忘却の彼方へ
――地球は青かった――
ねぇ、その青って何?
――青。晴れた空の色や海の色。瑠璃のような色。瑠璃とは七宝の一つで、つやのある美しい青い宝石ラピスラズリというんだ。あとガラスの古い名前でもあるのだよ――
いつもより早く目覚め、用をたそうと外を出たところで、小さな紙の束を手に声を出して読んでいたおじいちゃんに、思わずたずねたのが、すべてのはじまりだったと思う。
おじいちゃんは、手にした紙の束を辞書というものだと言い、その辞書に書かれている文字の読み方と綴り方、それに、その言葉の意味を教えてくれた。
――地球は青かったという言葉は、もともと、空は非常に暗かった。一方、地球は青みがかっていたという言葉からでね、そしてその言葉は、人が宇宙から地球を見たときに発せられた言葉なのだよ――
ちきゅう?
――ああ、地球だ。君が今ここにいる大地が地球なのだよ――
「そろそろ、ここから移動するぞ」
銃を持ち、防弾チョッキを身につけた男が、ぼくが留めおかれている場所へと近づいてくる。
ぼくは遺品となった異国の辞書を閉じ、肌と下着の間へ滑り込ませ、まだ手をつけていない保存食を背嚢に詰め、毛布を丸め、小型ランプを背嚢に括りつける。
もう何度目の移動だろう。行く先はどこなのか、なんのために移動し続けるのか。辞書にはそんなことは書かれてはいないし、周りの男達はその疑問に応えてはくれない。
唯一ぼくの疑問に応えてくれたのは、この辞書をくれたおじいちゃんで、
――いいかい、これが君の名前。
これが君のお父さんの名前。
そして、これが君のお母さんの名前――
おじいちゃんはそう語りながら、辞書の余白に書き込みながら教えてくれた。
――君がなぜ、移動し続ける訳は知らないほうがいい。ただ、君の姓名が深く関係していて、その姓名を名乗ってはいけないことだけは覚えていてほしい――
そのおじいちゃんは、ぼくの周りにいる男達に殺された。男達が銃の引き金を引く直前、父とぼくと同じ姓の名前を誓いの言葉として。
ぼくは青を知らない。
空の青も海の青も知らない。
ぼくが知る色は、闇の黒と闇を割く光の白と、それから炎と血の赤だけ。
おじいちゃんを殺されたことを知った後も、ぼくは銃を持つ男達に囲まれて生かされている。男達に護られ、夜の帳に紛れて移動し続け、うち捨てられた建物や地下に潜り込み、一番最初に食事を与えられる。
そのとき決まって食後に飲み物を渡される。ぼくは男達の目を盗んで飲む量を減らす。うまく誤魔化せる時は飲んだふりをする。その中に睡眠薬が入っていると知った時から。
男達はぼくが眠りにつくのを確認すると、交代で見張りをし、どこかへと食料を集めに行ったり、この先、どこを歩くかを検討したり、不審を抱いた仲間を殺したり……
ぼくの周りから男達がいなくなる時や、眠りにつく僅かな時間に、ぼくはおじいちゃんから譲り受けた小さな明かりを毛布で覆い、辞書を読む。
正しく言い直すと、遺された辞書の余白に書き残されたそれを頭に叩き込む。
いつもより早く目覚め、差し込む太陽の明かりに誘われるかのように抜け出た先で、一人見張りについていたおじいちゃん。名前は…… 結局教えてくれなかったんだっけ…… の朗読する声に思わずたずねたのが、すべてのはじまり。
いつも銃を持ち、ぼくに近寄る者を追い払う男達とは違うその人に、ぼくは胸の内を打ち明けて……
遺品となった辞書を読み込んだ今、おじいちゃんは、ぼくが移動し続ける生活をする以前から、ぼくがぼく自身でぼく自身が自由にその生き方を選ぶ心を育むきっかけを伺っていたのではないかと思い至る。
でなければ、指導者の孫というぼくの存在を、ただの噂だったと人々から忘却させる願いを育ませ、それを実現するための知恵と手段をぼくに遺しやしない。
そうして、そのチャンスがやっと巡ってきた。
――いいかい、この紋章の元に集う人達が、君の望みを叶える力になってくれる――
そう教えてもらった紋章が描かれた旗がたなびく建物に、ぼくはとうとう遭遇した。
後は行動に移すだけ。
辞書をばらし、小石を包み作り続けたそれをぼくを護る男達に気づかれぬよう道端に落とし、その建物への目印にした。
そうして、ぼくに出されてたありったけの眠り薬を、男達の食事の中に混ぜ込み、皆、深い眠りに落ちるのを待ち……
ぼくは白布をつけた棒を手に、頭上に広がる無限の世界を見上げる。
おじいちゃんと話したあの時とよりも青みを帯びている。
……これが青。青なんだ。
息を吸い込み、ツンとする感覚を抑え、ぼくにとって大きな一歩を踏み出す。