AIのない世界で
「唯歩ちゃん、君がこの子のお母さんになるんだ。ほら、話しかけてみて」
おじいさんは、孫をパソコンの前の椅子に座らせると、自分はコーヒーを嗜む。
「…こんにちわ」
「こんにちは」
黒髪の少女は、パッツりと切りそろえられた前髪の下から真っ黒な瞳を覗かせ、PCの中の同じく真っ黒な目をした少女に釘付けになる。
「トーキョータワーってしってる?」
「2074年に取り壊されました」
「ちがうよ。あたらしいやつ!」
「東京スカイツリーは2012年に開業しました」
「ちがうってば!こないだできたばっかのトーキョータワーのこと!」
無邪気な孫の姿に、おじいさんは微笑む。
唯歩にはまだ、お母さん役は早かったかな、と。
「唯歩ちゃんは、お母さんでしょ。優しく教えないと」
「んー、わかった!やさしくおしえるから、ちゃんときくんだよ。トーキョータワーは――」
+++
つくば市の研究所からバスに揺られること1時間。
気づけば、僕はこっくりこっくりと眠っていた。
それもそのはず、今は修士論文の最終追い上げ期間で、昨晩もその前の晩も、ほとんど徹夜で論文を直していたのだから。
今日は、あと一押し足りない論文を完成させるため、教授の紹介でAI研究の第一人者がいる研究所に行ってきたのだった。
「すみません、すみません」
突然、強めに肩を揺すられて、びっくりして飛び起きる。
遅れて出てきた言葉はひどく素っ頓狂な声だ。
「――なんですか」
隣を見ると、長く真っ黒な髪の女性が同じく真っ黒な瞳をこちらに覗かせていた。
はて、隣の席は空席だった気がするが、途中のバス停から乗ってきたのだろうか…。
「もしかして、私と同じ、人間ですか」
何を言われているのかわからなくて、思考を停止させたまま、はい?とだけ答えた。
すると彼女は興奮気味に話し始めて、僕は眠気まなこをこすりながら、話半分に聞いた。
「あの、もしかしたら、おかしく思われるかもしれませんが、私はこの時代の人間ではありません。自分の先祖に会うために、100年以上後の世界から肉体と精神を送りました」
僕が何も言わないのを見ると、安心したように続ける。
信じたわけではない、ただあまりに突拍子もない話で、はっきりしない頭ではよく考えられなかったのだ。
「100年後の世界には、少々問題があります。例えば、少子化が加速して、人口はこの時代の1/20にも満たないと言われているのです」
「言われている?」
「はい、政府が正確な人口を把握できないのです。これを説明すると長くなるのですが、70年ほど前からAI人間が私たちと同じように生活するようになって、今は人類を上回る数のAI人間が世界に溢れています。彼らの恐ろしいところは、一見すると私たち人間と区別がつかないところです。彼ら自身も自分がAI人間であることを認識していません」
「ちょっと待て、それはおかしくないか。仮にAI人間が溢れているとしても、人口なら、戸籍とか、いろいろと確認しようと思えばやりようがあるじゃないか」
起きない頭を無理やり叩き起こす。
黙って聞いていようかとも思ったが、放っておくと話に置いていかれそうだ。
「そんな簡単な問題ではありません。初めてカメラが開発されたとき、初めて遺伝子組換え技術が生まれたとき、人々はどうしましたか。人々は恐れ、怯え、排除しようとする流れがあったはずです。
――AI人間も同じです。AI人間が出てきた当初、生産を反対する意見が強く、すぐには広まりませんでした。AI人間が世に出るようになってからも、反発心から、奴隷のように扱われた時期もありました。その過程で、いろいろな議論が交わされたのです。AI人間の人権の問題、社会への参画、選挙権、社会保障とか、他にもいろいろと…。結果的に、今は人類とほとんど変わらない権利を与えられ、全ての個体が人類と同様に戸籍を持っているのです」
2024年現在、確かにAI技術の進歩は目まぐるしいものがある。
AIチャットの活用は日常生活や仕事においても一般化しつつあるし、その精度は高く、研究が進み、いつ人間のような存在になってもおかしくはないというのは理解できる。
事実、僕自身もAI人間を修士論文のテーマにしていて、今日の最先端の技術に驚かされてきたところだ。
しかしどうだろうか、100数十年後の世界でAI人間だらけになるというのは果たして有り得るのだろうか。
「――でも、やはりあなたは本当に人間なんですね。古いAI人間の研究の本に『AI人間は自己をAIだと認識した瞬間、自らを破壊することになる』と記されています。これだけAIの話をしても問題ないのだとしたら、あなたが本当に人間だということです。私は本当に過去に来ることができたのですね」
彼女の表情には安堵が浮かんでいた。
「先祖を探しに来たって言ってたっけ?どうして先祖なんか探すんだ?」
「実は、私はAI人間に育てられました。物心ついた時にはすでに、母親がAI人間に置き換えられていたのです。しかも、この事実に気づいたのは、つい最近のことです。きっかけは、本当の母親からのメッセージを見つけたことです」
そう言って、彼女は1枚の手紙を差し出した。
〜〜〜
智子。
この手紙を見つけられるくらい、成長したんですね。
私はあなたが生まれたとき、とても感動しました。
好奇心旺盛で難しい本をすぐ読もうとするところ、少し頑固で譲らないところ、本当におじいちゃんにそっくりです。
短い間だったけれど、最後にもう一度、あなたの母親になれて本当に良かったです。
私はもう長くありません。あなたは、片帆さんに託します。
片帆さんは自分の分身のような存在です。
そうだ、この手紙のことは片帆さんには内緒にしてね。
片帆さんはあなたのことを本当の娘だと思ってますから。
生まれ変わってもあなたの母親。
陣野 唯歩
〜〜〜
「――陣野!?
たまたまかもしれないが、僕の苗字も陣野だ。陣野 颯斗」
僕は驚いて顔を上げると、彼女は考え込むような顔をした。
「いえ、たまたまじゃないかもしれません。私は肉体を送るときに、私と関係性が深いところへと願ったのです。一か八かの賭けでしたが、もしかしたらあなたと私は親戚で、あなたのところに引き寄せられたのかもしれません」
なるほど。
そうなると、僕もいよいよ無関係を決め込むことはできなくなってきたわけだ。
「――この手紙を発見してから、私の人生は一変しました。今まで、自分と同じように人間だと思っていた友達が、先生が、家族が、もしかしたらAI人間なのかもしれないと思うようになったのです。考えれば考えるほど疑心暗鬼に陥って、しだいに誰のことも信じられなくなっていました。そんな中で、せめて自分のことだけでも知りたいと思って、自分のルーツを確かめにここに来たのです」
彼女の表情は暗かった。
ある日突然、自分が信じていたものが信じられなくなって、周りの人が仲間ではないと感じるようになって、きっと心細かったことだろう。
そんな同情をしてしまった僕は、次の言葉を断ることはできなかった。
「それでそのー、言いにくいんですが、無計画に来たものですから、実は行く宛てがなくて…」
彼女は言いにくそうに、上目遣いでこちらを窺う。
はぁ……。と、僕は深いため息をつく。
「まぁ、僕が親戚の可能性もあるわけだし、とりあえずうちに泊まればいいよ。その代わり、先祖のことがわかったらすぐに未来に帰るんだよ」
彼女は、うんと頷くと、さっきとは打って変わって顔を綻ばせた。
未来に帰れなんてひどすぎたかなと思ってしまうほどに、可愛らしかった。
+++
家に帰ると、智子に部屋を案内した。
「ここがリビングで、ここは僕の寝室。こっちの向かいの部屋は物置なんだけど、布団を敷くスペースぐらいはあるから、ここを使いなよ。あっちの奥の部屋は、研究資料とかたくさんあるから、勝手に入っちゃダメだよ」
案内する間、智子はやけに嬉しそうにしていた。
「なんだか、お泊まり会みたいですね。ワクワクします!」
そう言って、リュックから取り出したのは、お菓子にトランプ、折りたたみ式のボードゲームまで。
嫌な予感がして、慌てて言う。
「あー、いや、悪いけど、今日は一緒に遊んでやる時間はないんだ。明後日までに修士論文を完成させないと…」
そうすると、智子はむくーっと膨れる。
僕は仕方なく、夜食に誘うことにする。
夜食と言っても、ただのインスタントラーメンだ。
女の子だからあまりこういったものは食べないだろうと思ったのだが、反応は意外なものだった。
「サッポロ一番の塩ラーメン…!!」
「知ってるのか?」
「もちろん!育ての母がいつも作ってくれました。卵ともやしを入れると美味しいんだよね」
「え、すごいな。今日は卵がないけど、僕もいつもはそうやって食べている」
思わぬところで共通点があるものだ。
もしかしたら、本当に親族か何かで、インスタントラーメンの作り方が脈々と受け継がれているのかもしれない。
そんなことを考えてしまって、失笑する。
ラーメンごときで大げさかと。
智子は、ラーメンを食べ終わると、慣れた手つきで洗い物まで済ませて、明日は遊びますよと言い残して物置部屋に引っ込んでいった。
+++
――ゆっさゆっさ。ゆっさゆっさ。
――ゆっさゆっさ。ゆっさゆっさゆっさ。
パンになった夢を見た。
なぜなら早朝から、智子にゆっさゆっさコネられているからだ。
「まだ早すぎるよ……」
「はーやーとー、おーきーてー。今日は2074年に老朽化で取り壊された東京タワーを見に行きますよ」
え、まじか、2074年に取り壊されるのか。
僕は聞きたくなかったなとショックを受けながら、ゆっくりと体を起こす。
完全に支度を終えた智子の姿と、それから時計を見る。
まだ8時。よし、寝よう。
「あー、こらー、ダメだよー」
そんな朝の一幕があって、なぜか東京タワーに来ている。
僕にとっては、いつもと変わらない東京の景色。
だけど、智子は海外旅行にでも来たかのように目を輝かせて、外国人向けの観光案内所でもらってきた地図を見ている。
「ねぇ見て、颯斗!ディズニーランドがこんなに小さいよ。こんなに小さかったら一日で回り終わっちゃうじゃん」
100年後の世界では、ディズニーランドが一体どのぐらいの大きさになっているのだろうか。
聞こうとして、怖くなって聞くのをやめる。
「東京の街も、100年後と比べると、やっぱり何だかショボイ。だけど、全て生身の人間が作り上げたって考えたら、すごく活気があって、本当に良いね!私は気に入ったよ、この街」
智子はそう言って振り返ると、顔をクシャクシャにして笑う。
ルーツなんてわからないままで良い。このままの笑顔で、ずっとここにいてほしいと思った。
東京タワーをおりると、僕たちは名も知らぬ喫茶店になんともなしに吸い込まれた。
氷が溶けて、半分ほど飲んだはずのメロンソーダの水位が元どおりになっている。
「まだ出会って2日目なのに、こんなに話が噛み合うなんてびっくりだね」
智子はケラケラと笑う。
「時代は違えど、案外同じような生活をしてきたのかな。育てのお母さんはAI人間だったって話だけど、本当に人間らしい育て方をしてくれたんだね」
「そうだね。良いお母さんだった。それなのに…」
そう言って智子は、顔を曇らせる。
僕は黙って続きを待った。
「私は本当に親不孝者だと思う。いろいろなことをしてくれたのに、結局私は何も返せなかったばかりか、ひどいことを言ってしまった」
「――亡くなったの?」
沈黙が流れる。
きっと智子の一番触れられたくない部分。だけど、きっと聞かなければならない話。
「――手紙をもらったときにね、なぜかすごく腹が立ったの。なんというか、ずっと自分が騙されてきたような気持ちになって。
偽物のお母さんを用意した実の親も、AI人間のくせに素知らぬ顔でお母さんを演じてきた育ての親も、AI人間の存在を知っていながら自分の家族は大丈夫だと信じて疑わなかった自分自身のことも、本当に愚かだと思った。それで、そのやり場のない感情をうっかり一番身近な人にぶつけてしまった。
たった一度。だけど、決して言ってはいけなかった言葉。『あなたは本当の親じゃない。AI人間のくせにお母さんのふりしないで』と」
「もしかして――」
「そう。母は自分がAI人間であると自覚して、崩れ落ちていった。そんなつもりはなかった、騙すつもりはなかったって、私に懺悔しながら」
AIの自我の問題は、度々議論のテーマにあがる。
例えば、亡くなった誰かの代わりとして作られたAIは、自分がオリジナルでないことを知って、果たしてそれまでと同じように生きていけるのか。
現代はまだ、自己を認識できるレベルまでAI研究が進んでいない。
だけど、来たる未来。人間とAIの間には悲しい結末しか待っていないのだろうか。
+++
――リンリンリン。リンリンリン。
駅のホームで、電話が鳴る。峰田教授からだ。
「昨日の見学はどうだったんだ?今日、共同研究している沼津先生が来ることになって、急遽15時から実証試験をすることになった。人手が必要だから、今から来られるか」
「えー、あー、はい。じゃあ、伺います」
僕は歯切れの悪い返事をした。
修士論文はすでに仕上げてあって、明日教授の最終チェックを受けることになっていたから、今日は論文を持たずに出てきてしまったのだ。
「智子、ごめん。1人で帰れるか?急遽、教授のところに行かなきゃいけなくなった。こんなことなら、論文も持ってきていれば良かったな」
「峰田教授はいつも人遣いが荒いね。いいよ、先に大学に行きな!私が論文を持っていくよ」
「あー、でも、道がわからないだろ」
「大丈夫、100年後の未来とはいえ、私は東京には詳しいんだ」
智子は得意げに話す。
「じゃあ、ごめんだけど、奥の部屋にあるノートパソコンを持ってきてほしい」
そう言い残して、帰路とは反対のホームに来た電車に飛び乗る。
ちょうどそのとき、違和感を感じた。
――あれ、なんで智子が峰田教授のことを知っているんだ?
湧き上がる違和感はしだいにどんどんと大きくなる。
陣野という苗字、智子という名前、そして僕とよく似た好み。
そのとき、血の気が引くような嫌な予感がした。
僕は慌てて次の駅で電車を降りて、反対ホームの電車を待つ。
はやくしてくれ。はやくしてくれ。
はやくしてくれないと智子が――。
焦る気持ちとは裏腹に、時間は刻一刻と過ぎて、家に帰ったときには、無情にも全てが終わった後だった。
自宅の一番奥の部屋――僕がAI人間の研究に使っている部屋で、智子は横たわっていた。
「智子、ごめん」
「どうしましたか。何かありましたか」
智子と同じ声で話しかけるのは、PCの中にいるAIのチコ。
薄々どこかで気づいていたのに、ずっと目を背けてきた存在。
横たわる智子にそっと触れる。
ああ、まるで人間の少女のような肌ざわり。
――美しく精巧で、儚く壊れやすい、作られた存在。
触れている髪がだんだんと細くなっていく。
未来に帰るのだろうか、それとも…。
智子は苦しそうな声をあげながら、最後に少しだけ目を開けた。
「……やっと、わかったよ。颯斗が本当の親なんだね。誰も、私に真実を教えなかった。それはきっと、私がたくさんの人に愛されていた証拠だね」
智子はそう言って、目一杯はにかむ。
+++
――AI人間は自己をAIだと認識した瞬間、自らを破壊することになる。しかし、真実を知らずに生きることもまた、同じだけの苦しみがあるだろう。
修士論文の最後に、僕はこう書き足した。
そして、チコにAI人間に関する全ての知識をインプットすることにした。
どうか、智子が笑顔で暮らせる世界でありますようにと、願いを込めて。