あなたのつがいです
怒号が鼓膜を震わせたのも束の間、お腹に痛みと熱が走った。
生理的な呻き声が漏れると同時に無様に床に倒れると、呼吸を整える暇もなく肉で覆われた太い指に首を圧迫された。
「私は慈悲深いからな。チャンスをやろう」
致命的なミスを犯した『影』の行末は決まっている。
「竜王を殺せ」
──死一択だ。
「どうした? 早く返事をしろ」
「……ぎょ、い」
拒む術もなく顔を苦痛に歪ませながら承諾する私の姿に、男は溜飲が下がったのか、私の首から手を離した。
「猶予は三日くれてやる。……そうだな、アレを殺せた暁にはお前を解放してやろう」
「!」
「当然、できればの話だがな」
悪役よろしく高笑いをしながら男が部屋を出て行くのを確認すると、全身の力を抜いて床に体を委ねる。
竜王──この大陸を統べる最強種族である竜族の頂点。
竜の寿命は平均千歳。力の強さに比例してその寿命は延びるという。現在の竜王は三百歳近くの雄だそうだが、歴代竜王の中でも抜きん出た力を持つ竜であり、その存在を知らぬものはいないとさえ言われている。
そんな相手を殺せと宣う男の姿を思い浮かべ、思わず口角が上がる。
成功しようがしまいが、私はようやくあの男から解放されるのだ。
これを喜ばずしていられるものか。
*
「……ここか」
竜王の私室らしき部屋に来てみたはいいものの、人の気配はなく、詰めていた息を少しだけ吐く。
窓が開け放しになっているため侵入することは容易かった。竜王の住む城の防犯がこんなに脆弱でいいのかと心配したくなるほどに。
一目見て価値の高さを窺い知れる絨毯に足を乗せることは少しだけ躊躇われたものの、目を一度伏せて両足を地につける。
「いい、匂い」
竜王の部屋は私にとって心地よい香りがした。形容し難くも私を安心させる甘いそれは、脳の髄を痺らせる毒薬のようでもあった。
たぶんもう、手遅れだったのだ。
それを証明するかのように、無意識のうちに足がそこへ向かっていた。この香りを強く感じたいと求める私の欲を満たせる場所へと。
波一つ立っていないそこに手を滑らせた後、そっと身を横たわらせる。求めていた香りに全身を包まれ、ようやく帰って来れたと思いすらした。
私の帰る場所なんてどこにもないはずなのに。
「あ、れ」
ポタリと小さな音がしたかと思うと、シーツに灰色の染みができた。
なにが起きたのか理解できなくて、呆然とそれを見つめていると、こちらに向かってくる足音が聞こえた。
素早く目元を拭いながら身を起こし、足を組んで耳に神経を集中させる。
人数は二人、歩幅からしていずれも男。一人は憤っているのか床を蹴る音が強く、もう一人の男はその男を追うためか慌てた音を鳴らしていた。
ドクリと心臓が跳ねる。こちらに向かっているのが誰なのかは確かめなくても不思議と分かった。
己の顔を引き締めた直後、ピシっとヒビが入る音がして立て続けにドゴォン!!と大きな音が部屋に響いた。
目の前に広がる惨状に、一気に緊張が走る。
「次、彼奴らが同じようなことを口にをすれば命はないと思……」
壁に穴を開けた張本人と目が合った。
神秘的な黒い髪と瞳。整い過ぎた顔は、男が人間でないことを嫌でも分からせるためにあるようだった。
脅威的なオーラを放つこの男こそ、竜族の、否、世界の頂点に立つ男──竜王に違いなかった。
不審者が部屋にいることに気付いて攻撃を仕掛けてきたのかと思ったが、どうやら違ったらしい。付き人らしき男に向けて放った言葉を不自然に途切らせたまま、私を凝視しているのがいい証拠だ。
「こんばんは、竜王陛下」
良い女に見えるよう計算し尽くした笑みを浮かべた。
なぜか硬直したままの竜王に、これ幸いと口を開く。
竜王がこの世で一番厭っているという言葉をつむぐために。
「そして初めまして。──貴方の番です」
竜には己の半身とも言うべき存在、番がいる。
通常番は百歳あたりで見つかると言われているにもかかわらず、竜王は三百歳になっても番が見つかっていない竜だった。
そんな哀れな竜になにを思ったのか、人間、特に容姿に優れた者たちの中には最悪の行動に出るものが現れ始めた。
竜が好むと言う香りを付け、竜が好むという格好をし、先程の言葉を述べる。美しい自分を愛さないものはいないと、美しい自分こそが王の番だと、そう考えた人間は皆根拠のない自信とともに目の前の男にしなだれかかるのだ。
そうした人間たちは竜王の手によって全て消された。誰であろうと一切の慈悲なく。
竜王の怒りは当然と言えた。
彼女たちの行為は、竜が心の底から求める番を否定することと同義だったからだ。
「なかなか迎えに来てくださらないものですから、私のほうから来てしまいました」
任務を遂行するにあたり様々な人間を演じてきた私にとって、愚かな女を演じることは赤子の手を捻るよりも簡単だった。
そう、簡単だったはずだった。
彼の番になりたい。そうやって自分の頭の中すら騙して竜王を見つめる計画は、彼の香りを知ってしまっただけでいとも簡単に崩れ落ちてしまう。
「陛下、早く私を抱きしめてください。今まで会えなかった分、たくさん」
私は今、この世で一番愚かな女と言っていいだろう。
それでもなぜか心は満たされていた。それどころか歓喜さえしていた。涙が、とめどなく溢れるほどに。
私が涙を流し始めたところで竜王はようやく動きを見せた。無言で壁の穴から部屋に足を踏み入れ、足早に私のもとへやって来る。
組んでいた足を下ろし、竜王を見上げる。意外なことに、私を見下ろす竜王の瞳に怒りはなかった。
「余に、会いたかったのか?」
「え? …………はい、とっても」
想像していなかった問いかけと甘い声に驚いて一瞬素が出てしまうも、どうせ最期になるのだからと、そのまま素直に彼への愛を示した。
ごくりと彼の喉が動いた。そして私に向かって手が伸ばされる。
これでようやく終われる、と目を瞑った次の瞬間、私を襲ったのは想定外の衝撃だった。
「っ!?」
唇を重ねられている。痛みとは程遠い、柔いそれが私の唇を食べようとしている。
なぜ、どうして。混乱する頭をどうにかして冷静にさせようとしても、どんどん深くなる口付けが許してくれない。
「ん、……っ、ぁ……ふっ、あ」
「ああ、会いたかった……余も会いたかったぞ……!」
「あ、ぁあ、んん、ッッ、まって」
「早く迎えに行ってやれなくてすまなかった。名はなんと言うのだ?」
「はぁっ、……なに、して」
「名は?」
どろりと耳の奥に蜂蜜が流し込まれた感覚に陥る。ゾクゾクと背筋を這い回る得体の知れない感覚が、私の思考を溶かしていく。
「……リディア、ゃ、あ!」
「リディア。……良い名だ。ああ、リディア、リディア……ッ」
久しく口にすることのなかった己の名前を、竜王は飴玉でも舐めるかのごとく甘く何度も口にする。
「ま、待ってくだ、んん……!」
「待てぬ」
「そ、そと、っ、が」
竜王が破壊した壁は当然穴が空いたままで、そこから驚愕の表情でこちらを覗く付き人らしき男。
私のなにが竜王に火を付けたのかは分からないが、私は今貞操の危機にあることだけは理解できた。理解できているだけに他人に見られているという状況だけは看過できない。
「外? ああ、すまなかった。可愛いリディアの姿を他の男に見せるなんてあってはならないからな」
竜王は壁に向かって手をかざすと、瓦礫となっていた壁の残骸が宙に浮かび上がったかと思うと、あっという間に壁が修復してしまった。
完全に二人きりになってしまった状況に、もうどうすればいいのか分からなかった。
「我が名はヴィルスキールニル。どうかヴィルと呼んでくれ、我が番」
竜王の言葉を理解する間も無く、私は竜の愛に溺れた。
*
「おはよう、リディア」
朝日に照らされる竜王の表情は、信じられないほど腑抜けていた。
僅かな沈黙を置いて、私を抱きこむ男が大国の王であることを思い出す。
「ッ」
逃げ場などないのに反射的に竜王から逃げようとした。しかし下半身が上手く動かなくなっていることにも気付かずベッドから落ちそうになり、そんな私を竜王は焦った表情で抱き留める。
「すまない、昨日は無理をさせた。なにか欲しいものがあれば余が取ってくるから遠慮せず言ってくれ」
「……え?」
「腹が空いただろう? 食事を用意させよう」
「は?」
理解できなかった。
なぜ、この男はなぜ当然のように私を抱きしめ、頭に口付けを落とすのだろうか。
なぜ、番と偽った私のことを殺さないのだろうか。
体の良い欲の吐口としての存在に過ぎない私を、そんな愛しくて仕方ないみたいな目で見つめている意味が分からない。
「なんで、殺さないんですか?」
「誰を? リザリックをか?」
「誰ですか」
「昨日余と共にここに来た男のことだ」
「違います」
「では誰をだ?」
「私です」
部屋に沈黙が降りた。
竜王は探るような目で私の顔を覗き込む。
「なぜ、そのようなことを言う」
「勝手に貴方の部屋に入ったからです」
「なんだ、そんなことか」
「そんなこと? 私は、あ、貴方の番だとも言いました!」
「ああ、そうだな」
怒りを見せるどころか嬉しげに笑う竜王の態度に、今度は私が困惑する番だった。
「そんなことより、ヴィルと呼べと言ってるであろう? 貴方という呼び方も、敬語も気に入らない」
不機嫌そうにそう呟くと、竜王は私の唇に親指を這わせた。
昨夜の情事が思い返されそうな予感がして咄嗟に口元を押さえると、竜王は残念そうに私の手を取って、手のひらに口付けを落とした。
「なぜ余が其方を殺さないのか、だったな。そんなの決まっているだろう、──リディアが余の番だからだ」
リディアも自分で言っていたではないか、と竜王は楽しげに喉を鳴らし、私の唇に甘いキスを贈った。
竜王の衝撃発言に固まる私は知らない。
私を縛り続けていた雇用主が既にこの世からいないことを。
そしてこれから先、竜王ヴィルスキールニルの番として彼の寵愛を一身に受け続けることになることも。