな気分になれるんだ。給食は最高だ。

そして、妄想から現実に戻って来た頃、教室ではようやく授業が再開された。


前回は特別室の電気が消され、窓から乱入されて、胡椒を撒かれた。レシピが書かれた巻物はまんまと盗まれ、調理室から食材も盗まれた。不意打ちとはいえ、不覚であった。

しかし、二度と同じ轍を踏むわけにはいかない。

“他にレシピを隠し持っているフリ作戦”はいまだ決行中である。

食材の三つの配送ルートを襲う作戦が失敗したのだから、敵はもう一度、他にあると思い込んでいるレシピを狙って、我が本丸である特別室を襲って来るに違いない。ここには頑強な金庫があり、保管するとしたらここしかないと思っているはずだ。

礼兵衛はそう考えている。横に立つ銀鮫も同じように考えている。

「奴らがこれで諦めるとは思えん」

「御意にござります」

「なんといっても、コンテストの副賞の銅像がかかっているのだからな。死んで名を残すと言うが、死んで銅像も残したい変わった奴が世の中にはいるからな。たかが銅像、されど銅像ということだろう」

 自分も銅像を建ててほしいのだが、自分のことは棚に上げて皮肉る。

「奴らは再び、レシピを奪いに来るに違いない。前回奪った鯨の竜田揚げ以外の幻のレシピがあると思い込んでいるだろうからな。残念ながら、幻のレシピは、ほら、ここ。私の頭の中にきちんと入っておるわ」

礼兵衛は自分の頭を指差す。

「銀鮫よ、子供たちのために、何としても小学校を守ろうじゃないか。本丸にやって来るのは三人や四人だけというわけにはいくまい。総力をあげて襲って来るだろう。こちらも総力をあげて、戦おうじゃないか――銀鮫、各自油断なく備えるよう伝えてくれ」

「はっ!」

「久しぶりのいくさだ。楽しみだのう」

 礼兵衛は不敵な笑みを浮かべた。

 杭杉小学校と斉工給食調理商会に非常事態宣言が発動された。


 金庫が置いてある特別室の電気はあらかじめ消されていた。前回割られた窓ガラスは修復が間に合わず、透明のビニールを貼り付けて、応急処置がしてあるだけだ。前回食材が盗まれた調理室の電気も消されている。特別室も調理室も人の姿は見えず、静まり返っている。

そして、学校の校門は開けっ放しにしてあった。

まるで、悪者のみなさん、どうぞ入ってくださいと言わんばかりに。

 愛崎姫果は真っ暗な調理室の一角に身を潜めていた。

七斗と甲太の自称最強カンフー兄弟からは連絡が入っていた。第一、第二ルートの襲撃は阻止できたと聞いたので、第三ルートに向かい、待ち伏せをして、見事に悪者をやっつけたと言う。今はこちらに向かって猛ダッシュしていると、息を切らしながら、電話をかけてきた。

 最強カンフー兄弟と名乗っているが、幼い弟たちを騒動に巻き込ませたくない。こっちは大丈夫だからと言ってみたが、主戦場は斉工給食調理商会であり、そこに最強の僕たちが参戦しないのはおかしいと、聞く耳を持たず、電話を切られてしまった。

 調理室は静かだ。嵐の前の静けさとはよく言ったものだ。

姫果は手に三節棍を持っている。三本の棒が一本につなげてある武器だ。折り畳めるので携帯にも優れている。カンフー映画によく出てくるので、カッコイイと思って、通販で買ってみた。

買ってはみたが、取扱説明書が中国語で書かれていたため、さっぱり読めず、どうやって使ったらいいのか分からない。伸ばせば長くなるので、ブンブン振り回せばいいのか。槍のように突きを繰り出せばいいのか。それとも木刀のようにして、叩き付ければいいのか。関節の部分で曲がってしまわないのか。木刀なら修学旅行のお土産で買ったことがある。なぜ木刀なのか、いまだによく分からないが、売っていたので買ったのである。だけど、使うこともなく、家の物置に入れっぱなしで、今頃腐食して、朽ち果てているかもしれない。

ヒマにまかせて、いろいろと考えているが、理論と実践は違う。

いざとなれば、カンフー歴半年と少しの経験がモノを言うだろう。小林寺はインチキだったが、じいちゃんのカンフー道場は本物だ。インチキで半年、本物で少しだけ習ったカンフーはどこまで通用するのか、自分でもよく分からない。せめて月謝を払った分だけは強くなっていてほしい。でないと、コスパが悪すぎる。

 他の調理員もこの戦いに備えて、それぞれこの真っ暗な部屋のどこかに潜んでいるはずだ。

 みんな、大丈夫だろうか。

 まだ若い私と違って、おばちゃんとおじちゃんばっかりだから、気にかかる。立ち仕事なので足腰は多少丈夫だろうけど、何か武器となる物を持っているのだろうか。

 レーベー会長は大げさだと言って、警察に連絡していないから、私たちだけで戦わなければならない。まったくのムチャ振りである。だけど、降りかかる火の粉は払わねばならない。そのために拳法は存在する。あくまでも防御であり、決して人を傷つけるためのものではない。

だけど、給与以外に戦闘手当でも出るのだろうか。ケガをしたら保険は出るのだろうか。何よりも、明日からもここで働けるのだろうか。せっかく見つけた居心地のいい職場なのだから、これからも働きたい。お金を貯めて、また中国に行って、ジャッキー・チェンに会うという夢はまだ諦めていない。そのためにも、この戦いに勝たなくてはいけない。なんだか理屈として変だけど、成り行きでこうなってしまったのである。

レーベー会長もどこかで待機しているらしい。と言っても、もう八十二歳だから、戦力にはならないだろう。会長にもしものことがあったら、会社はどうなるのか。そういった不安もあるのだが、みんなは文句も言わずに、従っている。いい人たちなのか、のんびりしている人たちなのか。

やっとまともな所に就職できたと思ったのに、なんでこんな目に遭うかなあ。

だけど……。

「大丈夫、私はカンフーの女性師範代だ。来るなら来やがれ、悪党ども」

三節棍を握り直して、気合を入れる。インチキの小林寺だけど。師範代の代金を五万円も払ったし。給食を楽しみにしている子供たちのためにも負けるわけにはいかない。いったいここで私は何をやっているのかと、冷静になると思うのだが、これで大義名分が立つ。

 やがて、窓の外が騒がしくなった。たくさんの人が争う音が聞こえて来る。

 どうやら、敵の襲来らしい。頼みもしないのに同じような奴が来る。戦いが終わったら、今日は歩いて帰ろう。

 レーベー会長が予想した通り、敵は本当にやって来た。

 特別室に入り込む前に阻止しようと、何人かの調理員や職員が守りを固めているはずだ。その人たちとの戦いが始まったのだろう。

 玄関で竹ぼうきを持って仁王立ちしていたのは杭杉小学校の用務員流転(こける)さんだった。

「来るなら来やがれ! この竹ぼうきで一掃してやるわい!」

 作業着姿の流転さんは年季の入った竹ぼうきをブンブン振り回す。

 用務員に竹ぼうきは、鬼に金棒のようなものである。

「胡椒缶を奪い取ったぞー!」雄叫びが上がった。

 敵が特別室へバラ撒くために持って来ていた業務用の胡椒缶だろう。前回と同じことはさせないという気概が雄叫びから感じられる。しかし……。

「ああ、突破された!」「特別室に向かったぞー!」「気を付けろー!」

 窓に貼られていた透明のビニールが、ナイフで縦にシャーッと裂かれていく。

「皆の者! 敵襲だ、そちらへ向かったぞ! 備えよー!」大きな声があがった。

 あれは用務員の流転さんの声だ。敵がこっちに来るということは玄関を突破されたんだ。

 流転さんは大丈夫なのかなあ。けっこうお年を召しておられるからなあ。でも、あれだけ大きな声で叫んでるのだから大丈夫か。

 窓からも数人が乱入してくる気配がある。

 私たちは物陰に隠れて、タイミングを計っている。

「今だ、電気を点けろ!」誰かが叫んだ。あらかじめ、そういう手順になっていた。

 天井のLEDライトが一斉に点灯した。この日のために、蛍光灯からより鮮明に見えるLEDに替えてあったのだ。

 潜入して来た敵は約十人。全員黒い目出し帽をかぶっていて、表情は見えないが、突然ライトで照らされて、アタフタと戸惑っている様子が分かる。

「よしっ、かかれー!」また誰かが叫んだ。

「子供たちの給食を死守せよ!」「給食泥棒を蹴散らすんだー!」

 やっと私の出番が来た。

カンフーの力を思い知らせてやる。

 前回はお腹を殴られて、気が付いたら、保健室のベッドの上だったという失態を演じた。

 今日はお腹に少年ジャンプを入れて来た。多少殴られても、蹴られても、痛くないはずだ。

 頼むよ、少年ジャンプのヒーローたち!

 特別室に入り込んで来た連中を見渡す。

 そして前回、私をやっつけた奴を探す。そいつにリベンジしてやるんだ。

あいつはけっこういい年したジジイのようだった。私がスネーキーモンキー蛇拳の構えをしたら、映画の見すぎじゃねえのかとバカにして来やがった。

今日も懲りずにあいつが来ていてほしい。泥棒に入って来てほしいと願うのは変だが、あいつは私がやっつけるんだ。

気合を入れて、頭に白いバンダナを巻いている。以前、私の眉間にシワができるとイチャモンを付けてきた悪者三人組がいた。弟と協力して倒してやったのだが、そのとき、次に戦うときはバンダナを巻こうと決めたのだ。何も描かれていない無地のバンダナだけど、ベストキッドのダニエル君みたいで、我ながらカッコいい。

そして、私がキョロキョロしていると、

「よぉ、あのときのネエチャンじゃないか。もしかして俺を探してるのか?」

 一人の男が近寄って来た。

 あっ、こいつだ! 私をやっつけたジジイだ。

 カンフーの神様、リベンジの機会をありがとう!

 近くには人がいない。タイマン勝負のチャンス到来だ。

 ここで会ったが百年目。

 私は前回と同じく、スネーキーモンキー蛇拳の構えを取った。

ジャッキー・チェンの得意技で逃げるわけにはいかないからだ。

逃げたことがバレると、ジャッキーに怒られる。まだ面識はないけど。

「ネエチャン、そんな構えをして、また俺に倒されたいのか。気を失って、また床に伸びたいのか。伸びてるところを、また俺に唾を吐きかけられたいのか」

「お前はそんなことを……」

「それは冗談だ。ところでネエチャン話があるんだけど……」

 男はいきなり左足で蹴りを繰り出して来た。油断させておいての不意打ちだ。

 だけど、私は油断なんかしてなかった。ちゃんと集中していた。蹴りを読んでいた私はバックステップで難なくかわす。

 しかし、男はすぐに接近して、お腹を狙って来た。

 これも読んでいた。前回と同じだ。わざと打たせてやる。

 少年ジャンプが守ってくれるからだ。

ところが……。

「痛っ!」メチャクチャ痛い。

少年ジャンプじゃ痛いな。もっと分厚いコロコロコミックにしておけばよかった。

私の練習相手というと、中国では小林寺の子供たちで、日本に帰って来てからは小柄なじいちゃんと同じく小柄な弟の甲太で、大柄な大人の相手はしたことがない。木人椿でも練習をしていたが、あれはこちらから一方的に攻撃する木製器具で、木人椿が襲って来ることはない。映画少林寺木人拳のワンシーンではない。

だから大人の蹴りがこんなに痛いとは思わなかった。

だけど今度は倒れない。気合を入れて、両足を踏ん張る。

そして体勢を立て直すと同時に、逆に油断している男の側頭部にハイキックを見舞った。

 おお、届いた!

 実は届かないかなと心配していたのだ。

 私のすばやい上段蹴りに、男の防御が遅れた。

 男は何が起きたのか分からないといった表情を残したまま、床に崩れ落ちた。

 やったー、リベンジ成功だ! やったよ、ジャッキー・チェン!

 必殺の蛇拳を繰り出すまでもなかった。チョロイもんだ。

 だけど、前回はこんな弱い奴に負けたとはちょっと情けない。

 さて、戦利品として、こいつの目出し帽を剥ぎ取ってやろう。

 予想通りのジジイか、意外と若いのか。

 男のそばに屈み込んだ瞬間、何者かの蹴りが私の頭を狙って飛んで来た。

 気配は察知できたが、体が動かない。

 ヤバい! 頭部直撃は避けられない。

また失神するのか。ああ、情けない。

これじゃジャッキー・チェンに会わせる顔もない。頭もない。

そのとき――。

――カコーン。

 甲高い音がした。

だけど頭に衝撃は来てない。何が起きたんだ?

 私の頭ギリギリまで来ていた足の向こう脛を、何かが打ち付けていた。

えっ、おたま?

 弁慶の泣き所を金属製のおたまで殴られた男が転がった。向こう脛を両手で抱きかかえながら、悶絶している。

「姫果ちゃん、大丈夫?」

「えっ、ハナコさん!?」

 煮炊担当のハナコさんがおたまを持って立っていた。白衣を着ている。

 私はジジイの目出し帽を剥ぎ取るのも忘れて、立ち上がった。

「ありがとうございます。危ないところを助けていただいて」

 男の足を殴ったためか、おたまの柄の部分が曲がっている。柄が曲がるほどの力で叩き付けられたら痛いだろう。男は苦悶の表情を浮かべたまま、まだ立ち上がれない。

 だけど、商売道具のおたまはもう使えないかもしれない。

「ああ、これかい。大丈夫さ、ここにたくさんあるからね」

 腰の周りにズラリと何本ものおたまをぶら下げている。最先端の未来形ファッションのようだ。

ハナコさんはフラダンスのように腰をクネクネさせて見せた。何本ものおたまがぶつかって、カランコロンと音を立てる。

「曲がって使いものにならなくなったら、新しいおたまで殴ってやるだけさ――おっと!」

 向こう脛を叩かれた男が立ち上がって、殴りかかって来た。

「このババア!」

 ハナコさんは姿勢を低くすると、男のこぶしをかいくぐり、ガラ空きになっている脇腹に強烈な蹴りを入れた。

――ハッ!

 男は三メートルくらい後方に跳んで行った。

 えっ、人間って、あんなに飛ぶの!?

 カンフー映画でよく見るけど、あれはワイヤーアクションなのだ。

 思わず天井を仰ぎ見るが、男がワイヤーで吊るされているという仕掛けはない。

 男は気を失ったようで、大の字になって伸びたまま、ピクリとも動かない。

ハナコさん、その蹴りは何? ハナコさんはいったい何者なの?

私は驚いて声も出ない。

「姫果ちゃん、あっちを見てごらん」

 そこには同じく調理用の白衣を着て戦っている人たちがいた。

「あれはサキさんとタミヨさん!」

 和え物担当のサキさんと揚物焼物担当のタミヨさんが暴れていた。

 サキさんは鍋のフタで防御をしながら、侵入者を次々に殴り倒し、タミヨさんはスパテラと呼ばれる全長一メートルを越える巨大なしゃもじを長槍のように振り回して、敵を蹴散らしている。

さらに、男に馬乗りになって、ボコボコと殴り付けている女性もいた。

 栄養教諭のモモさんだった。

「モモさんまでも!?」

 モモさんは背中に長さ一メートルもあるステンレス製のひしゃくをくくり付けていた。大きな鍋に入った具材をかき混ぜるための業務用のひしゃくだ。

「モモさんは加減というものを知らないからねえ。死人が出なきゃいいけど」

 確かにゴム手袋をはめて、タコ殴りしているモモさんはどう見てもカンフーじゃなくて、ケンカだ。正当防衛じゃなくて過剰防衛だ。

殴られてる男性、頼むから死なないで。

死んで花実は咲かないよ。 

モモさん、背中に背負ったひしゃくだけは使わないで。

そんなもので殴られたら死んじゃうよ。

「ハナコさん、これはどういうことですか?」

「私たちはみんな、姫果ちゃんのおじいちゃんの弟子なんだよ」

「えぇ!? 飛造じいちゃんのお弟子さんなんですか!? カンフーの使い手なんですか!?」

「そうよ。私とサキさんとタミヨさんとモモさんは弟子の中でも美人四天王と呼ばれてたんだよ」

「ホントですか?」

「もちろんでしょ。見てのとおりよ」

「では私のことは?」

「知ってたわよ。愛崎という名字は珍しいでしょ。愛崎姫果ちゃんと聞いて、飛造さんのお孫さんだと分かったよ。中国へカンフーの修行に行ったけど、インチキ小林寺に騙されたこともね」

「そんなことまで?」

「私たちおばちゃんの情報網は警察や反社以上だからね。舐めちゃいけないよ」

 だったら、前回足元で伸びているジジイに秒殺されたときには、じいちゃんの孫だとバレていたのか。一人で敵に立ち向かったとか言われて悦に入っていたとは、メチャクチャ恥ずかしいじゃないか。だけど私はカンフーの修行が目的で中国へ行ったわけじゃなくて、ジャッキー・チェンに会うための手段としてカンフーを習ったに過ぎない。そのことはバレてないようなので、このまま黙っておこう。今はそれどころじゃない。戦いの真っ最中なのだ。

「まあ、そういうことね――それっ!」

 ハナコさんは近寄って来た別の男に蹴りを入れた。その男も三メートル後ろまで跳んで行った。

 いったいどういうパワーなんだ。全身の力を片足に集める裏技でも習得したのか。じいちゃんは私にそんなことを教えてくれてない。

「姫果ちゃん、油断したらダメだよ。前回は電気を消されて、胡椒まで撒かれて、美人四天王といえども不覚を取ったからね。今日はがんばって戦うわね。子供たちの給食を守るためと、私たちの職場を守るためにね」

「はい、分かりました!」私は姉弟子に大きな声で返事をする。

 ハナコさんは部屋の中を見渡した。あちこちで乱闘が続いている。

「みんなー、集中するんだよー!」

「えい、えい、おう!」

 ハナコさんの掛け声にみんなが元気に呼応した。

――カコーン!

 また一人の男がハナコさんにおたまで頭を殴られて、痛みのあまり卒倒した。

 最初に侵入して来た敵は十人くらいだったが、次々に倒されて、立ってる奴はほとんどいない。

「ハナコさん、勝ちが見えてきましたね」

「姫果ちゃん、こいつらは下っ端だよ。前回より随分と弱いからね」

「どういうことですか?」

「下っ端による下見みたいなもんだよ。これから来る奴らが敵の本体ということさ」

「そんな……。大丈夫でしょうか?」

「何を言ってるの。あたしは楽しみで仕方がないよ。何の遠慮もなく人が殴れて、ストレス解消には持って来いじゃないの。相手は泥棒だから多少ケガをさせても怒られないよ」

 三メートルもぶっ飛ばしてるんだから、多少のケガで済むわけないと思うけど。

「ハイヤー!」

 ひときわ大きな女性の声が部屋中に響き渡った。

モモさんが長さ一メートルのひしゃくを振り回し、大柄な男性の頭にぶちかましてい

た。男性は白目をむいて床に倒れ込んだ。伝家の宝刀を抜いたようなものだ。

 あんな武器は使ってほしくなかったのに。

大柄な男性さん、死なないでね。ここで死者が出ると、斉工給食調理商会は業務停止処分を喰らうかもしれないからね。

 ハナコさんが言ったとおり、その後も敵の数は増え続けた。そして、後から襲って来た連中は強かった。今や特別室内は敵味方が入り乱れ、戦国時代の合戦場のようになっていた。戦国時代の合戦場なんか見たことはないけど、こんな感じだったのだろう。


 闇バイトで集められた連中は事情が分からないまま暴れている。暴れるだけで大金がもらえると言われて、やって来たからだ。

 そんな中、一人の年配の男が壁際に立っていた。高校の数学の先生のような風貌だ。

 手に一メートル程の棒を持っている。

どうやら、年に一度給食に出る手打ちうどんの生地を伸ばす木製の麺棒のようだ。

 敵の連中はチラチラとこの男を見ている。

 手に麺棒を持っているが、戦闘に加わろうとしない。

 あの男は敵なのか、味方なのか。こちらを襲って来ないから味方なのか。かといって白衣の調理員に襲いかかることもしない。ただ麺棒を持って戦況を見つめているだけである。

正体が分からなくて不気味なのだが、そもそも闇バイトで集められたため、お互いの顔も素性も知らない。まさか悪いことをして、立たされてるんじゃあるまい。いい年したオッサンだからそれはない。気になっていた連中も目前の相手に集中しようと、男から目をそらすことにした。

 そんな麺棒男に一人の男性が近づいて行った。

「金盛、こんなところで何をやってるんだ」

「これは礼兵衛会長。会社の一大事と聞きまして、私もお役に立てることがあればと思いまして」

「麺棒を持って参戦したのか」

「美人四天王を始めとする調理員が調理器具を片端から持って行ってしまって、これしか残ってなかったのです。しかし何分不慣れなものですから、何をやればいいのか分からず、とりあえず、かかって来た人間の相手をしようとしていたのですが、誰も来てくれなくて、手持無沙汰でありました」

「誰もお前をやっつけようとは思わないのだろう。合戦において、名だたる武将の首をあげると恩賞がもらえるが、足軽の首を取っても何ももらえないのと同じ理屈だ」

「はあ、そうでしたか」私は足軽ですか。

「金盛は戦いに加わらなくともよい。眼鏡をかけたヒョロヒョロの数学教師みたいじゃないか。どう見ても役に立ちそうにないわ。そもそも人をぶん殴ったこともないような人間が乱闘に参加するという考えが間違っておる。みんなの足を引っ張るだけだ」

「しかし会長、私には恩義がございます」

経理担当の金盛は帳簿を改ざんして、七年にも渡って給食費の横領をしていた。本来なら警察に突き出されても文句は言えなかったのだが、会長は定年後の金盛を嘱託として再雇用し、仕入れ担当として働かせている。

金盛は他の会社に移っても税理士としての仕事ができるが、ここで働いた方がはるかにいい給与を得られる。不正したお金をなるべく早く返済できるように、会長が取り計らってくれているのだ。もちろん他の職員はこのことを知らない。

 そんな会長の男気溢れる恩義には命を賭してでも答えなくてはいけない。

 汗で滑りそうになっている麺棒を強く握り直した。

そのとき、金盛の足元に一人の男が転がった。

「ひゃっ!」金盛が情けない声を出す。

 向こうにハナコが立っていた。

必殺の三メートルキックを喰らった男がここまで飛ばされて来たのだ。

「あら、会長さんと金盛さん、ごめんあそばせ~」

 ハナコは余裕で笑っている。

 腰に下げたおたまは半分くらいに減っていた。何人もの敵を殴り付けたため、曲がって使いものにならなくなって、捨てたのだ。

「ハイヤー!」

 モモさんの怪鳥のような声も部屋に響き渡る。

 調理員のみなさんが勇敢に戦っているというのに、私はここで何を突っ立っているのだ。会長は戦いに加わらなくてもいいとおっしゃるが、そういうわけにはいかない。男気には男気で返すのだ。それが漢じゃないか。一度は死んだ人間だ。怖いものは何もない。さっきは思わず悲鳴が出たが、やる気と悲鳴が正比例するとは限らない。

そこへモモさんがひしゃくを肩に担いでやって来た。

「金盛さん、これとその麺棒を交換してくれませんか」 

一メートルの巨大ひしゃくは真ん中から、くの字に折れ曲がっていた。

「これでは使い物になりませんので」

ひしゃくはステンレス製で頑丈にできている。大鍋に入った食材をグルグルかき混ぜてもビクともしない。何人の頭をぶん殴ると、ここまで曲がってしまうのか。

「ちょうどよかった。金盛、ここはモモさんに任せなさい」

「しかし、会長」

「彼女は人の何倍も働くぞ。美人四天王の名は伊達じゃないぞ」

「では、会長の命令とあらば」

 金盛はモモさんから折れ曲がったひしゃくを受け取ると、代わりに麺棒を渡した。

「モモさんよ、くれぐれも相手を殺さんようにな」会長が激励する。

「何とか努力はいたしますが、責任は持ちません――ハイヤー!」

麺棒を頭上でグルッと一回転させると、モモさんは再び戦場へと戻って行った。

「ほう、頼もしい女子よのう」会長は目を細める。

「金盛よ。お前はここで討ち死にするつもりだろう」

「それは……」

「命は大切にせよ。これは会長としての命令だ」

「はい、かしこまりました」

「お前には他に頼みたいことがある。あれを守ってほしい」

 指差す方向には古くて大きな金庫があった。

「はい、お任せくださいませ!」

金盛はくの字に折れ曲がった巨大ひしゃくを握り直した。


 特別室の窓枠を軽々と乗り越えて、大柄な男が入って来た。

 身長は二メートルくらいある。逆光で顔は見えない。

まさかあんな人と戦えというわけ?

 姫果は唖然とする。

 助走を付けて、飛び蹴りを放っても、せいぜい胸元までで、顔面までは届かないだろう。大きな手でバシッとはたかれて終わりだ。まるで真夏の蚊かハエのように。

 はたして、あの人は敵か味方か?

 男はゆっくりと歩いて来た。

青と白のストライプのパジャマを着ている。

変わった戦闘服だなあ。

頭に包帯を巻いている。

ハチマキの代わりかなあ。

 やがて、逆光から外れて顔が見えた。

 あの人はロバート参条さん!

斉工給食調理商会のライバルである給食調理会社クッキングAIベースのCEOだ。

肌の色は白く、金髪で目の色は青い。

クッキングAIベースはその名の通り、AIを導入した最新鋭の学校給食センターである。一方的にこちらからライバルと言ってるだけで、向こうは歯牙にもかけてないだろう。

クッキングAIベースのCEOであるロバート参条とグルメ王である三途川味エ門が、三人の覆面男に襲われて、幻のレシピが書かれた巻物が盗まれた。

その際、棍棒で殴られたロバート参条は頭蓋骨骨折で入院しているはずだ。

 パジャマ姿ということは、勝手に病院を抜け出して来たのだろう。

 あの巻物には大金を払ったというウワサだ。もちろん情報源は調理員のおばちゃんたちだ。ということは、巻物を取り返しに来たのか? ここに巻物は戻っているのか?

 巻物を盗みに来たとしたら敵になるけど、侵入者を蹴散らしてくれたら味方ということだ。いったいどっちだ?

ロバート参条の大きなガタイに周りの人たちはギョッとしているが、みんなも敵か味方か分からない様子で戸惑っている。

しばらく様子を見ていたようだが、一人の勇気のある男がロバートの前に立ちはだかった。小柄でかなりの身長差がある。闇バイトで集められた名も無き一人だが、乱闘騒ぎに興奮して、戦いを挑んだようだ。この大男を倒して、バイト代を増やしてもらうつもりなのかもしれない。

「おい、デカい外国人!」

 ロバート参条を知らないらしい。見た目は外国人だが、日本とアメリカのハーフだ。

 地元では名が知られているが、バイトは全国から集められているため、知らない人もいるだろう。そもそも給食業界は狭いため、関係者以外は知らなくて当然だ。

 ロバート参条は男を見下ろすと、抱拳礼を行った。中国武術の挨拶である。

 えっ、ロバートさんもカンフーの使い手だったのか!?

まさか、じいちゃんの弟子ということ?

それは知らなかったなあ。

 相手の男もびっくりしたようで、あわてて抱拳礼を返す。

 しかし仕草がぎこちない。おそらくマネしてやっただけだろう。

礼を終えると、ロバート参条はいきなり構えた。

体の前で円を描くようにゆっくりと両手を回している。

 えっ、その構えは太極拳?

 姫果は唖然とする。

近所のおばちゃん達が公園に集まってやってるアレじゃん。

じいちゃんは太極拳なんか知らないはずだ。だったら弟子じゃないのか。

いくらなんでも、街の至る所に弟子がいるわけないか。

ロバート参条はお腹に溜めた息をゆっくり吐き出している。

そもそも太極拳は格闘に適しているのか?

太極拳の使い手がK—1に出たことはあるのか?

肩こりや腰痛の予防には効くだろうけど。

 いいのか、ここで太極拳を出して。

 もしかしたらバトル系の太極拳かもしれない。エサを捕るときだけ早くなるナマケモノのような戦法なのかもしれない。あるいは、太極拳で体を温めて、その後に必殺の拳法を繰り出すのかもしれない。

何が起きるのか静観しよう。

ロバート参条の動きはゆったりしていた。

そりゃそうだ。太極拳だからだ。

一方、相手の男は戸惑っている。

あの動きは俺を誘っているのか。仕掛けられた罠なのか。元々あんな動きなのか。血行をよくしてから戦うというのか。でも、なんでパジャマを着てるんだ? なんで頭に包帯を巻いているのか? ケガ人のフリをして、油断させようとしているのか? 変な戦法ではないか。しかしあの大きな体だ。舐めてかかれば、痛い目に遭うかもしれない。パンチでもキックでも当たれば痛いだろう。ヘタすればノックアウトだ。わあ、いつの間にかギャラリーが増えてるじゃないか。知らない奴らばかりだけど、ここで秒殺されたらカッコ悪いぞ。だけど、行くしかないな。

「へい、外国人! 大和魂を舐めるんじゃねえーぞ!」

 男が走った。

 ロバート参条は腰を落として右手を前に出していた。戦いのポーズなのか、体をほぐしていたのか分からないが、必死の形相で向かってくる男に驚いたようで、すぐに動きが止まった。男は右手をかいくぐり、腰のあたりに組み付いた。

 不意打ちを喰らったロバート参条は腰砕けになって倒れ込んだ。

「あれ?」男はさらに戸惑う。「こいつメチャクチャ弱いじゃん」

 いや、待てよ。わざと寝技に持ち込まれたのか!?

 男は手足や首を掴まれないようにあわてて離れる。

 ロバート参条は大の字に伸びたまま、キョトンとした顔で天井を見上げている。

「やっぱり弱いじゃねーか! みんな、かかれ!」

倒れ込んだロバート参条の巨体が起き上がって来ないように、たくさんの男たちが乗っかって行って、やがて小さな山になった。

試合に勝ったサッカー選手のようだったが、一番下にいるロバート参条の表情は隠れて見えなくなった。

ああ、やっぱり健康系の太極拳だったか。


姫果は合戦場の中を走り回っている中で、さらに知ってる顔を見つけた。

「ユーシュエン!」

 小林寺でチラシを配って生徒を勧誘していたユーシュエンだ。

「あっ、愛崎姫果さん、お久しぶりです。こんな所で再会するなんて、奇遇ですね」

相変わらず、髪の毛は金色と茶色の混合で、陰陽太極図のイヤリングを付けて、口紅を引き、鼻ピアスをして、香水臭かった。

「アンタここで何をやってるの!?」

「日本でいいアルバイトがあると言われて来日しました。個人の家に行って、荷物を受け取るだけで十万円もらえます」

「それは受け子でしょ!」

「いいえ、ボクはユーシュエンです」

「受け子という名前の日本人女性じゃなくて、お金を受け取る詐欺なの。闇バイトと言って、日本で問題になってるの」

「そうなんですか?」

「バイト代の十万円はもらったの?」

「まだ全然です」

「もらえないかもしれないよ」

「そんな……」

「それよりもユーシュエン。アンタ、私に少林寺で修行ができると言って、ウソをついたでしょ」

「えっ、そんなことは……」

「少林寺じゃなくて、小林寺だったでしょ」

「あれは少ないという文字の下の部分が、カラスに取られて小さいという文字に……」

「ウソつけ! 最初から小林寺だったんでしょ」

「えっ、そうなんですか?」

「アンタ、ホントに知らなかったの?」

「はい。てっきり本物の少林寺だと思ってました」

「少林寺が薄汚い雑居ビルの中にあるわけないでしょ」

「映画と違って、現実はあんなものかと」

「そんなわけないでしょ。ユーシュエン君はバカなの? 純粋なの?」

「でも、姫果さんもあそこが少林寺だと信じて、半年間も通ってましたよね」

「まあ、それは……。私は純粋なの!」

「姫果さんはここで何をしているのですか?」

「私はここで働いてるの。私の職場が蹂躙されようとしてるから戦ってるの。こんなときにカンフーが役に立つとは思わなかったよ。ところで、アンタはうちの学校に何をしに来たの?」

「小学校で暴れたら、おいしい給食が食べ放題と言われて来ました」

「あんた、バカ? 確かに給食は私たちが作ってるからおいしいけどね。バカのついでに言っておくけど、ここは調理をする場所だから、香水なんか付けて来ないでよ」

「後で脱臭剤を買いに行きます」

「着替えて、シャワーを浴びればいいだけのことでしょ」

「すいません。だけど、食べ放題じゃないのはがっかりです」

「そんなことを誰に言われたのよ」

「ボスですけど。そこにいます」

窓の外に、長髪のおかっぱで口髭をはやした男が立っていた。

覆面はしていない。どう見ても、昔のカンフー映画に出てくる悪役だ。

あいつ、どこかで見たことがあるなあ。

あっ、そうだ!

小林寺に飾ってあった写真の人物、開祖の黒峠だ。

ということは、あいつがインチキ少林寺を作り上げた小林じゃないのか。

そうか。黒峠=小林だったのか。

小林は日本に帰国したと聞いていた。私と甲太がカンフーの練習の帰り、三人組に襲われた。その中の一人がそう言っていた。おそらく、日本に帰って来て、闇バイトの総元締めになったんだ。この特別室を襲ったのも、闇バイトで集められた連中だ。

食材を運んでいた配送車を襲ったのも、闇バイトに応募した連中に違いない。だから年齢も性別もバラバラなんだ。

全国一斉に百人以上の人間が動いて、給食の配送車を同日の同時刻に襲ったらしい。

小林は日本に帰って来て、かなり大きな組織を築いたようだ。

では、小林にこの襲撃の依頼をしたのは誰か?

黒幕である小林の後ろにさらなる黒幕がいるはずだ。

だけどそんなことは後回しだ。目前にのんびりと敵が立っている。逃がしてなるものか。私を騙した罰を食らわしてやる。まんまと騙された方も悪いという理屈は置いておいて、全国の配送車を襲い、食材とレシピを盗み、私の学校に無断乱入したカタキを取ってやる――といっても私のことは知らないだろうけど。

「ユーシュエン君。悪いけど、今からアンタのボスを叩きのめす」

「ちょっと待ってください」

「ボスを守りたいのなら、私を倒してからにしなさい」

「そんなのは無理です。ボクはカンフーができないし、姫果さんは女性師範代ですから」

「そう言えば、私が女性初の師範代と言ったわね」

「言いましたけど」

「私の他に女性師範代が山ほどいるらしいね」

「えっ、そうなんですか?」

「アンタ、そんなことも知らなかったの?」

「はい、すいません。ボクはどうすればいいですか?」

「さっさと北京に帰りなさい。ああ、その前に私の戦いを見ておく? 木人椿を使って練習した成果を見せてあげるよ。帰国してから、インチキカンフーじゃなくて、本物のカンフーを習ってるんだよ」

「それはすごいですね。ここで勉強させていただきます」

「でも素人さんは危ないから、私に近寄らない方がいいよ」

 窓から覗き込んでいる黒峠=小林と目が合った。

「しかも私は今、ものすごく怒ってるから」


特別室内は入り乱れていた。敵は隣の調理室にも入り込んでいる。

ハナコ、サキ、タミヨ、モモさんの美人四天王たちが次々と敵を蹴散らしているが、いかんせん相手の人数が多すぎる。小林が募集した闇バイトに応募してきた面々だ。高給がもらえると信じて派遣されて来たのだろう。かわいそうな人たちだ。

敵は百人以上、おそらく百五十人くらいいる。

百五十人? そうか、四十七都道府県にそれぞれ三人ずつ、つまり百四十一人。全国の配送車を襲った連中がここに集結してるんだ。だから、敵の中には女の人もいる。大阪の小学校を襲ったのは女性の三人組だったと聞いている。リアルキャッツアイだ。

 だけど、こいつらをやっつけないと、ゆっくりと小林の相手をしてられない。

今も窓から外に出ようとしたところで腕を掴まれ、髪を引っ張られ、お尻を蹴飛ばされた。すぐに三節棍をメチャクチャに振り回して、やり返してやったが、敵は後から後から虫のように湧いて来る。

 何とかならないかなあ。

 こちらにはカンフーの経験者が揃っているけど、人数的には圧倒的に不利だ。

 誰か助っ人に来てくれないかなあ。


 白衣を来た年配の男性が倒された。教師を定年退職したあと、給食の調理員になったという変わり者だ。

 床に転がっている男性を、目出し帽をかぶった男が見下ろしている。手には短い棒を持って、今から殴り付けようとしているのだ。

男性があたりを見渡すが、カンフーの猛者たちは周りにいない。助けに来てくれそうな人は見当たらない。子供たちの給食を守ろうと、戦いに加わったが、不甲斐ない結果に終わってしまった。

 こどもたち、ごめんよ。

年配の男性は両手で頭を抱えてガードした。殴られたとしても、せめて重傷を避けたい。大ケガさえしなければ、また子供たちにおいしい給食を作ってあげられる。

 棒が振り落とされた。

男性は覚悟を決めて、目をつぶり、歯を食いしばった。

――ボコッ!

 鈍い音がして、男性の周辺に何かが落ちて来た。

 目出し帽男が頭を押さえながら、床に倒れ込んだ。

何が落ちて来たんだ?

 黄色い何かがたくさん散らばっている。

 わっ、脳みそか!? 頭をカチ割られたのか!?

 いや、待てよ。脳みそはこんな黄色くない。私はこれでも以前は生物教師だったんだ。

 あれ? 種が混ざっている。

分かった。これはカボチャだ。

つまり誰かがカボチャでこいつの頭を殴って、私を助けてくれたんだ。

 見上げると一人の白髪の男性が立っていた。

 手にカボチャの残骸を持っている。

「先生、お久しぶりです」

「ああ、君は後輩の朝日君じゃないか。ここで何をやっておるのだ?」

「私は今地元の北海道に帰りまして、小学校の校長をやっております。子供たちの給食が一大事と聞きまして、礼兵衛会長の命により、馳せ参じたしだいです」

「ということは、まさか……」

「全国四十七都道府県を代表する校長が、只今ここに集結いたしました」

 朝日校長の後ろを見ると、続々と校長先生が特別室に入って来ていた。

「私を助けてくれたそのカボチャは何だね?」

「それが、礼兵衛会長からのファックスに武器となるような地元の食材を持って来るように書かれてました。訳が分からないまま、北海道名産のカボチャを持って来たのですが、こいつをぶん殴って、やっとこれが武器になるのだと気づいたしだいです」

 そういえば各校長先生は武器として、手に手に地元から持参した食材を持っている。

鰹節、ごぼう、牡蠣、たけのこ、カニのハサミ、トウモロコシ、冷凍ミカンなど。

ウニを持っているのは岩手の校長先生か。

桜島大根を抱えているのは鹿児島の校長先生か。

米沢牛の骨付きすね肉を担いでいるのは山形の校長先生だろう。

日本の給食業界の一大事とばかりに、各都道府県から校長が助っ人に来ていた。

杭杉小学校の盛森守男校長を加えると四十七人の校長先生である。

礼兵衛会長が全校にファックスして呼び寄せたのだ。昭和の人間であるがゆえ、全校一斉メールではなく、全校一斉ファックスだ。当然ながら、毛筆の直筆で書かれていた。

校長先生も全員が昭和の人間であるがゆえ、義理堅く、時間に正確であったため、一人も遅刻することなく、全国四十七人の校長が揃っていた。

四十七士の校長先生による討ち入りだ。

 誰か助っ人に来てくれないかと願っていた姫果も、突然入って来た校長先生の集団を見て、目を丸くして驚いていた。これで人数的には敵の半分くらいには増えた。先生方はなぜか、手にいろいろな食材を持っていて、果敢に応戦をはじめた。

 子供たちにはいつも食べ物を粗末にしてはいけないと言っているけど、この状況下だから許されるのだろう。床に散らばった食材は、後で関係者がおいしくいただくのだろう。

牡蠣やカニなんか高級食材じゃないか。少し残しておいてくれないかな。私も関係者の端くれだ。


いくつもの茶色い円盤のようなモノが飛び交って、敵にぶつかっている。

よく見ると、シイタケの笠の部分だった。

「どうだい、大分名物干しシイタケの威力は!」大分県の校長が喜んでいる。

全国の干し椎茸の半分は大分県で生産されている。それを手裏剣のように投げている。

「手裏剣なら、こっちも負けませんよ!」埼玉の校長は草加せんべいを投げている。

 せんべいは埼玉名産だが、人に投げつけるものではない。

「どうじゃ、頭の中で鐘が鳴ってるだろ!」手に柿を持って殴っているのは奈良県の校長だ。

柿喰って鐘が鳴るのは法隆寺である。

「これじゃ武器にならんなあ」秋田の校長はきりたんぽを持って思案に暮れている。「フニャフニャだものなあ。かと言って、秋田名産の枝豆だと余計に武器にならんからなあ。どうしたものかのう」

「おい、ジジイ、何をブツブツと独り言を言ってるんだ」

 目出し帽をかぶった男が目の前に立っていた。手にバールのようなものを持っている。バールのようなものと言えば、だいたいバールである。殴られると痛い。

しかし、男はバールを持ったまま倒れ込んだ。

「こっちは効果があるなあ」秋田の校長はきりたんぽをもう一本持っていた。「よく焼いて来たから硬いであろう」

杉の棒に巻き付けたきりたんぽも使いようによっては立派な武器になる。

秋田の校長は満足げに頷き、足元に倒れている男を蹴飛ばした。

「死にたくない人は出て行きなさい!」冷凍ミカンを振り回すのは愛媛の校長だ。

一個ずつのミカンは弱いが、冷凍したミカンを五個ほど網に詰め込めば、立派な武器となる。一本の矢は折れやすいが、三本束ねると折れにくくなるのと同じ理屈だ。

「転んでいる連中にトドメを刺しなさい!」物騒なことを叫んでいるのは千葉県の校長だ。

床には千葉県名産のピーナッツがたくさん落ちていて、足を滑らせる悪党が続出していた。千葉の校長は鬼退治の気分でピーナッツをビュンビュンと投げつけていた。

逆に、足を床に取られてる悪党もたくさんいた。茨城の校長が納豆を投げつけているからだ。納豆のネバネバで両手両足が床にくっ付き、四つん這いの状態でもがいている連中もいる。

「どうだ! これは粘りを強めに調合してもらった特製納豆だっぺ!」

青森の校長は両手に青森名物のごぼうを持って応戦していた。二刀流だ。しかし、前の敵に気を取られて、背中がガラ空きだった。一人の男が後ろから羽交い絞めにしようとしている。背中に手がかかった瞬間、男が足元をすくわれて、倒れ込んだ。

「どうだ、ムチの威力は!」男の足にヒモ状のものが巻き付いている。

「これは長野の校長先生! お陰で助かりましたわい。そのムチは何ですか?」

「長野名物のソバなんですが、特別に太く頑丈に打ってみました」

「さすがソバ打ち名人と呼ばれている校長先生ですな」

「長野のインディ・ジョーンズと呼んでください」

 二人の横で、同じように足をからめ取られて倒れ込んだ男がいた。足に何かが巻き付いている。

「これはソバではありませんな」青森の校長が不思議そうに見つめる。

「それはうどんですよ」

「ああ、あなたは香川の校長。さすがうどん県ですな」

「長野の校長。これでインディ・ジョーンズが二人になってしまいますが」

「いや、かまいませんよ。長野と香川、それぞれにインディ・ジョーンズが存在することにしましょう。ハリソン・フォードも喜ぶでしょ」

 うどんが足に巻き付いて倒れている男の横で、別の男が足の裏を押さえながら、痛ェと叫びながら、ピョンピョン跳ねている。

床にたくさん落ちていたのは兵庫県名産の釘煮だった。イカナゴの稚魚を甘辛く煮たものである。

「釘煮だとフニャフニャで武器にならないから、本物の釘を混ぜておいたのだよ。そりゃ、釘を踏み付けると痛いわな」兵庫の校長は鼻高々である。

確かに、イカナゴも釘も錆びたような茶色をしているため、よく見ないと分からない。

すぐそばに全身真っ黒の男が倒れていた。

「まいったか、これが富山名産のイカ墨だ」富山の校長は両手にイカを持って、戦っていた。「富山湾で獲れた魚介類は新鮮でおいしいぞ。君もいつか食べに来なさい」

 真っ黒男に声をかけるが、イカはトラウマになって食べられないだろう。

 宮崎の校長は名産の完熟マンゴーを両手で持って、敵の男の背中に叩きつけようとしていたが、後ろから忍び寄って来た別の男にお尻を蹴飛ばされた。思わずマンゴーを落としそうになり、屈んだところをさらに蹴って来る。

「こりゃ、マズい!」

 マンゴーをお腹に抱えて、体を丸く縮めたとき……。

「あら、宮崎の校長はん、お久しぶりどす」

 見上げてみると、着物姿の女性が立っていた。

「あなたは京都の校長先生! さすが元舞妓さん、お着物で参戦ですか」

 舞妓さんから校長先生になった変わり者である。

「はい、そうどす。これがうちらの戦闘服どすえ」着物の袖をヒラヒラさせる。

 宮崎の校長がマンゴーを抱えたまま、のそっと立ち上がる。

「いやあ、恥ずかしいところをお見せしました。高級マンゴーを持って来たのが間違いでした。もったいなくて、殴るのを躊躇してしまいました。その隙を突かれました」

「うちはこれを持って来ました」

「ほう、京都名産の九条ネギですか」

 そこへ宮崎の校長を蹴飛ばそうとしていた男が割り込んで来た。

「二人で何をゴチャゴチャぬかしてやがる。舞妓さんか何か知らないけどよ。着物を着て、ネギを武器に戦えるわけねえだろ。二人して成仏しろや!」

 男が殴りかかって来た。

 まばたきする間もなく、宮崎の校長の足元に転がった。

「おい、大丈夫かね!」校長が心配そうに声をかけるが、意識がなく、白目を剥いている。

「どこかにAEDはないかね」あたりを見回す。「校内にあるはずなんだが」

「宮崎の校長はん」

 見上げると京都の女性校長が立っていた。手に九条ネギを持っている。

「手加減しましたさかい、死にはしまへんどす」

 瞬時に九条ネギを男の首に巻き付けて締め落としたようだ。男の首には緑色の筋が付いている。

「そうどすか。いや、助かりましたわい」

「うちは新たな獲物を探しに行きます。ほな、さいなら」

「さいなら」宮崎の校長が呆然と見送る。

 着物姿の京都の女性校長は人ごみで見えなくなった。

九条ネギで首を締められた男が目を覚ました。首だけ起こして、あたりをキョロキョロ見ている。なぜ自分がここに倒れているのか分からない様子だ。そのすぐ隣に新たな男が倒れ込んで来た。口をモゴモゴさせているが、何かが入っているみたいで、うまくしゃべれない。

男の口の中には、愛媛のミカンと奈良の柿と沖縄のバナナと鳥取の梨と宮崎のマンゴーが詰め込まれていた。各校長の仕業だ。

男は心の中で叫んだ。

(口の中が千疋屋や~)


大柄な男が巨大な骨付き肉を武器にして戦っている。

殴られた男たちがたちまち倒されていく。

各地の校長が驚いて見つめている。

「あれはTボーンステーキですなあ」

「豪快な一撃ですなあ」

男は太い腕でTボーンステーキを持って、ビュンビュン振り回している。

「片手だけで持っているとは、ものすごい力ですな」

両手でマンゴーを持っていた宮崎の校長が感心する。

「はて、Tボーンステーキが名産の都道府県はどこでしたかね?」

 校長たちは首を捻る。

「訊いてみましょうか――もしもし、先生。お宅はどちらの学校ですか?」

 先生が振り向いた。外国人の男性だった。

「私はマサチューセッツ工科大学埼玉分校の者です」

「なぜアメリカの方がここに?」

「礼兵衛会長からのファックスが間違って本校に届いたようで、私の大好きな日本を守るために参上いたしました」

 校長たちが喜んで、男性を取り囲む。

「いやあ、ありがたい。青い目の侍というわけですな」

「Tボーンステーキと言えば、アメリカ名産ですからな」

「われわれも助っ人外国人に来ていただいて勇気百倍です」

「しかし、これで四十七士の討ち入りではなく、四十八士になりましたな」

 輪の中心にいる男性が言う。

「ご心配には及びません。私は校長ではなく、埼玉分校の夜間部の部長です。ですから、数に入れなくてもいいです。みなさんは四十七士のままでいいのです」

「マサチューセッツ工科大学にも夜間部がありましたか。しかも埼玉に」

「生徒たちは昼間仕事をして、夜は勉強してます」

「それは立派ですなあ」

「私もそろそろ仕事に戻りましょう――いざ、勝負!」

 夜間部長はTボーンステーキを振りかざしながら、敵陣へ向かって行く。

「♪分校、分校、我らが分校~。夜間、夜間、我らが夜間~。強く、明るく、たくましく~。マサチューセッツ~、我らがマサ校~」

 校歌を口ずさみながら敵を蹴散らすマサチューセッツ工科大学埼玉分校夜間部長に、日本の校長先生たちは感動をしていたが、

「略してマサ校と言うのは、いかがなものですかねえ」

「森昌子を思い出しますなあ」

「越冬つばめはいい歌ですなあ」

「♪ヒュルリ~ ヒュルリララ~」

戦場に場違いな校歌と演歌が響き渡る。

みんなはなぜこの場でこんな歌が歌われているのか不思議に思いながらも、激しい戦い

は続いて行く。


 戦いが増すにつれて、床には全国から持ち込まれた様々な食材が散らばるようになった。

まるで、行儀の悪い団体が帰った後のフードコートのようだった。

そんな中、黒っぽくて硬そうな物がいくつも落ちている。

 姫果が目を凝らして見てみると、貝だった。

「貝? 貝を投げてるわけ? 貝を武器に戦っている校長先生って……」

 やがて貝の一つが老齢の男性の足元に転がって行った。

 その男性はたいへんスリムでほぼほぼカマキリのようだった。

 転がって来た貝を拾い上げる。

「ほう、ハマグリか。その手は桑名の焼きハマグリだな。ということは、これで戦っているのは……」

 そこへ一人の男性が駆けつけた。

ハマグリを次々に投げつけて、相手をやっつけている校長だ。

「やあ、君は三重県の校長だね」桑名は三重県にある。

「これは教田大校長、ご無沙汰しております!」深々と頭を下げる。

「がんばっておるようだね」ねぎらいの言葉をかける。

 近くで二人がかわす挨拶を聞いていた姫果は驚いた。

 大校長って何? そんな役職があるの?

「当県自慢のハマグリで敵をバッタバッタと成敗しております」

「ほう、それは頼もしい。まだまだ敵は多いようだが、がんばってくれたまえ」

「はい、大校長もどうかご無事で!」

 三重県の校長はハマグリがたくさん入ったカゴを背中に担いで、戦いの場へ戻って行った。

教田育生は全国の校長を束ねる大校長なのだが、姫果はその存在を知らない。不思議そうに男性を見つめる。

大校長ということは校長先生のトップなのだろう。他の校長よりもかなりお年を召しておられるようだ。なのにさっきの三重県の校長は大校長を置いて、さっさと行ってしまったではないか。

大校長が戦闘に巻き込まれてもいいのか?

自分たちのトップを守らなくていいのか?

全国オンライン校長会議で吊し上げを喰らっても知らないよ。

大校長はほぼほぼカマキリみたいで、どう見ても強そうではない。

ここは私が守ってあげるしかない。もっと敵を倒したいのだが、あたりに守ってくれそうな人は見当たらない。みんなは目前の敵の相手をするだけで精一杯なのだ。

「あのう、大校長先生」姫果が近寄って声をかけた。

「ほう、君はここの給食調理員かな」白衣を見て、気づいてくれる。

「はい。新人の愛崎姫果と申します」

「入ったばかりなのに、こんなことになってしまって気の毒だね」

「何とかこの会社の平和を守ろうと戦ってます」

「そうかね。若いのに感心だね」

「私が声をかけましたのは、大校長先生を敵から守って差し上げようと思ったからです」

「それはありがたい申し出だが、君は私を守れるくらいに強いのかね。失礼ながら、見たところ、華奢な感じがするのだがね」

「いいえ。こう見えてカンフーを習っております」

「ほう、カンフーですか」

「こんな武器も使えます」三節棍を見せる。

「それは素晴らしい」

「女性師範代の資格も持っております」

 インチキの小林寺だけど、黙ってたら分からないだろう。

「師範代ということは相当の使い手ということかな」

「まあ、達人ということですから、ボディガードは私にお任せください」

「達人ならば、なぜ後ろから忍び寄る敵の気配を察知できないのかな」

「へっ、敵!?」我ながらびっくりして変な声が出た。

 振り返ると、デカい男が棍棒を持って、凄まじい形相で向かって来る。

「お若いの、下がっていなさい!」

 大校長が構えた。

腰を低くして、両腕の肘と手首を曲げた。

体を小刻みに揺らしている。

あれは蟷螂拳!?

 ほぼほぼカマキリのおじいさんが蟷螂拳の使い手だって! 

まるでマンガじゃん。

 だけど、蟷螂拳は強いのか?

蟷螂拳の使い手がK—1に出たことはあるのか?

太極拳のロバート参条のようにならなきゃいいけど。

ところが、大校長は老人と思えない速さで動き、一気に距離を詰めた。

構えた蟷螂手で大男のひじとひざを打ち、隙を見て腕を取ると、足払いをかけて、たちまち床へ転がした。

「ウソでしょ!」姫果は驚いて悲鳴を上げた。

 それを見ていた敵の仲間が助けに来たが、大校長は腰をかがめると、曲げた手首で相手の金的を打ち付けた。仲間は股間を押さえながら倒れ込んだ。

 さらにかかって来た相手には手首をクネクネさせながら、何発ものパンチを当て、最後は床に投げつけた。

「カマキリ、すげえ!」姫果は思わず感嘆の声をあげた。

 大校長はお年寄りだ。おそらく一発のパンチはそんなに強くない。だが何発も高速で当てることでダメージを与えているのだろう。こんな老人に自分が負けているという焦りとともに、相手は戦意喪失したに違いない。倒された三人はお互いを慰め合うように肩を抱き合い、部屋から退散して行った。


 戦いは終わりを見せることなく続いている。

全国から校長先生が来てくれて、人数は増えたけど、いかんせん年寄りが多いため、あまり役に立たない人も多い。ほとんどの校長が寄る年波には勝てず、ゼイゼイと肩で息をしている。ずいぶんと足を引っ張ってる校長も見かける。蟷螂拳の大校長もクタクタになっている。

枯れ木も山の賑わいじゃ困るんだけど。

ここは量より質だと思うのだけど。

お願いしますよ、カンフーの神様、もっと助けて下さいよ。

あと一押しなんですよ。何とか勝たせてくださいよ。

「おねえちゃん、お待たせー!」「真打ちの登場だよー!」

元気な声がした。弟たちが走って来た。

「甲太、七斗、来てくれたの!」

ホントに来てくれた。たまには神様に祈ってみるもんだ。

「当たり前じゃん。主役が来てないのに、勝手に開演しないでほしいぜ」

七斗は相変わらず自信満々だ。

「とっくに戦いは始まってるのに、今までどこにいたのよ」

「第三ルートの悪者をやっつけた後、学校まで走って来たんだけど、早く着き過ぎちゃって、敵が来るのを体育館の横のベンチで待っているうちに、二人とも爆睡しちゃって」

「ボクが先に目が覚めて、お兄ちゃんを起こして」

「到着が今になっちゃった。エへへ」

 いくさの前にグースカ寝るなんて、肝が据わっているのか、ただのバカなのか。

どっちにせよ、私の弟たちは大きな戦力になるはずだ。

「はい、これ。おねえちゃんにお土産」七斗が少年マガジンを渡してくる。「今日発売だったんだけど、読んじゃったんで、さっきまで枕にしてたんだ。これをお腹に入れて戦えばいいよ」 

「七斗はどうするのよ」

「僕たちは防具なんかいらないのさ。なあ甲太」

「そうだよ。ちゃんと鍛えてるから大丈夫だよ」

 いつの間にか、弟たちが頼もしくなっている。

「雑魚はやられちゃって、強い人が残ってるでしょ。戦い甲斐があっていいよ、なあ甲太」

「うん、日頃の練習の成果を見せてやるんだ」

 二人の弟は目を見合わせる。

「ところで、二人とも学校はどうしたの?」

「今日は祭日でしょ」七斗がしれっとして言う。

「確かにこのドンチャン騒ぎのような状況を見ると、お祭りと言えば、お祭りだけどね」

「だからいいんだよ。戦いが終われば学校に戻るから」

 七斗はこっそり授業を抜けてきたから学生服姿なのだろう。

 そして、本当に戻る気持ちがあるから学生服を着たままなのだろう。

 文武両道。ちゃんと学業にも励む弟は優秀だ。

「じゃあ、期待してるから、遅刻をした分、ちゃんと働くんだよ」

「分かった。調理用の白衣を着てない人をやっつければいいわけだね」

「大雑把に言うとそういうこと。頼んだよ、甲太と七斗の最強カンフー兄弟!」

「おう、暴れてやるよ!」「任せて、おねえちゃん!」

 七斗は姿勢を低くして、向かって来た男の足を払った。

 男は両足を天井に突き上げながら、仰向けになって、背中から床にひっくり返った。

「スケキヨかよ!」

 すぐに甲太が駆け寄り、男の顔面を容赦なく蹴飛ばす。

 兄と弟の連係プレーだ。いつの間にそんなことを身に付けたのか。

 さらに二人は用意していたらしいヌンチャクを取り出した。さんざん練習をしていたヌンチャクだ。これで敵を蹴散らしていくのだろう。

姫果は、ちょっとやりすぎじゃないかと思ったが、黙っておくことにした。ここで注意してしまうと、二人とも萎縮して、本来の実力が発揮できなくなってしまう。そうなると、小さな子供のことだ。たちまち大人たちにやられてしまうだろう。手加減するようにアドバイスすることは、兄弟のモチベーションを下げることになるのだ。小さい弟たちだけど、校長十人分くらい、大校長三人分くらいの働きをしてくれるに違いない。

じいちゃんの教え通り、手を抜くことなく、敵に立ち向かって行くだろう。

あの子たちこそは全力少年だ!

私もがんばらないと。

今度こそ負けないように。


床にはバケツをかぶった人がたくさん転がっていた。頭からバケツをかぶせて、ボコボコにしているのだ。敵は目出し帽をかぶっているため、視界が悪い。そっと近づけば、面白いようにバケツがスッポリと嵌まる。

バケツ担当は用務員の流転(こける)さんだ。小柄な流転さんはジャンプをしながら、敵の後ろからバケツをかぶせていく。視界が遮られてアタフタしているところを別の人たちが殴り付けていく。鮮やかなチームプレーだ。調理室にはバケツが売るほど置いてあった。

部屋内の床には敵が累々と横たわっていたが、しだいに少なくなっていった。戦いの邪魔だから、台車に乗せて、外に放り出しているのである。台車担当も流転さんである。売るほどではないが、台車もたくさんある。ガラガラと台車を押しながら、特別室と廊下を何往復もしている。用務員さんらしく、よく働く人である。

 あまりにもテキパキと動き回る用務員さんに感動して声をかけた。

「流転さん!」

 台車を止めて、こちらを振り向いた。台車の上には三人の男が重なり合うように積まれている。いったいどうやって積み込んだのだろう。

「おやおや、あなたは新人の愛崎さんでしたな」日焼けした顔でニコリと笑う。

「はい。流転さんがものすごく働いておられるので、感動して声をかけました」姫果も笑顔で返す。

「いやいや、子供たちの給食を守るためですからね」

 背中にボロボロになった竹ぼうきをかついでいる。玄関での戦いでボロボロになったのか、元々ボロボロだったのか分からない。

「それと、この小学校にも世話になってますからね。用務員になって九十年。まだまだ働きますよ」

 それはウソだ。二十歳で用務員になったとしたら、百十歳ではないか。最高齢としてギネスに登録される順番待ちの年齢だ。流転さんはどう見ても六十代だ。

流転(こける)さんのフルネームは笑井流転だ。わらいこける。本名ではなくて、芸名らしい。職業は用務員である。なぜ芸人でもないのに、芸名を持っているのか分からない。この学校には変わった人が多い。

二人のすぐそばで、白衣姿の男性が転がされた。敵は執拗に襲いかかろうとしている。流転さんは後ろからそっと近づくとバケツをスッポリかぶせた。

「みなさん、頼みましたよ!」

数人の校長先生がバケツをかぶせられた敵に群がって、たちまち押さえ込んだ。用務員さんと校長先生の連携プレーだ。

その間に流転さんは床に倒れている白衣の男性を起こしてあげた。

「大丈夫ですか?」

「いやいや、これは流転さん、申し訳ない」

「あなたは柔道部顧問の山下先生じゃないですか。なぜこの場にいらっしゃるのかね」

「苗字が強そうという理由だけで、戦いに加わりなさいと校長先生に言われまして、大きな名札を付けた白衣を渡されました」

 胸に「山下」と書かれた特大名札を付けている。柔道経験どころか運動経験もないのだが、なぜか健康優良児に生まれて、大人になっても体は大きい。名前と見かけで相手をビビらせようという作戦だったようだが、まったく通用せず、何度も仲間に助けてもらっていた。

「いやあ、すいませんねえ――わぁ」

 立ち上がろうとした山下先生がふらついた。

「先生、大丈夫ですか?」

「立ちくらみです。普段から貧血気味なものですから。先日も採血の途中で椅子ごと倒れまして、調理員のおばちゃんたちに心配されました」

「でしたら、先生は無理しないで休んでいてください」

「はい、そうさせていただきます」

 その後、山下先生はみんなの邪魔にならないように特別室の隅で体育座りをしながら、

小さな声で声援を送っている。その姿は体育の授業を見学する生徒のようだった。


全国から集められた校長先生が老体にムチ打って戦っている。

姫果が戦いの手を休めて、心配しながら見ていると、目の前を魚が飛んで行った。

えっ、魚!? なんで?

魚は敵の男の二の腕に突き刺さった。

「痛ェ!」男は腕を見る。「トビウオかよ!」

トビウオ!? なんで?

まあ、トビウオは飛ぶのだろうけど、ここで飛んでるのはなぜ?

「どうじゃ、わしのトビウオ攻撃は! 島根県名産のトビウオだぞ」

腰に魚籠をくくり付けている校長がいた。どうやら、島根の校長が魚を投げつけたらしい。

「ほら、まだまだあるぞ。今年は大漁だぞ!」

 トビウオをどんどん投げて、どんどん敵に刺さっていく。

 やがて、一匹のトビウオに何かが当たって墜落した。

姫果の足元にバナナが転がって来た。

今度はバナナ!? なんで?

「あらら、島根の校長先生、ごめんあそばせ」

赤縁メガネをかけた女性校長が駆け寄って来た。

「これは沖縄の校長じゃありませんか」

「わたくしの投げたバナナがトビウオに当たってしまったようですわ」

どうやら、沖縄名産のバナナをブーメランのように投げていたら、空中でトビウオとぶつかったらしい。自然界では決して出会うことのないバナナとトビウオのマッチングである。

「同士討ちですか。これだけ混んでいたら仕方ありませんな」

「では、失礼いたします」

 沖縄の女性校長はバナナの房を抱えたまま、また器用にバナナを投げ始めた。

「沖縄のバナナはサイコー! 台湾バナナには負けないわよー!」

島根の校長に違う校長が近寄って行った。

「いやあ、見事ですな。トビウオ攻撃ですか」

「おお、これはお隣の鳥取県の校長じゃないですか」

「お隣同士、いつもお世話になっとります」

「いやいや、こちらこそお世話になりっぱなしで――鳥取は何を持参されましたか?」

「うちはこれです」

「ほう、梨ですか」

「鳥取名産と言えば梨とらっきょうなのですが、らっきょうを武器にするのは心もとないので、梨にいたしました。ただ、そのままですと柔らかいので、冷凍してカチンコチンにしてきました」

「当たれば痛いでしょうなあ」

「ほら、この通りですわ――それっ!」

 冷凍梨をぶつけられ男が昏倒した。

「ははは。これは愉快じゃのう」

「鳥取と島根、隣県同士で力を合わせてがんばりましょう」

「そうですな。地理的にどっちがどっちか分からないと文句を言ってくる者もおります」

「鳥取を取鳥と勘違いする者もおります。確かに、とっとりは取鳥と書いた方がしっくり来ますけどな」

「逆にした方がしっくり来るのは、オオアリクイの頭と尻尾を逆にした方がしっくり来るのと同じですな」

「失礼な話ですなあ」

「そういった恨みもここで吐き出しましょうや」

「ストレス解消の場ということですな」

「それにしても、久しぶりに体を動かすと、あちこちが痛いものですな」

「私もさっきから腰が痛くて、痛くて」

「私は特に膝が痛くてねえ」

「私も全身がガタガタですわ」

「この年になると、病院の診察券が増えますなあ」

「私は性病科の診察券を手に入れると、全科コンプリートですわ」

「すべての診療科目を集めても、厚労省からは何ももらえませんけどな」

「お役人はケチですからな」

「しかし、私はお守りとして、ほらこれ」

 島根の校長はスマホ画面を見せる。

「三歳になる孫ですわ」待ち受けにしている。

「私も、ほれ」鳥取の校長も待ち受けを見せる。「四歳になる孫ですわ」

 二人は孫の話を始めた。

「将来はアイドルになってくれんかと思ってねえ」

「うちはサッカー選手になってほしくてねえ」

「孫に儲けてもらって、左団扇で暮らすつもりでしょう」

「バレましたか。考えることは同じですなあ」

「ところで、先ほどオオアリクイの尻尾の話が出ましたが、リスの尻尾は引っ張ったら抜けるそうですな」

「ほう、抜けますか」

「抜けますな。どこかでリスと出会っても、むやみに尻尾を引っ張らないことですな」

「ほう、抜けますか」

「抜けますな。リスの尻尾はトカゲのように再生しませんからな」

「ほう、抜けますか」

「抜けますな。リスの豆知識です」

 傍らで聞いている姫果は呆れ顔だ。

確かに、お年寄りの話題は病気の自慢と孫の自慢だけど、ここでやる必要はあるのか。

おまけに話が元に戻って終わりそうにない。他の校長は戦っているのだから、後でゆっくりやればいいでしょ。島根と鳥取くんだりから、何をしに来てるのか。

姫果は手招きして、二人の弟を呼び付けた。

「おねえちゃん、どうしたの?」「何かあったの?」

「甲太、七斗、あの二人の校長がさっきからさぼって働かないんだよ。教育者として、あるまじき行為なんだよ。だから、お尻を蹴飛ばしてきてくれる」

 島根と鳥取の校長はまだペチャクチャしゃべっている。

「えっ、いいの?」「校長先生だよ、怒られない?」

「これだけたくさんの人が入り乱れてるのだから、どさくさに紛れたらバレないよ。校長先生を蹴飛ばすチャンスなんか、永遠に訪れないよ」

「分かった。軽く蹴ってくる」「軽くでいいよね」

「甲太、七斗、あんたたちはじいちゃんから何を教わってるの。何事も全力で行う。これがじいちゃんのカンフー道場の信条でしょ」

 そして、三十秒後。

島根と鳥取の校長は思いっ切り蹴られたお尻を押さえながら、真っ赤な顔で部屋中を走り回っていた。

二人が走った後には、トビウオと冷凍梨が散乱していた。


今日は変なことがたくさん起きる。

シイタケが飛んで、バナナが舞い、ハマグリが転がり、Tボーンステーキが宙を切り裂いている。

現実に付いて行くのが大変だ。だけど食材に見とれているわけには行かない。

背後からそっと近づいて来た男に気づくと、体勢を低く取り、後ろ蹴りを下方からアゴに突き上げた。アッパーキックを喰らった男はグヘッと言って倒れ込んだ。

 よしっ、今度は気配を察知できた。これだと大校長にも叱られないだろう。

私も校長先生に負けないように頑張らなくては。

まだまだ敵は残っている。小物ばかりだが、あいつにたどり着くにはほど遠い。

「おーい、姫果。わしを忘れるんじゃないぞ!」

 誰かが私を呼んでいる。

「飛造じいちゃん! どうしてここに?」

 紺色のカンフー服を着たじいちゃんがのそっと立っていた。

「弟子たちが戦ってる中、師匠としては見過ごすわけにはいかんからな」

 カンフー服はつまり戦闘服ということだ。

じいちゃんは戦う気満々で来ているのだ。

「おお、美人四天王もがんばっとるの」

「じいちゃん、あの四人はホントに美人四天王と呼ばれてたの?」

「彼女たちからそう呼べと脅迫されたんじゃ」

「ああ、そういうことね」

「まあ、若い頃はそこそこキレイだったぞ。といっても容姿と技は無関係だからな。あまりキレイじゃない姫果もがんばりなさい」

「どういう意味よ! じいちゃんは顔も口も性格も悪い……」

「まあ、待て。窓の外に立ってのんびりと状況を見つめているのはインチキの小林だろう。姫果よ、わしのかわいい孫よ。あの獲物はお前に譲ろうじゃないか。室内の雑魚どもはわし達に任せて、遠慮なく戦って来なさい」

「ありがとう、じいちゃん。恩に着るよ」

 小物は任せよう。

 いよいよ、あいつとの戦いだ。

「それと、そんなものは置いて行きなさい」腰に差している三節棍を指差す。「武器に頼っていては勝てんぞ。最後にモノを言うのは己のこぶしだ。男はこぶしで勝負だ!」

「分かったよ、お師匠さん!」

 でも私は女なんだけど。それは弟たちに言ってよね。

 姫果は窓に貼られたビニールを引き剥がして、外へ飛び出した。 

「はい、お待たせしました、ラスボスの小林さん」


 特別室のド真ん中で金属バットを振り回している凶暴な男がいた。

モモさんが後ろから忍び足で近づいて行く。

 隙を見て、男の首に右手を巻き付け、左手で目出し帽を剥ぎ取った。

「おい、何するんだ! ふざけるなよ」

顔があらわになって、男はおもわず金属バットを落とした。

「強盗真っ最中の人間が人に向かって、ふざけるなとは、どの口が言ってるんだい」

「それもそうだけど、わっ、冷たい! 何だこれは?」

 男の右側にサキさんが立っていた。

「お兄さん、動かない方がいいよ。頬に当ててるのはおろし金だよ」

「おろし金って、大根をおろすアレか?」

「そう、アレだよ。動くと右頬がギザギザになるよ」

「待てよ! わっ、こっちも冷たい。何を当てやがった!?」

 男の左側にタミヨさんが立っていた。

「皮を剥くピーラーだよ。動くと左頬がズル剥けになるよ」

 男の首を絞めながらモモさんが耳元でつぶやく。

「お兄さん。顔をおろし金とピーラーに挟まれて、首を締められる人生はどんな気分だい?」

「いや、あの、想定外です」

「そうだろうね。世界初の偉業じゃないか。モノは相談だけど、このままこの部屋から出て行ったら、許してあげるけど、どうだい? そうでないと、ブサイクな顔が輪をかけてブサイクになってしまうよ」

「出て行きます! 天地神妙に誓って、出て行きます!」

「どうせ、闇バイトに応募したんでしょ。これから真面目に働くんだよ」

「はい、そうしますから、おろし金とピーラーと腕を離してください」

 サキさんとタミヨさんが手を下ろし、モモさんも首から腕を外してやった。

「はあ~、死ぬかと思った」男は安堵の表情を浮かべた。

そう言った瞬間、男は振り向いて、モモさんに殴りかかった。

モモさんは腰をかがめてパンチをかわすと、一歩下がって、金盛からもらった麺棒を使い、フルスィングで殴り付けた。

「ハイヤー!」

それは男の側頭部を直撃して、麺棒は真ん中から折れてしまった。

「あら、せっかくひしゃくと交換してもらったのに、木製の武器は折れるし、金属製の武器は曲がるし、困ったもんだね」

 それは武器じゃなくて、調理器具なんだけどと思いながら、男は床に倒れ込んだ。

 モモさんは真っ二つに折れた麺棒を投げ捨てた。

「タミヨさん、すくい網を注文してたよね」

「昨日届いたんだけど、忙しかったんで、そのまま調理室の壁に立てかけてあるよ」

もはや振り回す武器がなくなったため、新しく買い入れた調理器具を使うしかない。戦いに勝って、ここを守り切れれば、レーベー会長がまた買い足してくれるだろう。

そう信じて、遠慮なく使うことにする。

 モモさんは数人の敵を蹴散らしながら調理室に入った。そこでも数々の戦闘が繰り広げられていた。しかし、自分の職場が荒らされていることに心を痛めている暇はない。倒すべき敵はまだたくさん残っているのだ。

棚の裏に立てかけてあった長さ一メートルほどの荷物を見つけると、梱包を解き、すくい網を取り出した。柄の先に網が付いていて、灰汁を取ったり、水切りをしたり、麺類をすくったりするための調理器具だ。

 調理室から特別室に戻ると、すくい網をバットのようにブンブンと振り回してみた。もちろん本来の使い方とは違っている。

「うん、なかなかいいね。うまく手に馴染むね。さて、戦闘を再開するか――ハイヤー!」

 モモさんが駆け抜けた後にはたくさんの男たちが気を失って、倒れていた。

 彼らが目を覚まして、目出し帽を取ると、顔面に網目が付いていることに気付くだろう。


 その頃、ハナコさんは調理室の隅で二人の男と対峙していた。特別室から調理室へと戦いの場を移していたのだ。

先ほど、モモさんがすくい網を手に脱兎のごとく、駆け出して行った。だが、あの先生はかわいい兎なんかじゃない。兎の皮をかぶった狼だ。新たな武器を手にしたことで、また犠牲者が増えるだろうが、せめて命だけは大切にしてほしい。もちろん相手の命だ。

 ハナコさんはどこにでもいるような丸っこいおばちゃんなのにカンフーの使い手であり、蹴飛ばされた奴は三メートルほど飛ばされて行く。そんなシーンを何回か見ていた男たちは一人じゃ勝てないと読んで、卑怯にも二人でやっつけてやることにしたのだ。

「あらら、給食のおばちゃん相手に、大の大人が二人がかりで相手をするのかい。男としてのプライドはなくしてしまったのかい」

「この際プライドもヘッタクレもないぜ。勝てばいいのさ」

「そうだぜ。これだけ大人数で乱闘が起きてるのだから誰も見てないさ」

「観念しなよ、おばちゃん」

「土下座したら許してあげるぜ」

「ふん、お前らに土下座するくらいなら、豆腐の角で頭を打って死んだ方がマシだよ」

「言ってくれるねえ。俺の高速パンチがよけられるかな――そらっ!」

 二人の男は背が高い。いや、ハナコさんが低いのか。

上から打ち下ろして来るようなパンチが飛んで来た。

 それを難なくかわすと同時に、ハナコさんは男の顔面に向けて、右ハイキックを放った。

「あら、空振りだわ」足が短くて届かなかった。

「いや、おばちゃん、今のはコントか? 蹴りというのはこうやるんだよ――それっ!」

――バシッ!

 男のローキックがハナコさんの足に当たった。

「痛ッ!」太腿には自信があったのだが、かなり痛い。

「どうだい。おばちゃんからは届かないけど、俺からは届くんだよ。足の長さの違いなんだ。神様がそう作ったんだ。俺たちを恨むんじゃないぞ」

 もう一人の男もニヤニヤと見つめている。

「明日になれば、足が腫れてるかもしれないぜ」

「なによ、これ以上腫れないわよ」

ハナコさんは強気に出るが、明日はまともに歩けないかもしれない。

 蹴りを封じられたのは、ちょっとマズいかもね。

 二人の男から目を離さないようにして、腰にぶら下げているおたまを手に取った。

「おばちゃん、そんなモノを使うとしても、俺たちに届かなければ意味はないぜ」

「ふん、分かってるさ」

「まさか投げつけるんじゃないだろうな。避ければいいだけのことだぞ」

「逃げるのなら今のうちだぞ。出口はあっちだぞ」 

男のくせによくしゃべりやがる。悪党は黙って悪事を働くものだよ。

ハナコさんは小声で悪態をつくが、二人がじわじわと動いて、両側から挟み込もうとしていることに気づいた。新たなおたまを手に取り、両手に持って、二刀流になった。

「おたまを二つ構えても無駄なだけだよ」

 二人の男が左右から同時に動いた。

 マズい!

 ハナコさんがカンフーの達人であっても、体が大きな男から同時に攻撃されると、避けることもできない。

何もできず、おたまを持ったまま両手で頭を抱えて、目をつぶった。

 バシッという音が立て続けに二回聞こえたかと思うと、二人の男が足元に倒れて来た。

 目の前に小柄な老人が立っていた。

「あら、飛造さん!」

「かわいい弟子のために駆けつけたよ」

「私はかわいくないけど、ありがとね」

 飛造はそばにあった業務用冷蔵庫の上から男たちに向けてダイブし、空中で二発の蹴りを顔面に命中させて、二人をたちまち倒してしまったのだ。

「下から蹴っても届かなければ、上から攻撃する。押してもダメなら引いてみなと同じ原理だよ」

「私としたことが、かたじけない」

「うちの孫娘が世話になっとるようで、そのお礼だよ」

「ああ、姫果ちゃんかい。あの子は真面目でよく働くよ」

「しっかり指導してやってくれよ」

「心配しなくても、私がちゃんと一人前の給食調理員にしてあげるさ」

 師匠と弟子はガッチリ握手をした。


 一方、大柄な男二人が向き合っていた。

「ここで会ったが百年目だな、鱶王さん」

 名前を呼ばれた男は三途川のボディガードである。

「会いたかったぜ、銀鮫さんよ」

 もう一人は礼兵衛会長の右腕、経理担当の銀鮫主任である。

「なぜ俺の名前を知ってる?」銀鮫が睨みつける。「増田明美さんのプチ情報か?」

「白衣の胸に名前が刺繍してあるだろ」

「うぅ」あわてて胸に手をやるが、見られた後だったので遅かった。

「銀鮫さんよ、いつかは随分と世話になったな」

 三途川が礼兵衛会長に盗んだ巻物を売り付けに来たが、自作自演を予想して、銀鮫が蹴散らした件を言っている。

「ああ、世話してやったよ。手間のかかるお二人だったな」

「まあ、今日はそのときの恩返しに来たというわけだ」

「鱶の恩返しか。なかなか律儀でよろしいが、ロマンの欠片もないから、日本昔話にはならんな」

 銀鮫は手に持っていたバケツを投げ捨てた。ボコボコになっている。

 転がっていたバケツを振り回して、何人もの敵を蹴散らしていたのだ。

「武器のバケツを捨ててもいいのか?」

「貴様の頭はデカすぎてバケツが入らないからな」

「大きなお世話だ」

「お前には素手で十分。私には勝てんぞ」

「何を言っておる、銀鮫。さっきから足元がふらついてるぞ。戦い疲れてるのか」

「まさか。ふらついてる理由はこれよ」

 銀鮫が構えた。足を交差させて、両手首を曲げる。

「何! 貴様、酔拳の使い手か!?」

「よく分かったな。体が大きいだけの鱶王さん」

「斉工給食調理商会には酒が置いてあるのか?」

「奈良県からの差し入れよ」

「奈良漬けを喰って酔ったというのか!」

「ああ、山ほど喰ったわ」

「ならば、こちらもお相手をしよう」

 鱶王も構えた。同じ構えだ。

「貴様も酔拳を使うのか! 酒を持参したというわけだな」

「いや、ここまでバスで来たのだが……」

「乗り物酔いによる酔拳か!」

「驚いたか?」

「呆れたわ。酔い止めの薬くらい飲んでおけ」

「テレビでバス旅の番組を見るだけで酔うからな」

「文句は太川陽介に言え」

「子供の頃のバス遠足は辛かったなあ」

「お前のビターメモリーなんか聞きたいないわ――いくぞ!」

 銀鮫の拳が鱶王の顔面に飛んだ。

 鱶王はその拳を拳で受け止める。

 拳と拳との応酬が続く。お互いの手は痛いはずだが、表情には出さない。

 やがて両者が離れて間合いを取った。

「ふ~、ふ~。やるなあ、銀鮫。経理担当の分際で」

「ふ~、ふ~。見直したぜ、鱶王。ボディガードの分際で」

 二人ともすっかり息が切れているのだが、相手に息遣いがバレないように、小さく細かく息をしている。

 鱶王がいきなり距離を縮め、蹴りを入れて来た。銀鮫はフラッとかわすと同時に、こちらからも蹴りを繰り出す。今度は蹴りの応酬が始まった。

あっちへフラフラ、こっちへフラフラ。酔拳の名の通り、酔っぱらいのような足取りをしながら、二人の攻防が続いて行く。

 いきなり鱶王が床で滑って、バランスを崩した。

沖縄の女性校長がブーメランにして投げていたバナナの皮で滑ったのである。

銀鮫はこのチャンスを逃さない。

 すかさず間合いを詰めて、急所を蹴り上げた。

「うぅ、貴様。金的を攻撃するとは卑怯だぞ」

 急所を押さえながら、うつ伏せに倒れ込む。

バナナの皮で滑るなんて、昭和のコントかよ。

 銀鮫は肘に全体重をかけて、鱶王の背中へダイブした。

――グヘッ!

 鱶王が潰れた。

「悪く思うな。これはスポーツじゃなくて、給食を守るための戦争、子供たちのための代理戦争なのだよ。反則なんてないのだよ。お前の考えが甘かったということだ。いくら酔拳の使い手でも、自分に酔ってるようでは勝てないぜ――うう、気持ち悪い。やっぱり奈良漬けは樽ごと喰うもんじゃないな」


 特別室の隅では二人の老人が向かい合っていた。

 誰も近寄ろうとしないため、混沌と化している室内で、その場だけがぽっかりと空いている。老人は斉工礼兵衛会長とグルメ王三途川味エ門の二人であった。

「三途川殿。とうとう化けの皮が剥がれましたな。自作自演が失敗したため、強硬手段に出たというわけですな」

「もはや言い訳はせぬ」

「ならば、全国ご当地給食の日に四十七都道府県の給食の配送車からレシピと食材を略奪したのも、貴殿の仕業だと認めるのですな」

「ああ、そういうことだ」

「しかし、すべてのレシピを試してみたが、納得のできるものはなかったのですな」

「そうだ。各地の給食と巻物に書かれていた鯨の竜田揚げを一日で食するのは大変だったぞ」

「四十七とうちから盗んだレシピの合計四十八の料理をわずか一日で味見をしたのですか?」

「もはやコンテストまで時間がないからな」

「いい年ですから、無理しない方が体のためですよ」

「心配しなくとも、胃袋は鍛えれば鍛えるほど大きくなる。わしは男ギャル曽根と呼ばれておる」

「男ならギャルとは言わないでしょう」

「細かいことは気にするな」

「今ここで起きている騒動も貴殿が闇バイトで集めた連中の仕業ということですな」

「集めたのは他の人間だ。しっかり仕事をしてくれたわ」

「素敵なお友達をお持ちのようですな。類は友を呼ぶとはこのことですな」

「なんだったら、紹介してやろうか。金さえ出せば何人でも集めてくれるぞ」

「お断りする。闇バイトに頼らなくとも、うちには優秀な人材が山ほどおりますからな」

「それは残念だが、貴様の気が変わるかもしれん。顔合わせくらいはしておいた方がいいぞ。ちょうどこの場に来ておる」

「闇バイトの黒幕がここにいるのか」

「そうだ。バイトで雇った連中がちゃんと仕事をしているか確認に来ておる。おかっぱ頭で口髭を生やしておるから、すぐに見つかるだろう」

「そんな怪しげな奴に用はない」

「さて、無駄話はここまでだ。そろそろ幻のレシピを渡してもらおうか」

「その前に一つ、お聞きしたい。なぜ罪を犯してでもレシピを得ようとなさるのか?」

「それはキミ、銅像だよ」

「世界学校給食コンテストの優勝の副賞ですか。私も銅像には憧れておるので、分からなくもないですが、人間国宝に推薦されるという特典も付いてますよ」

「人間国宝なんぞ肩書であり、死んだら終わりであろう。銅像なら形としてずっと残る」

「十分な財産をお持ちでしょうから、ご自分で建立されたらいかがですか?」

「人に建ててもらって、人に崇めてもらうのがいいのだよ。わしも天国から自分の銅像を見下ろそうと思っておる」

 この御仁は死後、天国界に行けると思っているのか。ずうずうしいにも程がある。閻魔大王に賄賂は効かないと思うぞ。

「ならば、ご自分が考案なさったレシピで勝負なさったらどうですかな」

「それは、まあ、なんというか、時間もないしな」三途川はしどろもどろになる。

 だが、礼兵衛は知っている。グルメ王などと呼ばれているが、食べることが専門で作ることはしない。せいぜいお湯を沸かすくらいしかできないだろう。ましてや、新しいレシピなんか考えることはできないはずだ。そのとき……。

「三途川ー!」大きな叫び声がした。

 二人の老人は何事かと振り向いた。

パジャマ姿のロバート参条が巨体に何人もの男をしがみつけせて、ズルズルと引き摺るように向かって来る。頭には包帯を巻いたままだ。

「見つけたぞー!」

彼も三途川の自作自演に気づいたのだろう。

 幻のレシピを買い取るために五百万円を支払ったところで、覆面をした三人組に襲われて、頭蓋骨骨折で入院していたのだが、ここに三途川がいると聞きつけて、病院を抜け出して来たのだ。クッキングAIベースの職員に、斉工給食の調理員の誰かが教えてあげたのだろう。三途川を叩きつぶすため、敵に塩を送ったというわけだ。

 ロバート参条は、まるで肉食動物の集団に襲われている瀕死の大型草食動物のように、何人もの男を引き連れている。白い顔は赤く染まり、こめかみの血管は浮き出て、仁王像のような凄まじい形相をしている。

「三途川ー! よくも私を騙したな」

 だが、こんな状況でも三途川は表情一つ変えない。

「はて、何のことやら。あのとき、わしも一緒に襲われて、ひどい目に遭ったのだがな」

「ではなぜあのとき奪われたはずの幻のレシピを貴様が持っていて、斉工給食に売りつけに行ったのだ!?」

「古物商の店先で見つけてな」

「ウソつけ! あんなものを売ってるわけないだろ」

「ジャパネットで……」

「売ってないわ!」

 ロバート参条は両手両足を一気に伸ばした。しがみついていた男たちが吹き飛んで行った。入院中とは思えないパワーだ。ロバート参条には北欧バイキングの血が半分入っているのだ。

「三途川、覚悟せよ。大人しく年貢を納めるんだ」

「ほう、年貢を納めるとは、難しい日本語を知っておるな」

 三途川は涼し気な顔をしている。

「公文のデンマーク出張所で学んでいたからな」

「それは感心、感心。さて、わしは今、礼兵衛会長と話をしておってな。いつまでも君の相手はしておれないのだよ」

 三途川は右手を上げた。

 屈強な五人の男たちがたちまちやって来て、ロバート参条をあっという間に制圧してしまった。

「わしの旗本だよ。みんなご苦労。そのハーフ男を外へ放り出してくれ」

 五人は神輿を担ぐようにして、ロバート参条を連れ出した。

「三途川~、卑怯だぞー! 尋常に勝負せよー!」

 ロバート参条は端正な顔を歪めながら叫び続けた。

ああ、ケガさえしてなければ、こんな連中には負けなかったのに。

「尋常に勝負とは、これまた難しい日本語を知っておる。さすが公文だ――さてと、待たせたな、礼兵衛会長よ。邪魔者は放り出した。幻のレシピを渡せないと言うのなら、こうしようじゃないか。優勝賞金の一万ドルは君に差し上げよう。副賞の銅像はわしがいただく」

「いや、お断りする」

「ほう、わしに逆らうと言うのかね」

「たとえあなたが私よりも長く銀シャリを食べている人生の先輩であっても、聞き入れるわけにはいきません。そもそも巻物はご自身でお持ちではないか。先ほど買い取るようにおっしゃった巻物に、幻のレシピが書いてあるのですよ」

「いや、そうではなかろう。別のレシピがあるはずだ。あの巻物に記載されているレシピの通りに作ってみたが、さほど美味ではなかった。わしの舌を感動させるものではなかったのだよ。だから本物のレシピが存在するはずだ。すぐにそれを渡してもらいたい」

「いいえ、あれが本物です。あれ以外のレシピはありません」

「いや、あそこに入ってるはずだ」

 三途川は古くて大きな金庫を指差す。

 金庫の前には金盛が巨大ひしゃくを持って、番犬よろしく立っていた。ひしゃくはモモさんに麺棒と交換してもらったもので、真ん中から、くの字に曲がっている。

「あのヨボヨボの老人は何者かね?」

 三途川は金盛をスパイとして利用していたが、闇バイトで雇ったため、会ったこともない。今が初対面である。一方の金盛も雇い主が三途川とは気づいていない。

「彼には金庫を守ってもらってます」

 これまで金庫を狙って来た者が何人もいるらしく、金盛の白衣はボロボロになっている。

「冗談にしては面白いのう」

「冗談ではなく、私の旗本です」

「あれが旗本かね。ロバート参条を瞬時にやっつけたわしの旗本とは随分と差があるのう」

「彼は人生を賭けて金庫を守っております」

「ということは、あの金庫の中には人生を賭けるだけ価値のある物が入っているということだな」

「さて、どうでしょうかね」礼兵衛会長はバカにしたようにとぼける。

「君も頑固な御仁だのう。そこまで言うのなら、実力行使に出るしかないのう」

 三途川が突然、カンフーの構えを取った。

「いざ、参るぞ!」

なんだ、古臭い言い回しだなと思いながら、礼兵衛も構えて向き合う。

「いいでしょう。お相手をいたしましょう」こちらもカンフーだ。 

「勝った者が本物のレシピを得るということでどうかな?」

 三途川が金庫と金盛を見つめながら、提案してくる。 

 礼兵衛は呆れて、物も言えない。

そもそもあのレシピは先祖代々うちに伝わるもので、巻物は三途川が所持している以外に本物のレシピなんぞ存在しない。しかし奴は金庫の中に違うレシピが入っていると思い込んで、ここを襲って来た。“他にレシピを隠し持っているフリ作戦”にまんまと騙されたのである。

礼兵衛が黙っていると、承諾したと受け取られた。

もはや、かまわない。勝負に勝てばいいだけのことである。

礼兵衛は八十二歳。三途川は八十八歳。

 後期高齢者同士の戦いが始まった。

ケガをしたところで、病院代はわずか一割負担だから、気兼ねなく戦える。こんなときのために、欠かさず保険料を納めているのである。

「ハッ!」「ハッ!」

お互いが正拳を突き出す。飛んで来る相手の拳を防ぐとともに、自分の拳を相手の体に当てる。防御と攻撃を同時に行う。

二人とも年齢が年齢なので、足を使った攻撃はおっくうになっている。ハイキックなんぞしようものなら、バランスを崩して、転んでしまう可能性が大きい。転んだら、立ち上がるのに一苦労するし、相手はその隙を狙って来る。

よって、お互い上半身だけでやり合うことになる。

老人にしては拳の繰り出しが早い。お互いベテランの拳士だからだ。

しかし、次第に顔の表情が険しくなって来る。お互い高齢だからだ。

 お互いが二歩ずつ後ろに下がり、乱れた呼吸を整える。

「ハアハアハア、会長、なかなかやるじゃないか」

「ハアハアハア、三途川殿こそ、素晴らしいスタミナですな」

 息が乱れている今がチャンスなのだが、二人して動けない。頭では動こうとしているのだが、体が反応してくれない。両手は相手の拳を多数受けていたため、痺れて、動かせない。

 見合ったまま、回復するのを待っている。しかし高齢であるが故、回復するのに時間がかかる。手足にできたアザが消えるのに、一週間はかかるだろう。

よしっ!

 礼兵衛が相手に気づかれないように気合を入れ、腹部を目がけて、前蹴りを放った。

 三途川はさらに後退して、蹴りを避ける。

 だが、これは想定内だった。

 礼兵衛はさらに踏み込んだ後、後ろ回し蹴りを繰り出した。

――バシッ!

 一か八かの作戦だったが、相手のどこかに当たった感触があった。

 体を半回転させて見てみると、自分の足が三途川の側頭に当たっていた。

 おお、当たった! 見事じゃないか、私!

 自分でも驚いた。

せいぜい腰のあたりに当たったと思ったのだが、意外と足が上がり、相手が小さかったこともあって、頭まで届いていたのだ。しかも無理な体勢で蹴りを放ったというのに、バランスを崩さずに立っているのではないか。素晴らしいことだ。こんなに自分の体が柔らかいとは思わなかった。日頃から酢の物を摂取していてよかった。

 しかし、まともに頭へ蹴りを喰らっても三途川は倒れない。ふらついているが、かろうじて、精神力で支えている。恐ろしい老人だ。

「やるなあ、会長。だが何も効いておらんぞ。勝負はこれからだ」

 絞り出すように言って来た。だが、体はふらついている。足に来ていることは確かだ。

もはや強がりで言っていると察した礼兵衛は相手に組みつくと、足をからめて、たちまち投げ飛ばした。

 床に転がった三途川に、礼兵衛は躊躇なくかかと落としを何度も喰らわす。

 防戦一方になった三途川はそのまま動かなくなった。

かかと落としがこんなに効くとはビックリだ。そしてここでも足が上がる。やはり素晴らしい。毎朝のスクワットは裏切らない。

 いつまでも動かない三途川に驚いた礼兵衛は攻撃をやめて、しばらく様子を見ていたが、やがて三途川はヨロヨロと立ち上がった。

 よかった。死んでなかった。

しかし、この気力には敵ながら感心する。二百歳くらいまで生きそうだ。

おそらく全身打撲だ。骨折はしてないだろうが、あちこちに青色や赤色のアザができて、カラフルなお肌になっているはずだ。今夜風呂に入るとき、あまりの痛さに顔をしかめるだろう。

三途川が息も絶え絶えに言ってくる。

「ハアハアハア。ウワサによると、貴様は巻物をチラッと見ただけで、中身はよく確認できていないはずだ」

 そのウワサはあの時の侵入者の一人から聞いたのだろう。

「確かに私は巻物の中身をチラッとだけ見ました。しかし、私は文章なり、図形なりを瞬時に記憶できる能力を有しております」

「それで暗記できたというのだな。しかし、レシピが間違っていたようで、おいしくとも何ともなかった。レシピを再現したが、ただの鯨の竜田揚げだったのだよ。だから他にレシピがあるはずだ」

「レシピが間違っていたわけではなく、違うレシピがあるわけでもありません」

「いったいどういうことだ」

「隠れていたのですよ。私が幻のレシピを見た。その瞬間、電気が消されたのですよ。すると、それまで見えてなかった全文が見えたのです。三途川殿は巻物を暗闇で見てないから、見えなかったのですよ」

「夜光塗料で書かれていたというのか!」

「そういう仕掛けです」

「何が隠されていたと言うのか?」

「最後に、竜田揚げへ入れる隠し味としての調味料です」

「たったそれだけか?」

「そうです。その調味料を一つまみ入れるだけで、味の奥行きが出るのですよ。味の極意なんぞ、そんなものです。ほんの少量の調味料で微妙で繊細な味は表現できるのですよ」

 グルメ王を名乗りながら、そんなことも知らないらしい。ただの食いしん坊じゃないか。

「なるほど、そういうことだったのか。しこうして、その調味料とは?」

「あなたに教えるわけありません」

「そうだろうな」

 全身打撲のため、もはや顔が真っ青になっていた三途川は事情を聞いて、全身の力が抜けたのか、食材が散乱する床にヘナヘナと崩れ落ちた。

 五人の旗本があわてて駆け寄った。


 その頃、愛崎姫果は小林と対峙していた。

 おかっぱ頭に口髭。遠くから見ても、近くから見ても、カンフー映画の悪者にしか見えない。道場の写真で見たのと同じ黒い道着を着ている。これ一着しか持ってないのか。同じ服を何枚も持ってるのか。

「小林さん、私がお相手を務めさせていただきます」

「ほう、お嬢さんとはどこかでお会いしましたかな」

「いいえ、初対面です。あなたが募集された闇バイトに応募したわけではありません」

「ははは。面白いことをいいなさる。闇バイト? 何ですかな、それは」

「日本で流行ってるのですよ。中国にいらっしゃったから、ご存じないかもしれなせんね」 皮肉を言ってやる。「中国と言っても、広島や岡山がある所じゃなくて、チャイナですよ」

「ほう、私を中国で知ったわけですな」

 ニヤニヤ笑いながら言ってくる。

 私はすばやくカンフーの構えを取る。

「おお、その構えは! なーるほど、北京の小林寺で修行をしていたわけだね」

「そうです。てっきり本物の少林寺と思って、入門したら、インチキの小林寺だったのです」

「ははは。本物の少林寺が雑居ビルに入ってるわけなかろう。おかしいと思わなかったのかな?」

「おかしいとは思わないで、女性初の師範代にまでなりました。女性初の師範代がたくさんいることも知らずに、五万円も払いました」

「師範代商法でずいぶん儲けさせていただいたよ」

「百人に授けたとして、五百万円ですからね」

「ははは。もっと多いわ。中国の人口の多さを舐めてはいけない」

「とんでもない悪党ですね」

「その通りだ。気づかなかったのかね」

「私は純粋なものですから」

「ははは。ただ頭が悪いだけだろう。どうだ、闇バイトに応募せんか?」

 さっきは闇バイトなんか知らないととぼけたのに、この変わり身の早さ。やはり悪党だ。

「荷物を受け取るだけで十万円もらえるのでしょう」

「ほう、ユーシュエンに会ったかね」

「さっき特別室で会いました。今頃私の弟たちに、コテンパンにやられていると思います」

「ほう、弟くんもカンフーをなさるのか。それは良き心掛けだね」

「小林寺の開祖の黒峠さんこと小林さん。あなたは誰かに頼まれて、金庫にある幻のレシピを奪うため、闇バイトで雇った連中を使って、ここを襲った」姫果は黒幕が三途川だとは知らない。「だけど、一つ大きな誤算がありました」

「ほう、何だね、それは?」

「この街にはカンフーを習ってる人がたくさんいるということです。しかも小林寺のようなインチキカンフーではなく、本物のカンフーです。カンフーができる人たちが今、斉工給食調理商会を守ってます」

「そのカンフーは誰が教えてるのかな?」

「愛崎飛造です。そして、私は孫の愛崎姫果です」

「ほう、飛造じいさんがこの街にいたとは驚きだ。確か、引退して中華料理店を営んでいると聞いたがな」

日本のカンフー業界は狭い。飛造のことを知っていたようだ。

「中華料理店香港というお店を経営してます。そのかたわら、カンフーを教えてます」

「なるほど。今頃は中華鍋を振ってるというわけか」

「いいえ。じいちゃんもここに来てます」

「なに!」

「弟子たちの一大事だからと、今頃闇バイトで集めた人たちをコテンパンにやっつけてるはずです」

「ぐぐぅ」小林の顔が苦悩で歪む。

 じいちゃんの名前を出したら、こんなに効果があった。こっちが驚いた。

 じいちゃんはそんな有名人だったのか。開祖が黙り込むほど強かったのか。

「餃子が絶品だから、いつか食べに来てくださいね」

「ああ、そうだな。ぜひ、そうさせてもらうおう。私は餃子には目はないからね」

 無理に余裕のあるところを見せているようだ。

「割引クーポンはないのかな?」

「ありません」

「シニア割はないのかな?」

「そんなのあるわけな……」

 突然、小林がカンフーの構えに入った。

両腕を突き出して、片足を上げている。写真に写っていたポーズと同じだ。

 でも、想定内だ。不意打ちは悪党の十八番だからだ。

 孫の私を倒して、人質にでも使うのかもしれない。

 だけど、あんなインチキ拳法が本物のカンフーに勝てるわけない。

 インチキ拳法を半年間も習っていた私が言うのだから間違いない。

私は小林寺で習ったインチキのカンフーの構えを、じいちゃんから習った本物のカンフーの構えに切り替えた。

「飛造の孫とやら、眉間にシワが寄っておるぞ。妙齢の女性らしからぬ表情をしておるぞ」

 また眉間のシワのことを言われた。道場の帰りにからんで来た三人組にも言われた。私の眉間のシワのことが、悪党業界のチラシにでも掲載されてるのか?

シワを隠すためと、気合を入れるために巻いていた白いバンダナは戦っているうち、いつの間にか外れていた。特別室のどこかに落ちてるだろうけど、探してるヒマはない。床には全国各地の食材の切れ端が散らばっていて、探しようがない。かといって、ホウキとチリトリで掃除をしているヒマもない。ホウキもチリトリも貴重な武器として、調理員の誰かが活用していることだろう。

 小林の遠慮のない拳が目の前に飛んで来た。

 私はとっさに上体を反らせて、拳を避ける。

わあっ、マトリックスみたいだ! 我ながらすごい。

 だが、小林は第二の拳を放って来た。

 早い!

 思わず、背中を向けてかわす。

 その体勢からバックハンドブローを繰り出した。

 だが、裏拳は空を切った。

 ヤバい、届かない。腕が縮んだのか?

「踏み込みが甘いのだよ」小林が笑ってる。

 軽くかわした上に解説までしてくれるとは、なんと親切なのだろう。インチキといえども、多少はカンフーの心得はあるようだ。さすが開祖だ。

いや、敵を褒めてる場合じゃない。

 小林は笑いながら、右足で蹴りを入れて来た。

 それを私は左足で受け止める。

――ガッ!

 うまく向こう脛に当たった。小林の顔が歪んだ。 

すかさず距離を縮めて、ヒジを顔面に叩き込む。

――ガッ!

 これは頬に当たった。絶対痛いはずだ。

 ヒジ打ちはさんざん練習したんだよなあ。

 練習は裏切らないというのは本当だね。

 小林は痛みで顔を歪めながらも、中段蹴りを放って来た。

――ドゴッ!

 私のお腹に足が喰いこんだ。あまりの衝撃のため、そのまま後ろに倒れ込む。

 小林がまた笑った。ゆっくり近づいて来る。

 今の強烈な蹴りで、私がもはや戦闘不能になったと思っているのだろう。

 だけど私は平気だった。お腹はしっかり守られていたのだ。

前回、お腹に少年ジャンプを入れていたが、とても痛かった。次はコロコロコミックにしようと思ったのだが、よく考えてみたら、最近のコロコロコミックは昔ほど分厚くないらしい。そんなとき、七斗が少年マガジンをくれたので、二冊を重ねてみた。お陰でお腹は全然痛くなかった。

ありがとう、少年ジャンプと少年マガジンによる夢の合本!

苦しんでいるフリをやめて、立ち上がると、すかさず向かって来る小林に突進した。

そっちが卑怯な不意打ちなら、こっちも卑怯な不意打ちだ。

こいつに勝つためなら、私は悪にでもなる。

奴のアゴを狙って、拳を突き出した。

――ガッ!

クリーンヒットした。不意打ちサイコー!

小林はアゴを押さえて痛がっている。

休むことなく、防御している腕の上からでも顔面に向けて連打する。

小林は何とか防ごうとするが、姫果の拳は早く、次々と繰り出して来る。

女性であるがゆえ、一発の拳は弱い。しかしそこは手数で勝負だ。

小林もおかっぱ頭を振り乱しながら反撃を始める。

二人の間で拳の応酬が始まった。

どうだインチキ野郎、こっちは木人椿を使って練習をしたんだよ。

インチキ小林寺には置いてなかった木人椿だよ。

やがて、小林の足がふらついて来た。

さきほど、頬にヒジ打ちを受けて、アゴには正拳を喰らった。そのときのダメージがまだ残っているのだろう。

タイミングを見て、もう一発の正拳をうまく顔面に当てた。

これは効いたようだ。小林の動きが止まった。ガードしていた腕も下がった。

最後にモノを言うのは己のこぶしだとじいちゃんが言っていた通りだ。

姫果はいったん距離を取って、助走を付けると、もはや戦意を喪失しつつある小林に空中から襲いかかった。

膝を蹴り、お腹を蹴り、顔面を正面から蹴り上げた。

 すごい、三段蹴りだ! 

よくできました。三重丸――自分でもそう思った。

 小林は後ろに吹っ飛んだ。ハナコさんの三メートル蹴りには及ばないが、二メートルは飛んで行っただろう。

 起き上がって来たときのために、構えを解かないで見ていたが、小林は大の字に伸びたまま動かない。

 いや、待てよ。こいつは卑怯者だ。倒れてるフリをしているかもしれない。

 近づいて行って、急所を蹴飛ばしてやる。

それでも起きない。完全に気を失っていた。

 よっしゃー! インチキカンフーに勝ったぞー!

じいちゃんの本物カンフーの方が強かったぞー!

中国で騙された恨みを晴らしたぞー!

見事な三段蹴りで小林を倒したが、ほんの数分前、飛造じいさんが空中二段蹴りで敵をやっつけたことは知らない。師匠よりも一段多かったのだが、それを知ると姫果はますます付け上がっただろうから、知らない方がよかった。

よしっ、ラスボスを倒した。みんなの応援に行こう!

おばちゃんたちも弟たちもじいちゃんも無事でありますように。

 姫果は窓から再び特別室に飛び込んだ。

 

 ハナコさんのおたまは全部ひん曲がり、サキさんの鍋のフタもひん曲がり、タミヨさんの巨大なしゃもじは半分に折れ、モモさんのすくい網は網の部分が取れてしまい、ただのステンレスの棒になっていた。

 甲太のヌンチャクも七斗のヌンチャクもあちこちが欠けて、今にも折れそうだ。

 じいちゃんは私が渡した三節棍を持っていたが、一本が取れてしまい二節棍になっていた。長めのヌンチャクである。武器に頼るなと言いながら、自分は使っていたようだが、お年寄りだから許してあげよう。

 酔拳で活躍した銀鮫は酔いが覚めず、ソルマックをグビグビ飲みながら、これから奈良漬けのドカ食いは止めようと決心していた。

 金盛はさすが旗本らしく、全身で覆いかぶさるようにして、金庫を守っていた。

 白衣はボロボロで、お尻は破れて赤いパンツが見えている。おそらくこの日のために買って来た勝負パンツだろう。眼鏡はどこかへ飛んで行ってしまい、七三分けだった髪はバサバサに乱れている。そして、くの字に曲がっていた巨大ひしゃくは何人もの敵を殴り付けているうち、元の真っすぐに戻っていた。これだとまだ使える。新しく買う必要はない。経費が節減された。さすが元経理担当だ。

「金盛、よく金庫を死守してくれた」礼兵衛会長が褒める。

「はい、何とかがんばりました」声も掠れて、今にも倒れそうだ。「ところで会長、金庫の中に新たなレシピは入ってないと聞いてますが、いったい何が入っているのですか?」

「何も入っとらんよ。空だよ」

「えっ!? 私は命がけで守りましたが」

「わしは確かに金庫を守ってくれと頼んだが、金庫の中身を守ってくれとは頼んでない」

「そんな殺生な……」

「違うレシピが入っているように見せかける陽動作戦だ。名付けて“他にレシピを隠し持っているフリ作戦”だ。敵を騙すにはまず味方からと言うだろ」

「作戦名を聞いただけで内容がバレてしまうようなお手軽な作戦に、私も敵もまんまと騙されたわけですか」

「金盛よ、気を落とすな。お前が抱きついてる金庫は年代物の価値ある金庫なのだよ。先祖代々受け継がれてきたもので、日本中探してもここにしかないお宝なのだよ。けっこうな値で売れるぞ――いやあ、よくぞ金庫を守ってくれた! ありがとう、金盛!」


 姫果は部屋中を見渡した。

 ともあれ、みんな無事そうでよかった。

 床には多数の人間が転がっていた。戦闘不能に陥った敵を流転(こける)さんが台車に乗せて、せっせと外へ運搬していたが、最後まで残って戦っていた連中だった。転がっている連中の中には調理用の白衣を着た人がいなかったので、みんな敵だった。敵と言っても、所詮は闇バイトで集められた素人集団だ。多人数と言え、カンフーの使い手たちに勝てるわけはない。

女性の三人組リアルキャッツアイも来ていたらしいけど、会うことはできなかった。まさかレオタード姿じゃなかっただろう。変装は彼女たちが得意とするワザだ。どこかに紛れ込んでいたかもしれない。何も痕跡を残さずに逃げたのは、さすがキャッツアイと言ったところか。いずれにせよ、戦ってみたかったなあ。

その頃、窓の下に青と赤と黄の三本のヒモが落ちているのをおばちゃんたちが見つけていた。

ハナコさんが拾い上げる。

「なんだろうね、これは」「食材じゃないし」「武器にもならないし」

そばに姫果がいたら、キャッツアイが着ているレオタードの腰ヒモだと気づいただろうが、おばちゃんの世代では分からなかった。そもそもレオタードとは無縁のおばちゃんたちだった。ハナコ、サキ、タミヨの三人にレオタードを着てくださいとお願いした瞬間、瞬殺されるだろう。


のんびりしているおばちゃんたちをよそ目に、フラフラになりながらも戦っている敵がまだ数人残っていた。闇バイトで集められたにしては根性がある。

さて、私のカンフーで残党を一掃してやるかな。ニセモノの開祖をやっつけた本物のカンフーだ。何とか自信を取り戻した記念に全員片付けてやろう。

そう思ったとたん、残党は堰を切ったように逃げ出した。

「待て、この野郎!」七斗の声が室内に響く。

「逃げるなー!」甲太も負けずに叫ぶ。

 七斗と甲太が部屋から出て行く集団を追いかけようとしたが、

「待ちなさい。深追いするでない!」礼兵衛会長が止めた。

「だって僕たちがやっつけたい!」「そうだ、最強兄弟がやっつけたい!」

 大人数での乱闘の中、ここまで倒れずに残っていた奴らだから、相当強いのかもしれな

い。もしかしたら、最後まで逃げ回っていた弱い連中かもしれないが、これ以上味方に

ケガ人を出したくない。会長はそう思っているのだろう。

「七斗、甲太。会長がそう言うのだから、諦めなさい」

姫果は自分も戦いたかったため、残念そうな顔をしているが、姉として二人の弟を引き

留めた。

「心配するな、最強兄弟よ!」会長がデカい声でなだめる。「外にも仕掛けが施してある。最後まで決して手を緩めず、徹底的に相手を追い詰める。窮鼠が猫を噛んで来たら、引っ掻いて、噛み返してやればいい。それがいくさというものだ。まあ、見ておきなさい」

 礼兵衛会長はニヤッと笑った。

 

 残党の男たちがほうほうの体で特別室から逃げ出した。

「こんなバイトとは思わなかったぜ」

「ああ、これはないよなあ。ブラックバイトだよ」

「なんで、給食のおばちゃんまでカンフーができるんだよ」

「知らないじいさんにケツを蹴飛ばされて、トラウマになりそうだよ」

「俺なんか、どう見ても小学生のガキに飛び膝蹴りを喰らって、今もアゴがジンジン痛いよ」

 強くて生き残ったわけでなく、逃げ回って生き残った連中のようだった。

 さんざん文句を言いながら走っていると、目の前にデカい牛が現れた。

「――牛?」

「なんで、ここに牛?」

 牛は男たちに向かって来た。

「おいおい、今度は牛が相手かよ!」

「給食のおばちゃんより怖いだろ!」

 男たちは固まって逃げ回る。

 牛は執拗に男たちを追いかけ回し、大きな体で体当たりをして、鋭い角で突き上げる。

「みんな、散らばれ!」「バラバラになるんだ」「牛は一頭だから落ち着いて逃げろ」

 倒された男たちを介抱することもなく、みんなは逃げ惑う。どうせ闇バイトで集められたに過ぎない。お互い名前も知らない連中だ。チームワークなんて、あるわけない。友情なんか最初から存在しない。助ける筋合いはない。自分だけ助かればいい。

 やがて牛のスタミナが切れて、動きが鈍って来た。

「ああ、もう大丈夫だ」一人が安堵の声を上げた。

「やれやれ助かったか」バラバラに逃げていた男たちが集まって来た。

 そこへ多数のニワトリが襲って来た。

「――ニワトリ?」

「なんで、ここにニワトリ?」

 ニワトリの数は半端なかった。

「日本中のニワトリを集めたのかよ!」

 みんなは再び逃げ出した。

 ニワトリの大群は次々とジャンプしながら、男たちの顔を襲って来る。

 そして、足も早い。さらに、ギャーギャーとうるさい。

 体当たりをされ、くちばしで突っつかれ、ニワトリの羽根が舞う中、男たちはバタバタと倒れていく。

「川に逃げろー!」誰かが叫んだ。

 目の前にちょうど大きな川が流れていた。

「ニワトリは泳げないよな」走りながら訊いてくる。

「鴨は泳げるぞ。同じ鳥類だから、その気になれば泳げるんじゃないのか」

「その気にさせるな。このまま飛び込むぞ!」

 男たちはニワトリから逃げるため、次々と川に飛び込んで行く。

 しかし、川の中では魚が待っていた。

「なんだ、こいつら。突っついてくるぞ」

「痛い! 魚の尻尾で叩かれた!」

「どうなってるんだ、この川は!」

「この魚は何なんだよ――あっ、鮭だ。こいつらは鮭の大群だよ」

「産卵のために川を上がって来たというのか!」

「そうじゃないだろ。そう見ても俺たちを攻撃してるぜ」

「ここはこいつらの縄張りか?」

「鮭に縄張りなんかないだろ。取り敢えず、川から出て、逃げよう」

「おいおい、川べりにニワトリの大群が集結して、また俺たちを狙ってるぜ」

「向こう岸から上がろう。岸の向こうは海だ。海に逃げよう」

「ニワトリはこの川を越えられないし、鮭はあの陸を越えられない。今度こそ助かったな」

 男たちは、牛に体当たりをされ、ニワトリに突っつかれ、鮭の尻尾でバシバシ殴られた。

体中から血をダラダラ流しながらも、川を泳ぎ切って、対岸に上がり、ずぶ濡れのまま、

海に向かってヨロヨロと走り出した。


 杭杉小学校の校門前に三人の男が腕組みをして、立っていた。

「どうだ。俺たちの食材を盗んだ罰だ」

斉工給食調理商会の取引先である牛乳屋の白川と養鶏場の黒山田と魚屋の青海である。

先日納入したばかりの牛乳と鶏肉とシャケを盗まれた。盗んだのは三途川の一味だったのだが、三人はそんなことは知らずに、盗まれたカタキを討ったのである。

つまり、白川は牛を動かし、黒山田はニワトリを操り、青海は鮭を従わせることにより、小学校を襲って来た悪党の残党を蹴散らしたのである。

まだあちこちに、牛に蹴られた男や、ニワトリに突っつかれた男や、鮭の尻尾で殴られた男が倒れている。

「これに凝りて、再びやって来るようなことはないだろう」

「闇バイトに応募するのではなくて、真面目に働いてほしいね」

「そう願いたいものですな」


 牛とニワトリと鮭の攻撃から命からがら逃げて来た男たちは海に集まっていた。

 残党の中のさらに残党である。

 さっきの騒がしい戦場と違って、空にはカモメが優雅に二羽飛んでいるだけで、静かな海辺である。天気はよく、波も穏やかで、男たちはやっと一息付いていた。

「ふう、ここまで来ると大丈夫だろう」

「はあ、残ったのはこれだけか」

 数十人が一斉に逃げ出したはずが、今は五人しかいない。

 牛とニワトリと鮭にやられたのである。

「牛とニワトリと鮭にやられたなんて、恥ずかしくて、人に言えないよなあ」

「末代までの恥だよな」

「もう闇バイトは懲り懲りだぜ」

「高給に騙された俺がバカだったわ」

「これからは真っ当に生きるとするか」

 男たちは横一列になって、堤防に腰かけ、足をブラブラさせながら、海を眺めている。

 やがて、上空が騒がしくなって来た。

 見上げると、カモメの数が増えている。

 男たちから少し離れた所に一人の少女が立っていた。

給食費未納三兄妹の一人、坪貝サヤカである。

この場所でいつも給食の食パンをちぎって、カモメに投げている。

 カモメは恩人であるサヤカのことを覚えている。

 サヤカはカモメにお願いをした。

 カモメさん、カモメさん、私の小学校を襲った人たちをやっつけて。

 カモメさん、カモメさん、二度と来ないようにこらしめて。

 カモメはその願いを聞いてあげた。

いつも食パンをくれるお礼だ。カモメの恩返しだ。

 やがて、カモメの数は増え続け、太陽の光をさえぎるくらいの数になった。

「なんでカモメが異常繁殖してるんだよ」

「今日はカモメの遠足か?」

「これだけ数が集まると気味悪いよなあ」

「俺たちがエサを持ってると勘違いしてるんじゃないか」

「いろいろな食材のニオイがみんなの体にこびりついてるからな」

 五人の男はカモメに覆われた空を見上げながら、のそのそと立ち上がった。

 この場を離れようというのだ。

 それっ!

 さやかの腕が振り下ろされた。

 カモメが五人を目がけて、一斉に急降下を始めた。

「おいおい、ウソだろ」「牛とニワトリと鮭に続いて、カモメかよ」「やめろ、カモメ! あっちへ行け!」「俺たちを喰っても不味いぞ!」「こらっ、フンを落とすな!」

 カモメに襲われた男たちは、次々に堤防から海へと転落して行った。

「痛い!」「しつこい!」「許して!」「やめて!」「とめて!」

海にプカプカ浮いている男たちの頭をカモメが容赦なく突っついて回る。

「この海は遠浅だから、溺れることはないよ。せいぜい足を捻挫するくらいだよ」サヤカが笑った。「カモメよ、カモメさん。悪者をやっつけてくれてありがとう。私たちの給食は守られたよ。雨が降りそうだから、ちゃんとどこかで雨宿りをするんだよ。風邪をひいたらダメだよ。また食パンを持って来てあげるからね。バイバイ」

 だけどカモメも風邪をひくのかなあ。

 まあいいか。上手に生きていくだろう。

さあ、帰ろう! 私の大好きな学校に!

 サヤカは堤防から飛び降りると、五時間目の授業に間に合うよう全速力で駆け出した。


“只今から、第十五回世界学校給食コンテストの審査結果を発表いたします”

 司会者がマイクを片手に会場となっている山海アリーナを見渡した。三階席まである大きな施設だが、すべての席は埋まり、外では会場内を映し出している巨大なスクリーンの前に多数の人たちが集まっている。司会者の隣にはコンテストのイメージキャラクターであるラクーンニャンというアライグマだかネコだか分からない着ぐるみが立っている。

審査員である、和の達人、中華の達人、フレンチの達人、イタリアンの達人、多国籍料理の達人の五人はすでに審査を終えたためか、先ほどとは打って変わって、表情も穏やかになっていた。

 招待客が座る席には、手足を包帯でグルグル巻きにした三途川が座っている。礼兵衛との戦いで、満身創痍になっていたのだ。

 しかし、給食コンテストには母校である宇舞小学校からちゃっかり参加していた。多額

の寄付をするという条件で丸め込んだのだ。しかしそれは、斉工給食調理商会から盗み出

したレシピでの参加ではない。

幻のレシピに載っていた鯨の竜田揚げはたいした料理ではなかった。礼兵衛会長は最後

に加える調味料で味が劇的に変わるようなことを言っていたが、信用はできない。そもそもその調味料とは何かを教えてくれない。

仕方なく、食レポ歴七十年の経験を活かし、自分自身で考えたオリジナルのレシピで参加することにした。グルメ王の名に恥じないようなレシピが完成した。いつもは他人が作った料理を食べているので、レシピを考えたのは初めてだった。

 きっとわしが優勝するに違いない――三途川はそう確信している。

最も重要な課題は副賞であるわしの銅像をどこに建てるかである。

 自宅の前だと淋しいし、青山墓地ならもっと淋しい。成田空港の北ウィングなら邪魔だし、高島屋の正面入口だと変だし、東京駅のホームでもおかしい。警視庁の玄関だと断られるだろうし、皇居前だとぶっ飛ばされる。

 後でじっくり考えることにしよう。

 招待客席を見渡すと、礼兵衛会長が側近の銀鮫を伴って座っていた。

 奴も自信ありげだが、優勝はわしのものだろう。

 三途川は司会者の言葉に耳を傾けた。


 三途川がこちらをチラ見したのは分かった。

 自信ありげの様子だったが、優勝はこの礼兵衛だろう。隣に座る銀鮫も余裕の表情を浮かべている。先祖代々伝わる幻のレシピで参戦した。とっておきの鯨肉を使った特選竜田揚げだ。もちろん最後に秘密の調味料も足しておいた。味見をしてみたが、あまりのおいしさにホッペが落ちそうであった。これで負けるはずはなかろう。世界の給食の頂点に立つのはこの斉工礼兵衛である――そう確信していた。

「いよいよだな、銀鮫」

 礼兵衛は招待客に配られたラクーンニャンのキーホルダーをお守りのように握り締めている。

「はい。残る懸念は会長の銅像をどこに建てるかです」

 銀鮫もキーホルダーをもらったが、似合わないので、便所の棚に置いて来た。誰かが見つけて、お土産にしてくれるだろう。

「そうだな。いよいよ念願の銅像が建つのだなあ」

「三途川の悔しがる顔が見えるようです」

「あの御仁、泣かなきゃいいがな」

「そうですな、ハハハ」

“只今から、第十五回世界学校給食コンテストの審査結果を発表いたします”

「もらったぞ」礼兵衛が小さく呟く。

“まずは優勝国の国名からです”

「よしっ。日本だ、来い!」

“国名はサンドンスラキャ”

「はあ? 銀鮫、そんな国があるのか?」

「半年ほど前に独立したアフリカの国です」

“料理名は、ンドマンスーチラーテです“

「はあ? そんな料理があるのか?」

「聞いたことがありません」

「ンで始まる料理なんか知らんぞ」

“サンドンスラキャのみなさん、おめでとうございます! ンドマンスーチラーテが世界一の給食に選ばれました”

「冗談だろ、銀鮫!」礼兵衛は怒って、ラクーンニャンのキーホルダーを床に叩きつけた。

「どうやら現実のようです」銀鮫は落ち着いていた。

 壇上にサンドンスラキャの関係者が集まり、表彰式が始まった。

“続きまして、審査員特別賞の発表です”

「おお、そんな賞があったのか。この際、特別賞でもかまわん」

礼兵衛の目は輝きを取り戻した。あわててキーホルダーを拾い直す。

「副賞が銅像ならいいですね」銀鮫の目も輝く。

“優勝国の国名は日本”

「よしっ、今度こそ来た!」

“宇舞小学校の三途川味エ門さんです”

「なんだと! なぜなんだ!」礼兵衛の声が裏返った。再びキーホルダーを叩きつけた。

「うぅ……」銀鮫はまともに声が出ない。

“料理名は、森のキノコのさわやか炒めと海の恵みのピリ辛仕立てと川の流れのようにゆるやかに味が変化する地中海風お好み焼きです”

「なんだこのラノベみたいに長いタイトルの料理は――銀鮫、地中海にお好み焼きが存在するのか?」

「いえ、聞いたことはありません。そもそもあれは大阪の食べ物でしょうから」

「それがなんで地中海まで出張するのだ!」

三途川味エ門が足取りも軽やかに壇上に上がった。

包帯でグルグル巻きにされた右手を誇らしげに上げる。

「いい年してガッツポーズか」

 礼兵衛と銀鮫の方を見て、ニヤリと笑った。

「くそっ、あいつ、笑いやがった。おい、銀鮫、次回も参加するぞ」

「次回は八十六歳になられますが」

「何かを始めるのに、年齢は関係なかろう」

「はっ! 御意にござります」

“三途川味エ門さん、おめでとうございます。審査員特別賞、別名は檄マズ賞でございます”

「檄マズ賞? なんだそれは!?」三途川が司会者に詰め寄る。ラクーンニャンは避難する。

“その名の通り、審査員が食べて、世界でもっともマズかった給食に差し上げる賞でございます。賞金は一ドルです”

「一ドルだと!」

“副賞もございます”

「おお、銅像かね」

“正露丸、一年分です”

「なんで正露丸なんだ!」

“三途川さんが作った給食を食べても、子供たちがお腹を壊さないように、愛情あふれる配慮をいたしました”

「うるさい!」

 顔を真っ赤にして怒る三途川。

「ぶはははは」招待席から礼兵衛の高笑いが聞こえて来た。

「三途川よ、四年後にまたやり合おうや。それまで長生きするのだぞ。そのときお主は九十二歳。だが、まだ三途の川を渡るでないぞ。川岸まで行ったとしても、ションベンしてくるのを忘れたと言って、すぐに引き返してくるのだぞ」

 礼兵衛と銀鮫は席を後にした。

 床にはひん曲がったラクーンニャンのキーホルダーが残された。

 

特別室と調理室の床に散らばった食材の山は、関係者が食べられる分は食べて、学校で飼育しているウサギや鯉に上げられる分はあげることになった。やむなく廃棄処分をする分は焼却炉で燃やし、灰にした上、学校に隣接する神社へ持って行き、食べ物供養をした。 

ここでは毎年食べ物供養が行われているからだ。

そして今回給食を守るためとは言え、たくさんの食材を無駄にしてしまったことについて、学校関係者全員でお詫びをした。

食べ物を粗末にしないように心掛けて参ります。

これからも学校給食が無事に続いて行きますように。

今度こそ、世界学校給食コンテストで優勝できますように。

これからも楽しい検食ができますように。

斉工礼兵衛会長も盛森守男校長も神妙な顔をして、しっかり頭を下げていた。

愛崎姫果は給食調理員がすっかり板についてきた。

そして、二人の弟と一緒に、じいちゃんの元でカンフーの修行にがんばっている。その後、じいちゃんとはすっかり仲良くなっていた。じいちゃんの店で評判の餃子も一回だけご馳走してくれた。二回目からはちゃんと自腹で食べていて、ときどき二人の弟に奢っている。

もう北京に戻るつもりはない。ジャッキー・チェンとはいつかどこかで会えるだろう。

 それは運に任せよう。会えると信じて運に任せよう。

 

杭杉小学校に再び平和が戻った。

そして今日も楽しい給食の時間が始まった。

「松岡さーん、いらっしゃいますかー」

 教室の前のドアから配達員が覗き込んだ。

「はい、いまーす」

 教室の真ん中あたりに座っている松岡が手をあげた。

 配達員は黒いバッグを抱えて、松岡の元へ急ぎ、机の上に大きめのお弁当を置いた。

「本日のメニューはキャビア、トリュフ、フォアグラの世界三大珍味の食べ比べセットでございます」

 自慢げに紹介をしてくるが、松岡は小さくうなずいただけだった。

「僕の家は知ってますよね」配達員に訊く。

「はい、よく配達に行ってますから」

「このお弁当も届けてくれますか」

「えっ? 今ここでお召し上がりにならないのですか?」

「はい、今日は遠慮しておきます」

 配達員は小首をかしげながら、お弁当を持って帰った。

 入れ違いに別の配達員がやって来た。

「山ノ藤様、お待たせいたしました」

教室の後ろの方に座っていた山ノ藤が返事をした。

「はい、ありがとうございます」

 配達員が大きなバッグを背負って、教室内に入って来た。

「本日はマグロの大トロと中トロの盛り合わせです。新鮮なお刺身は給食に出ないでしょうから、お楽しみいただけると思います」

「あのう、せっかく持って来てもらって悪いんですけど、これは自宅へ届けてください」

「は? あっ、そうですか。では今からご自宅へ向かいます」

 この配達員も不思議そうな顔をして帰って行った。

 松岡と山ノ藤に出前が届くと、クラス中の生徒が二人の席の周りに集まって来る。しかし今日は誰も席を立とうとしない。

一揆明けの給食は園芸部が育てた新鮮野菜だった。それはそれでおいしかったのだが、今日は久しぶりに給食でお肉が食べられる。世界三大珍味より、新鮮なトロより、給食の方を食べたいのである。みんなにとっては、二人が頼んだ出前なんか、どうでもよかった。そして、その二人も今日の給食を見たとたん、出前を断ってしまった。

本日のメニューは礼兵衛会長の一押し、幻のレシピで作られた鯨の竜田揚げだったから

だ。

惜しくも世界学校給食コンテストでは受賞を逃がしたが、ほとんどの生徒は鯨肉を食べたことがなく、今からワクワクしているのである。それは松岡も山ノ藤も同じであった。豪華な出前を断ってでも、食べたかったのである。

 鯨の竜田揚げには隠し味として何かの調味料が入っているらしい。事前に献立表でメニューを知った何人かの生徒が調理室まで訊きに行ったが教えてくれなかったという。新人の調理員である愛崎姫果さんを見つけて訊いてみたが、眉間にシワを寄せて、追い返されたらしい。

 だったら鯨の竜田揚げを食べて、自分たちの舌で確かめればいいだけのことだ。

 生徒たちの机にはすでに鯨の竜田揚げが並べてある。おいしそうな香りが漂って来る。

だけど、見た目と香りだけで、何の調味料が使われているかは分からない。

早く食べたいよう。

クラスの全員がそう思っている。

みんなの前に立っている給食当番が大きな声を出した。

「それではみなさん、ありがとう、いただきます!」

「ありがとう、いただきます!」

 みんながいっせいに鯨肉へかぶりついた。


用務員の(わら)()流転(こける)さんは用務員室にいた。

愛用の竹ぼうきで校庭の掃除を終えて戻って来た。戦いでボロボロになった竹ぼうきであったが、近いうちに新しく買ってもらえることになった。しかし、どんなモノでも大切にする流転さんは愛着のある竹ぼうきをそのまま捨てるのがもったいなくて、活用方法を考えていた。

一時間ほど考えた結果、竹ぼうきをバラバラにして、短く切って、細く削って、つまようじにすることを思い付いた。

今から、お手製つまようじを使うのが楽しみだ。

そうだ。“俺のつまようじ”という名前を付けて、PTAに売り付けてやろう。

「ああ、お腹が空いたなあ。そろそろお昼にするかな。今日のおかずは何かな? おお、これはおいしそうだ。やっぱり昼メシは愛妻弁当が一番だな――ありがとう、いただきます!」


アチョーーーーーーーーーー!


          (劇終)

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