彼氏と別れた姉が脱サラして蕎麦屋になった。あ、蕎麦屋って言っても、店主じゃなくて建物の方ね。
彼氏と別れた姉が脱サラして蕎麦屋になった。あ、蕎麦屋って言っても、店主じゃなくて建物の方ね。
「全く、普段はおとなしいのに、一度言い出したら何言っても聞かないんだから」
電話越し。母親はため息混じりにそう呟いた。別に人生一度きりなんだから自由にやらせてあげたらいーじゃん。私はそう思ったけど、そんなこと言ったらまたぐちぐちと文句が続きそうだから、私はそうだねーって適当に相槌を打って話を流すことにした。
でも、どんな蕎麦屋になったんだろう。そう思った私は姉からLINEで住所を聞いて、蕎麦屋になった姉を見に行った。場所は東京メトロ千代田線の根津駅から歩いて5分ほどの通り沿い。お弁当屋さんとエステ店に挟まれた一角、姉はそこに建っていた。
お仕事中だったから私は邪魔にならないように外から姉の写真を撮り、それから店内へと入る。中では熟年夫婦がお店を切り盛りしていて、できたばかりだというのに、お店の中はお客さんで賑わっていた。私が注文を聞きにきた奥さんに、今ここの蕎麦屋をやっている蕎麦屋の妹ですと挨拶すると、奥さんはいつもお姉さんにはお世話になってますと頭を下げてくれた。飲食店なんてやったことないのに本当に大丈夫? 姉から脱サラの話を聞いた時は正直不安だったけど、ちゃんとした人がお店を切り盛りしてるみたいで私はちょっとだけ安心した。
「それにしてもどうして蕎麦屋なの。もっとおしゃれなお店の方がよかったんじゃない?」
お店がお休みの火曜日。私は喫茶店で、人間の姿に戻った姉に聞いてみた。
「復讐よ、別れた彼氏へのね」
「一回会ったことあるけど、そういえば元彼ってうどん屋さんなんだっけ?」
「うん」
「どっち?」
「建物の方」
姉が元彼のことを思い出したのか、目を伏せ、ため息をつく。
「仕事ばっかりで私のことなんて顧みなかったあいつを、私が立派な蕎麦屋さんになって見返してやるの」
その言葉通り、姉は蕎麦屋さんとして立派に働いた。雨の日も晴れの日も、暑い日も寒い日も、姉はいつも同じ場所に建ち続けた。お店を切り盛りしている夫婦の助けもあって、姉の蕎麦屋は少しずつ少しずつお客を増やしていき、しばらくするとお客さんの足が途絶えないほどの人気店となった。
元彼のうどん屋は私と別れてからも鳴かず飛ばずらしいの。前に会った時、姉はそんなことを嬉しそうに言っていた。動機はどうであれ私は姉のセカンドライフを応援していたし、姉の蕎麦屋が繁盛するのは妹としても鼻が高かった。でも、その一方で姉がいつまでの彼氏への復讐に囚われていることが少しだけ心配だった。けれど、姉が楽しそうに蕎麦屋としての生きがいを語るのは喜ばしいことだし、このまま順調に続けていって欲しい。私も母もそう思っていた。そんな矢先のことだった。
『いまから数分前、関東地方を中心に地震が発生しました。気象庁によりますと、震源地は関東地方の南部で、地震の規模は震度5を記録しました。現在、被害の詳しい状況や津波の情報などは確認中ですが、一部の地域では停電や交通機関の運行に影響が出ている可能性があります。余震の発生も考えられますので、建物内にいる方は落下物に注意し、可能であれば、安全な場所への避難を心がけてください』
早朝に突然東京を襲った地震。揺れは大きく、棚に入れていた本や小物が床に散らばってしまったけど、私には大した怪我はなかった。揺れがおさまった後、散らばったものを片付けながら私はふと姉との会話を思い出す。
「でも、蕎麦屋になるってお金がかかるんじゃない?」
「まあね、でも、節約できるところは節約できるのよ。たとえば、できるだけ安い資材を使うとかね」
私はすぐに姉に連絡をしたが返事が返ってこない。私は心配になって、急いで姉が働く根津駅へと向かった。すると、そこには人だかりができていて、彼らが見つめる先には、耐震性能をケチったばかりに無惨に半壊した姉の姿があった。
「きゅ、救急車……?」
私は姉の姿を見て、そう呟く。果たして呼ぶべきは救急車なのだろうかと混乱していると、人混みの中から一人の若い男性が飛び出してきて、半壊になった姉の元へと近づいていった。一応身内である私も慌てて姉に駆け寄りながら、その男性にどこか見覚えがあるなと考える。そして、間近で顔を見てようやく、その人物が、うどん屋をやっている姉の元彼だということを思い出すのだった。
その後は、長い間うどん屋として働いていた元彼さんの尽力で、テキパキと姉の修繕活動や保険の手続きが行われた。早朝ということもあってお店の中には誰もおらず、怪我人が出なかったことは幸いだったと姉はため息をつきながら教えてくれた。
「でも、元彼さんのおかげで助かったね。感謝しなくちゃ」
「うん、そうだね。最後喧嘩別れみたいな感じで、今の今までずっと憎んでいたけど、半壊状態になった私を助けてくれたおかげで、少しだけ気持ちが楽になれた気がする。なんというか、全く大事にされてなかったわけじゃないんだなって」
まあ、よりを戻すことはないけどね。姉が笑いながら話す。
「これからお礼をかねて三人で食事をするんだっけ。喧嘩はしないでよ、お姉ちゃん」
「大丈夫、大丈夫」
そして、姉は晴れやかな表情を浮かべながら、言葉を続けた。
「蕎麦屋とうどん屋だけに、ここらで手打ちってことで」