第六話 妹の悩み
異世界に転移した自分の「妹」が主人公だなんて――。レインはただそう感慨するしかなかった。それ以上の何かを考える余裕すらない状況だった。
メルの優しい眼差しがリリアに注がれ、二人の間に目に見えない魔力の波動が流れる。
リリアの表情が変化していく――最初は驚きに目を見開き、瞳が喜びに輝いて、自然と微笑みがこぼれる。
だがその喜びは、溶ける雪のようにすぐさま消え去り、隠しきれない寂しさがその代わりに浮かぶ。
「ソフィア、今日の検査はここまでにしよう」メルが静かに告げる。
ソフィア司教は即座に意を汲み取り、跪いた姿勢から立ち上がると、長衣の皺を正した。
「かしこまりました。本日の魔力適性検査はこれにて終了とさせていただきます。皆様は各学院の基準に従い、選考させていただきます」
「よく聞け」
メルの視線が、その場の全員を見渡す、小さな声ながら、絶対的な威厳を帯びたその言葉が響く。
「今日この場で起きたことは、一切外に漏らしてはならん」
誰もその命令に逆らえなかった。ヴィクトル教授たちは一斉に頷き、貴族たちも寒気に震えるように黙り込んでいた。
メルは最後にリリアへと視線を向けたが、何も語らない。そして彼の姿は、朝霧が晴れるように、徐々に透明になっていき、やがて消えていった。
メルの姿が消えると共に、あの息苦しいまでの重圧も消え去った。その時になってようやく、皆は自分の衣服が冷や汗で濡れていることに気付く。
大聖堂の空気は未だ重いままだったが、それでも小さな話し声が、少しずつ漏れ始めていた。
「大丈夫?」
レインはリリアの傍へと歩み寄り、その手を優しく握った。妹の手が冷たく震えているのが分かる。
一瞬の戸惑いの後、リリアは突然レインの首に腕を回し、その胸に顔を埋めた。
言葉にしたい想いが溢れているのに、どう表現していいのか分からないようだった。
状況は飲み込めていなかったが、レインは本能的にリリアを抱き返した。妹の頭を優しく撫でながら、柔らかな声で囁く。
「何があってもおリリアは私の誇りだ」
リリアは黙ったまま、さらに強く兄を抱きしめた。
ソフィア司教は速やかに普段の威厳ある姿に戻り、淀みなく後続の手続きを進め始めた。
各学院からの代表者たちも、徐々に我に返り、名簿を整理し、入学の詳細について話し合い始めた。
大聖堂の中は、少しずつ日常の秩序を取り戻しつつあった。しかしこの一日は、歴史に消えない一線を刻むことになる。
レインの腕の中で、リリアは何かを深く考え込んでいる。誰にも知ることはできない。
「リリア、今日はあの伝説の大魔法師メル様に会ったそうだね?」
チャールズ父が食器を置き、その目には隠しきれない誇りが煌めいていた。
「本当に信じられないことだ」
教会は魔力適性検査の出来事を厳重に封鎖していたが、領主チャールズ·シルフィード にとって、そんな情報を入手するのは容易なことだった。
「そうよ、私たちの可愛いリリアが、百年に一人の天才だなんて」
カロリン母の顔には、幸せに満ちた笑みが溢れていた。
レインは妹を見つめていた。リリアは俯いたまま、フォークで皿の上の食べ物を、ただ漫然と突っついている。
「リリア?」
母が娘の様子の違和感に気付き、心配そうに声をかけた。
「どうしたの?嬉しくないの?」
「大丈夫、ちょっと疲れただけ」
リリアは顔を上げ、無理に笑みを作った。
レインには、妹の目が赤く潤んでいるのが見てとれた。何かを必死に押し殺しているのは明らかだった。
大聖堂でのあの時、メル大魔導士との言葉なき対話の後から、妹の表情が曇っていたことを、レインは覚えていた。
「リリア...」
レインが声をかけようとした矢先。
「お腹いっぱい」
突然リリアが立ち上がる。椅子が床を擦る不快な音を立てた。
「部屋に戻ります」
「でもでも殆ど口をつけてないわよ」
母は手つかずの皿を見つめた。
「本当にお腹すいてないの」
リリアは足早に階段へと向かい、その背中には何とも言えない寂しさが漂っていた。
カロリンは困惑の表情を浮かべ、娘の意外な反応に戸惑いを隠せなかった。
一方、チャールズは何かを悟ったかのように、静かに溜息をついた。
レインは階段の角を曲がって消えていく妹の後ろ姿を見つめていた。胸の奥に、何とも言えない不安が広がっていく。
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