第五話 メル・レイヴン
リリアの行く末を巡る議論が白熱する中、轟く雷のような声が聖堂に響き渡った。
「もう、よい」
たった二言。しかしその言葉には、天地をも従えるような威厳が宿っていた。
突如として、目に見えない重圧が聖堂全体を覆い尽くした。
誰もが息苦しさを覚え、まるで見えない巨山が胸に乗せられたかのような感覚に襲われる。
水晶の祭壇さえも、その圧倒的な存在感の前では光を失っていった。
空気が波紋を描くように揺らめき、白髪の老人が祭壇の前に突如として姿を現した。
その身には、飾り気のない古めかしい灰色の長衣。
豪奢な装飾も、権威を示す紋章も見当たらない。
だが、その瞳。深淵のように底知れぬその眼差しは、万物の真理を見通すかのようだった。
ヴィクター教授の顔から血の気が失せていた。身体は意志と関係なく震え続け、まるで恐怖に凍りついたかのよう。
口を開こうとするも、声にならない。先ほどまでの威厳ある学者の姿は消え、今や怯えた子供のように立ち尽くすばかり。
グレースの瞳に信じがたい光が走る。無意識のうちに後ずさりした彼女は、背後の燭台を倒してしまう。
しかし、床に転がる燭台、彼女の目には映っていないようだった。その意識は完全に目の前の存在に釘付けになっていた。
いつも威厳に満ちたクロード騎士の顔が、今は蒼白に染まっていた。
額には冷や汗が浮かび、岩のように頑丈な体格さえもが、かすかに震えている。
日頃から気品と威厳に満ちた大司教が、片膝をつき、深々と頭を垂れる。
「師よ、どうしてここへ...」
その声には、深い敬意と、かすかな動揺が混ざっていた。
その場に居合わせた者たちは、もはや驚きをどう表現すればいいのかも分からないほどだった。
司教に「師」と呼ばれる存在――それは少なくとも大司教以上の位にある者。
老人が一歩、また一歩と歩みを進める。その一歩一歩が、まるで皆の鼓動と共鳴するかのように響いていた。
枯れた指先が一振りされ、騒がしかった聖堂は一瞬にして死のような静寂に包まれた。
貴族たちでさえ、凍てついた蝉のように口を閉ざし、息をする音さえ恐れているかのようだった。
レインは、リリアの姿が震えるのを感じた。妹を守りたい――その想いは強く、しかし足は地面に根を生やしたかのように動かない。
老人の視線がリリアへと向けられる。底知れぬ瞳に、捉えどころのない光が宿った。
「今日の儀式は、ここまでだ」
予想に反して穏やかな声音。しかしその言葉には、絶対的な威厳が込められていた。
誰一人として異を唱える者はない。顔を上げて老人を直視する勇気すら持てない。
先ほどまで熱く言い争っていた高位聖職者たちも、今は恭しく頭を垂れ、脇に控えていた。
聖堂内の空気が重く澱み、息苦しいほどの緊張が漂う。
全員が老人の次の言葉を待ちわびながら、同時にその言葉を恐れていた。
矛盾した感情が、この場を支配している。
老人がリリアの前に立つ。その存在感の前では、彼女の小さな姿がより一層弱く見えた。
しかし、驚くべきことに、リリアの澄んだ瞳は真っ直ぐに老人の目を見つめていた。
裾を密かに捩じる指先と、胸の中で暴れる鼓動が、彼女の緊張を物語っているというのに。
「お前の名は?」老人の声から、先ほどまでの威圧感が消え、優しい温もりが滲んでいた。
「リリア・シルフィードです」細いながらも、清らかな水のように透明な声が返った。
老人の皺だらけの顔に、稀少な笑みが浮かぶ。
「自己紹介させてもらおう。私の名は、メル・レイヴン」
「あの方が...あの方が...」ヴィクトル教授の震える唇が何度か開いては閉じる。
それとは対照的に、クロード騎士は驚くほど冷静な様子で、まるでこの状況に慣れてきた。
「五百年前...勇者と共に歩んだ、大魔導士その人」
その場でソフィア司教だけは、厳かに跪いた姿勢を保ち続けていた。表情には何も浮かばず、ただその瞳の中に畏敬の光だけが揺らめいていた。
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