第十一話 レインの決意
部屋の窓辺に立ち、レインは見慣れた景色を眺めていた。アンデルソンの街並み一つ一つに、幼い日々の思い出が刻まれている。
庭園のあの古い樫の木は、幼い頃の彼が一番登るのを好んだ場所。遠くの時計塔は毎日時刻通りに鐘を鳴らし、彼の成長を見守ってきた。
「皮肉だな...」
レインは小さく呟いた。
「こんなに長く暮らしてきたのに、この街から一度も本当に出たことがなかった」
幼い頃から、まるで温室で大切に育てられた花のように。
たまに遠出することがあっても、両親や妹が必ず一緒で、本当の意味での自立を知らないまま育ってきた。
今、ついに一人で旅立つと決めた時、複雑な感情が胸の中で渦巻いていた。
これから始まる冒険への高揚感と、未知の道への不安が入り混じる。
あの謎の声に告げられた通り、外の世界は想像以上に容赦ないものなのだろう。
物思いに沈んでいた時、突然、ノックの音が響いた。
コンコンコン——
静まり返った部屋に、澄んだ音が鮮明に響き渡る。
「誰?」
レインは我に返り、扉の方へ振り向いた。
「私だ」
扉の向こうから聞き慣れた声が——落ち着いた、物腰の柔らかな声が。
「父上?」
レインは眉を寄せる。意外だった。
午前中のこの時間、父は当然行政院で政務を執っているはずだ。アンデルソンの領主である父は常に多忙で、こんな時間に屋敷に戻ることは滅多になかった。
「少し話がしたいのだが」
扉越しに父の声が続く。これまで聞いたことのない、真剣な響きを帯びていた。
レインは無意識に、机の上に広げられた地図と用意した荷物に目を向けた。鼓動が徐々に早くなっていく。
「はい」
できるだけ平静を装って返事をする。
「書斎で待っている」
遠ざかっていく父の足音。レインはその場に立ち尽くしたまま、突然の緊張に包まれていた。
重たい樫の扉を押し開けると、書斎特有のインクと革の香りが漂ってきた。
ステンドグラスを通した陽の光が、深紅のカーペットの上に色とりどりの影を落としている。
天井まで届く木製の本棚には、金箔が施された革装丁の古書が所狭しと並んでいた。
壁には代々のアンダーソン家の肖像画が掛けられ、その一つ一つの眼差しが、この若者を見つめているかのようだった。
チャールズは象徴的な紅木の机に腰掛けていた。
机の上には書類と羽根ペンが整然と並び、家の紋章が刻まれた卓上燈が父の表情を柔らかな光で照らし、厳しい面差しに一筋の温かみを添えていた。
「何かございましたか、父上?」
レインは書斎の中央に立ち、貴族としての佇まいを保とうと努めた。それでも、声には緊張が滲んでいた。
チャールズが顔を上げ、レインの目をまっすぐ見つめた。
「リリアから聞いた」
たった一言だが、その声音には確かな安堵と誇りが滲んでいた。
レインは喉を鳴らし、勇気を振り絞って尋ねる。
「父上は、私を止めるのですか?」
「もちろん止めはしない」
「その決意は、父として本当に誇らしい。ただ、死んでほしくないだけなんだ」
チャールズの穏やかな表情が消え、一瞬にして真剣な面持ちへと変わった。
「お前はずっと、私が作った温室の中で育ってきた。外の世界がどれだけ危険なのか、本当のことを何も知らない。」
「しかも魔力を持たない一般人で、特別な訓練も受けていない。そんな状態で外に出るのは、死に急ぐようなものだぞ」
チャールズは言葉を続けた。
レインは黙って俯いた。
チャールズの言葉に、体の奥底で目覚めたばかりの力が静かに呼応するのを感じる。まるでその力自体が「違う、僕は違うんだ」と主張しているかのように。
でも、この秘密は誰にも、たとえ父であっても話すわけにはいかなかった。
まだその時じゃない。
「やはり父上は、私を止めるおつもりなのですね」
レインの声には挫折感が滲んでいた。あの不思議な力を手に入れたとはいえ、父の疑念の前では——。それに、未知の世界への漠然とした不安も重なった。
「死に行くようなものだと言っているのに、それでも行くというのか?」
チャールズの声が書斎に響き渡る。まるで試されているかのような重みを持って。
レインは顔を上げた。瞳の中の迷いが、確かな決意に変わっていく。拳を強く握りしめ、爪が手のひらに食い込んでいるのも気にならない。
「妹との約束です。兄として、この約束は絶対に破れません」
小さな声だったが、一言一言が意志に満ちていた。
パンパンパン——
静まり返った書斎に、鮮やかな拍手が響き渡った。緊張感が一気に溶けていく。
父の表情が、誇らしげな笑みへと変わる。
「よくぞ言ってくれた。さすがは私の息子だ。まさか、お前たち兄妹がここまで深い絆で結ばれていたとはな」
父は満足げに頷いた。
「もちろん、止めたりはしない」
チャールズは重厚な赤木の椅子から立ち上がり、書棚の前までゆっくりと歩み寄った。
「だが、息子を無謀な死地に向かわせるつもりはない。出発の前に、万全の準備が必要だ」
チャールズは振り返り、レインを見つめた。
「ついて来い」
父の手が、古びた書物の背に軽く触れた。すると、カチリという小さな歯車の音と共に、大きな書棚がゆっくりと内側へと動き始める。
その奥には、誰も知らない隠し扉が姿を現した。階段は闇の中へと続き、その先は深い暗がりに溶けていく。
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