プロローグ 罪を得て、婚約者と家族を失った日
「ローラン・フッガー。話がある。ここを開けよ」
冷たい婚約者の声が自室の扉の向こう側から聞こえてきたとローランはちょっと他人様には見せられない緩んだ顔つきで銀貨を数えている真っ最中だった。
遠い東の国から母と共にヘプトアーキー帝国に流れ着いて、はや10年。
義父であるフッガー男爵に見初められた母のおまけで男爵令嬢などと呼ばれるようになって久しいが、未だに貴族のご令嬢という身分に戸惑っている。
そのせいだろうか。社交の贅沢自慢や義妹の散財につきあうのに疲れたときはこうして部屋で1人銀貨を数えるのが癖になっていた。
この部屋にある銀貨は男爵家の財産とは関係無い、ローランがこっそりと自分で稼いだものだ。
ローランにとって財とは浪費するべきものではなく、稼ぐ物。
そんな黒髪の男爵令嬢の趣味は、今のところ彼女だけの秘密だった。
ため息1つ、ローランは銀貨の詰まった革袋を戸棚にしまい込むと嫋やかな笑みを意識しながら扉を開く。
そこに待ち構えていたのは、婚約者のアウグスト・ハーデン伯爵ではなく、鈍く輝く槍の穂先だった。
「え?」
完全武装の兵士達が槍を構えて、ローランの部屋を取り囲んでいる。
その向こうから、他ならぬ婚約者のアウグスト・ハーデン伯爵がじっとローランに冷たいまなざしを注いでいる。
どう贔屓目に考えても、婚約者に向ける視線では無い。
「アウグスト様?」
何がどうなっているのか、さっぱりワケが分からない。
答えを求めるように婚約者の顔を見つめるが、返ってきたのはローランの求める答えでは無く、鋭く叩きつけるような罵声だった。
「ローラン・フッガー。お前との婚約は破棄とする。ローランを捕らえよ!」
伯爵の命に従い、兵士たちが槍をぐいっと前に突き出す。押し込まれるようにローランが部屋の中に逃げ込むと、たちまち兵士達も室内に雪崩れ込んできた。
倒れ込んだローランの喉元に、数条の槍の穂先が突きつけられる。首筋に触れた刃の下から、つっと血の筋が薄く流れた。
「これはどういうことですか、アウグスト様?」
貴族特有の悪い冗談に違いない。
そんな淡い期待を込めて、かすれた声で婚約者に問いかける。
だが、それが冗談でも何でも無いことは、無言の婚約者よりもローランの喉元に槍を突きつけている兵士の怯えた目つきが雄弁に物語っていた。
恐怖、怒り、なけなしの勇気。
それらが混ざり合った視線はローランが幼いころに幾度も見たことのある、戦場にある兵士のそれだ。
つまり、伯爵も兵士達も本気だということだ。
ローランを揶揄っているわけでも性質の悪い冗談でもない。
それを理解したとたん、スッとローランは頭の芯が冷えるのを感じた。
脳裏に砂塵と戦塵に塗れて逃げ惑った幼い日の思い出が蘇る。あの時に比べれば、この程度のことなど窮地のうちには入らない。
あえて、自分にそう言い聞かせながら、ローランは挑むようにアウグストに視線を向けた。
「婚約破棄というには、少し乱暴ではありませんか? 理由をお聞かせ下さいませ」
ローランのことが気に入らないのであれば、ただ一言そう宣言すれば良いだけだ。
男爵家が一方的に伯爵家に婚約破棄を告げることは許されないが、その逆ならば話は別だ。
「理由か。それはお前が一番理解しているはずなのだがな」
「まあ、確かに伯爵家に私が相応しいかと問われれば、自信はありませんが。いずれにせよ、こうして咎人のように扱われる理由にはなりませんよね?」
自信が無いどころの騒ぎでは無い。何しろ、元は異国の平民の娘が何かの弾みで貴族の養女になっただけの話だ。氏より育ちという言葉もあるが、三つ子の魂という言葉の方がローランには相応しい。
が、それをもって罪だと言うほどこの国の貴族社会は狭量ではない。であれば、こうして喉元に槍を突きつけられる理由になっていない。
そんなローランの疑問に答えず、アウグストはちらりと廊下に目をやった。
それを待っていたかのように姿を現したのはローランの母の死後に後妻に収まった女の連れ子の少女だった。
「この期に及んで往生際が悪いですわよ、お義姉さま」
豊かな金色の髪に抜けるような白い肌に豊かな肢体。
そして、紅玉のような赤い瞳。
ローランとは似ても似つかない容姿は、血の繋がっていない義妹がヘプトアーキー帝国の生粋の貴族に連なっている証だ。
「シルヴィア?」
ローランにはない豊かな胸を見せつけながら、床に押さえつけられているローランをシルヴィアが勝ち誇ったように見下ろしている。
「お義姉さまがお母様や私、そしてアウグスト様を呪殺しようとしたことはわかっておりますの。異国の呪術ならば、証拠は残りませんものね。けどね、お義姉さま。陰謀というものは、なかなか成就しませんのよ?」
「呪殺!? 私が? 婚約者と家族を? 冗談でしょ?」
驚くよりも先に呆れながら、ローランは義妹はもう一度シルヴィアの顔を見つめた。その瞳の奥にあるのは紛れもない嗜虐に満ちた喜びの色。
この義妹は血の繋がりは無いとは言え、家族であるローランをいたぶることに喜びを見いだしている。
「そんなことをして、何か私に得することがあるのかしら?」
槍の柄で身体を押さえつけられたまま、ローランは義妹にというよりもその場にいる全員に言い聞かせるように理を説いた。
「アウグスト様を殺し、貴女やお義母様を殺し、それで私に何が残るというの?」
そんなことをしてもローランには何の利益も無い。ただ、婚約者と家族を失うだけの話だ。
フッガー家の誰とも血は繋がっていないとは言え、家族は家族。
それをどうこうしようという発想はローランのどこを探しても出てこない。
「あら。フッガー男爵家が手に入るではありませんか。蛮族の平民には過ぎた身分ですもの。動機は十分でしょう?」
「そんな! 証拠は――っ」
証拠は残らないが、動機はある。
ローランの母親が異国の呪術師であり、その娘であるローランもまた異国の呪術を使えても不思議はない。
であれば、有罪をでっちあげるのは難しいことではない。
「そうそう。ハーデン伯爵家にはわたくしが嫁ぎますから、フッガー家のことは心配なさらずとも大丈夫ですわよ、お義姉さま。男爵家は弟が継承し、わたくしが伯爵家からフッガー家を支えます。貴族の血を一滴たりともお持ちで無い貴女の居場所はフッガー男爵家にもハーデン伯爵家にもありはしませんわ。まして、婚約を破棄された腹いせにアウグスト様とわたくし達を呪殺しようだなんて。奴隷に落とされても文句は言えませんわね」
得意げに陰謀の筋書きを語るシルヴィアの言葉に笑いがこみ上げてくる。
どうやら、婚約破棄されたローランが婚約者と家族を腹いせに呪い殺そうとし、その責任を義妹のシルヴィアが果たすという筋書きらしかった。
随分と荒っぽいシナリオだが、観客と主演が同じなのだからまともな批評が行われるはずもない。
格下の男爵家に嫁いでみれば、先妻の連れ子がこともあろうに伯爵家に縁づこうとしている。先妻が異国のいかがわしい生まれであるにも関わらず、だ。
義母も義妹もさぞや自尊心が傷ついたことだろう。
ローランの婚約者の地位を奪うだけではとても傷ついた自尊心を癒やせなかったのだろう。
アウグスト伯爵にしてみても、異国の平民よりはれっきとした貴族に連なる義妹の方が何かと都合が良いのは間違いない。
ついでに言うなら、東方ならではのほっそりとした体つきのローランよりも肉感的な義妹の方が魅力があることも、まあ否定はしない。
「そうまで、私のことが邪魔だというなら……是非もありませんね」
ローランは言いながら、そっと槍を突きつけている兵士に気がつかれないようにそっと呪印を指で結んだ。
最初から冤罪に陥れるための茶番劇だ。最初から話になどなりはしない。
ならば、証拠の残らない東方の呪術とやらを味あわせてやるのも一興だろう。
(……まさか身内に使う日が来るなんてね)
込められた呪力を解放すれば、おぞましい幻覚が室内に解き放たれる。
まるで地獄の蓋が開いたかのような幻がローラン以外の全ての者に襲いかかるはずだ。その隙に逃げ出すのは難しくはないだろう。
貴族の身分に未練は無いが、自力で稼いだ銀貨の袋は少し惜しい。
逃げる時に何とか持ち出せないかな、などと考えていると不意に澄んだ金属の音がローランの耳朶を打った。
(え?)
思わず引き寄せられた視界の先に映ったのは、母がどれだけ困窮しても手放そうとはしなかった祖国の銀貨だった。
「なっ!」
なぜそれを貴方が! と言い終えるよりも先に背後から押し倒された。そのまま、腕をねじ上げられ呪文を唱えることができないように口に布きれを詰め込まれる。
「ほう。元婚約者殿はたかが銀貨一枚が気になるか」
嘲るように一枚の銀貨を手の中で弄びながら、アウグストはローランを見下ろした。
(なぜ、貴方がそれを持っている! それは母様と一緒に埋葬されたはずなのに!)
もがき暴れ狂うローランを兵士が数人がかりで押さえ込む。
身動き1つ取れなくなったローランの視界の片隅に、ボンヤリとした表情で義父が立ちすくんでいるのがちらりと見えた。
「東方の呪術というのはなかなか興味深い」
そう嘯くアウグスト伯爵の手の中には、これもまたローランの母と共に埋葬されたはずの東方の呪術の秘術書が収まっていた。
(まさか、母様のお墓を暴いたというの!?)
そうとしか考えられなかった。それ以外に、あの銀貨と秘術書をアウグスト伯爵が持っている理由が思いつかない。
伯爵に東方の秘術書のことを教えたのは間違いなく、義妹か義母だろう。その見返りが伯爵との婚約というわけだ。
「銀貨は元婚約者殿に差し上げよう。呪術書の代金だ。遠慮無く受け取るがいい。連れて行け!」
アウグストは兵士にそう告げると、ローランが暴れられないように眠りの魔法を唱え始めた。
どんどんぼやけていく意識の向こうで元婚約者の声に義妹と義母の笑う声が重なっていく。
呪文を唱え続けるアウグストの背後におびただしい数の死者が見えたのは朦朧とした意識の生んだ幻だろうか。
『この国はまるで蠱毒の壺のよう。身内であっても、それは壺の中の蟲と蟲』
意識が閉ざされる寸前、ふとローランは今は亡き母の言葉を思い出していた。
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