第十八話 送別
レインは手の中の指輪を見つめながら、この世界の通貨体系を頭の中で整理していた。
アンデルソンでは、金貨4、5枚あれば街の住宅街に小さな家を買うことができる。
マルスの金属通貨制度では、金貨1枚は銀貨100枚に、銀貨1枚は銅貨50枚に換算され、銅貨1枚はおよそ10リラの価値がある。
金貨と銀貨は各国が独自に発行する金属通貨だが、リラは異なる。
リラはマルス、オースティン、フレッド三国が共同で発行する紙幣で、市場で最も広く流通している通貨だった。
それでも、金属通貨とリラは比較的独立した二つの制度であり、両者の為替レートは政情によって変動する。
例えば、最近のオースティン王国の内戦は、明らかな影響を及ぼしていた。
カロリンはレインの手のひらに優しく指輪を押し込むと、付け加えた。
「それと、ママは金貨5枚と銀貨500枚も用意したわ」
彼女は息子の頬を優しく撫で、目には深い愛情が満ちていた。
「旅先でお金がないのは大変よ。ちゃんと食べて、ちゃんと休んでね」
レインの鼓動が一瞬止まった。これほどの大金に触れるのは人生で初めてだった。かつて感じたことのない緊張が胸に広がる。
(こんなにたくさんのお金を持ち歩くのは、確かに不安だな...)
彼は掌の中の価値の計り知れない指輪を見つめ、母の温かい手のぬくもりを感じながら、様々な思いが胸を巡った。
「コホン...」
チャールズの咳払いが、温かな空気を切った。
レインとカロリンが同時に振り返ると、チャールズは手紙とティーカップを置き、ゆっくりとレインの方へ歩み寄っていた。
彼は背後から銀色の長剑を取り出した。刀身は透き通るように美しく、朝の光を柔らかく反射していた。
(地下室の中央にあった剣じゃないか...父上がこれをくれるの?)
レインは驚きの目で美しい剣を見つめた。
息子の驚いた表情に気づき、チャールズは軽く笑った。
「これは模造品にすぎないよ」
「そうですか...」
レインの表情が一瞬で曇り、水を掛けられたように肩を落とした。
チャールズは剣をレインに手渡すと、力強く彼の肩を叩いた。
「いつかお前はあの剣を手にする。だが、今はまだその時ではない。自分がその剣に相応しいと証明しなければならない」
「そうだ、あの剣の名前をまだ教えていなかったな。あの剣の名は『天使の涙』という」
「そしてこの剣は、歴代の模造品の中でも最高級のものだ」
「天使の涙...」
レインは静かに頷いた。少し落胆したものの、父の意図は理解できた。
...
「さあ、朝食の用意ができているわ」
カロリンが二人を呼んだ。
「次にこうして家族揃って朝食を取れる日がいつになるか分からない。だから、この朝食を大切にしましょう」
チャールズは黙って頷き、レインも「うん...」と小さく返事をした。
朝の光が差し込む食堂で、家族三人が長テーブルを囲んでいた。
テーブルには丁寧に作られたパンや目玉焼き、ベーコン、香り高い紅茶が並び、メイドたちが静かに控えていた。
カロリンは心を込めてレインのパンを切り分け、チャールズも珍しく公務から目を離し、朝食に集中していた。
時折、妻と息子を見やる彼の目は柔らかな光を湛えていた。
レインは一口ずつ食事を味わい、この瞬間の味を心に刻もうとしていた。
特製ジャムを塗った温かいパン、半熟の黄身がとろける目玉焼き、外はカリッと中はジューシーに焼き上げられたベーコン...
会話は多くなかったが、温かな空気が漂っていた。
カロリンは時折レインの皿に食べ物を取り分けては、旅先でもちゃんと食事をするように言い聞かせ、チャールズも時々旅の注意点を話していた。
陽光が次第に強くなり、ステンドグラスを通して食卓を照らしていた。
いつも大人びた態度を取っているレインでさえ、この時ばかりは感傷的になっていた。
この温かな家族の朝食が、これから長い間、大切な思い出になることを、彼は知っていた。
朝の微風が吹く中、シルフィード邸の前には質素な馬車が停まっていた。褐色の馬が時折尾を振り、御者は最後の点検に余念がなかった。
この簡素な旅立ちの様子は、シルフィード家の地位とは対照的だったが、それこそがこの家族らしい在り方でもあった。
レインは玄関の階段に立ち、背後には荘厳な邸宅、目の前には出発を待つ馬車があった。
母から贈られた貯蔵指輪のおかげで、身軽な旅立ちが可能となった。
指輪は彼の指で微かな赤い光を放ち、まるで母の言付けを思い出させるかのようだった。
カロリンは息子の後ろ姿を見つめ、涙を堪えながら微笑んでいた。「ちゃんと自分の事を大切にするのよ。
リリヤに会ったら、お兄ちゃんとしての責任も忘れずにね」
チャールズは妻の傍らに立ち、厳格ながらも優しい表情で言った。「気を付けて行くんだ。何事も慎重に考えて、軽はずみな行動は慎むように」
後ろに控えていたサラたち侍女たちも、目を潤ませながら「お気を付けて、若様」と声をかけた。
レインは家族の方に向き直り、深々と一礼した。
「父上、母上、そして皆様.....」
顔を上げた時、母の名残惜しそうな眼差し、父の期待に満ちた表情、そしてサラたちの心配そうな眼差しが目に入った。
この瞬間、彼は気付いた。自分が去り行くのは、この邸宅だけではなく、十数年もの間、自分を守り育ててくれた安らぎの港なのだと。
御者が時機を見計らったように告げた。
「若様、そろそろ出発の時間でございます」
レインは頷き、馬車に乗り込んだ。馬車がゆっくりと動き出し、砂利道が軽い音を立てた。
彼は窓越しに、徐々に遠ざかっていく邸宅と、まだ手を振り続ける家族の姿を、見えなくなるまで見つめ続けた。