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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

茂木安左衛門記是壱

作者: 小城

今川氏真という者がいる。

西暦でいえば、1538年に生まれた。父の名は今川義元。桶狭間の敗将である。義元は東海地方に名を響かせた大人物である。ただ、彼は桶狭間でその生涯を終えてしまう。彼の跡を継いだのは氏真であった。しかし、その後の時代を作っていったのは、子の氏真ではなかった。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康といった他人であった。

 氏真は、その他人が作っていった時代の中で細々とその生涯を送っていくことになった。彼は時代の傍観者となった。

 氏真は西暦でいえば、1614年12月28日に生涯を終える。御年77歳。

 もう一人、それとちょうど同じ時、同じ瞬間に生涯を終えた者がいた。その人の名は今川義真。彼は、氏真と同じ体に存在していたもう一人の今川であった。


氏真

 春の日差しがのどかなその日に、氏真は生まれた。父は駿河の大名、今川義元。母は、その妻であり甲斐の大名、武田信虎の娘、定恵院。

「名は五郎。」

氏真が生まれたのは天文7年。その前年から今川義元は相模の大名北条氏綱と駿河国河東郡で争いを始めていた。事の発端は、義元に信虎の娘が嫁いだことにある。義元の父、氏親が亡くなると、義元は異母兄である良真と家の相続を巡って争い、勝つ。そのとき義元を支援したのが信虎であった。その縁から、義元は信虎の娘を嫁にした。それは今川家と武田家との同盟を意味した。それに怒ったのが、北条氏綱であった。北条と今川はもとより同盟関係にあった。義元の祖母は北条早雲の妹であった。今川家と武田家との同盟を北条家への敵対と見た氏綱は今川家の領地である河東郡に攻め込む。こうして、今川家と北条家の争いが始まった、その翌年に氏真は生まれた。氏真の誕生。それは争乱の象徴だったのかもしれない。後年、氏真がこのことをどう感じていたのかは分からない。しかし、氏真の傍には生まれたときから争乱があった。


幼年

 五郎は元気に育った。その間、父の義元は駿河国河東郡から北条を退けた後は三河国へと兵を送り、松平や織田といった豪族を圧迫し始めていた。五郎は義元の子として、また、武家の子としての作法礼節の中で育てられていた。そんな五郎には怖いものがふたつあった。ひとつは父、義元である。義元はたまに様子を窺いに五郎のもとへやって来る。しかし、父が話しかけるのはもっぱら五郎の養育係や乳母にであった。それは、武家としての教育や作法、仕来りなどのことであり、その進捗状況の確認でもあった。幼年時代、父との思い出は五郎には全くない。あるのは祖母寿桂尼とのことである。寿桂尼は若い頃は、夫や子(義元の兄)を亡くし、代わりに今川家の一切のことを取り仕切る役割にあったが、義元がその地位に就くと、それからも解放されて、今では孫の五郎とよく遊んでいる。義元もそのことには口を出せなかった。

 五郎の怖いもののもうひとつが学問の師匠である太原雪斎和尚であった。雪斎は、父義元の師匠でもあった。義元は小さい頃、京都の寺で修業をしていたというが、雪斎はその補佐役としてともに京都にも赴いていた。その雪斎が五郎の師匠でもあった。

 五郎は14歳のとき、名を氏真と改めた。いわゆる元服である。こののち、氏真は一人前の武家として周囲から接せられることになる。それ故、学問修養もより一層厳しくなる。このとき雪斎56歳。死の三年前だったが、精力は衰えることを知らなかった。雪斎は義元といっしょに戦場へ行くこともあり、義元と雪斎は氏真から見たら、同じ種類の人間に見えた。このとき、臨済寺の雪斎のもとで学問を習っていた若者がもう一人いた。その若者は今年で10歳になる。周囲からは「三河の小せがれ」と呼ばれていた。幼名竹千代。後の徳川家康である。彼はこのとき、松平家の人質として、駿河国の今川家の屋敷で過ごしていた。後年、氏真はこの自分より四つ年下の男におおいに世話になるのであるが、このときはお互いにそんなことは知らない。あるとき、氏真は「三河の小せがれ」こと竹千代が、安倍川で子どもたちが石を投げ合って石合戦をしているのを見て、「多人数の方よりも少人数の方が負けるまいと一所懸命になり勝つでしょう。」と予言し、見事、勝敗を言い当てたという話を、雪斎から聞いた。それを聞いた氏真は「(自分もその場に居合わせたなら、そのくらいのことはきっと言い当てられただろう。)」と内心思った。一方で、己より小さく未だ元服もしていない「小せがれ」が、そのような考え方をすることができるということに驚き、不気味な恐怖を感じた。それまで今川屋敷という塀の中で育った氏真にとって、周囲の者は味方であった。味方の者がどんな思考をしようが、それは恐れにはならない。しかし、この「三河の小せがれ」と言われる味方ともなんとも区別のつかない若者が見せた「知恵」は、氏真に生まれて始めて「敵」という者の存在を示唆させたのかもしれない。

 また、雪斎は元服した氏真に「兵法」というものを教えた。当時、兵法という言葉にはふたつの意味があった。ひとつは、学問、戦の知識としての兵法であり、これらは『孫子』、『呉子』などの中国の書物、または『兵法秘術一巻書』、『訓閲集』などといった日本の書物から学んだ。それらの中には合戦の日取りや方位、吉凶といった古くからの陰陽道に習った戦の仕方を作法礼節として展開したものもあった。雪斎はこれらにも精通していた。

 もうひとつは剣術、槍術などといった個人による闘争法としての兵法である。これらは書物からではなく、実際に体を動かすことによって学んだ。その頃は、各地に兵法者というものが現れていた時期でもあった。彼らは己の技術の研鑽あるいは伝達、または単に収入稼ぎとして各地を旅して廻っており、請いに応じて屋敷に逗留して技術を見せて教える。雪斎はこうした者たちから、刀、槍の使い方を学んでおり、それを氏真にも教えた。が、実際に教えるのは雪斎の門人の者であった。こうした『兵法』はいつのまにか氏真も気づかぬ間に、彼の頭の中に自分と他人、敵と味方といった二元的なものの見方を植え付けていた。

 一方、元服したあとも氏真は祖母である寿桂尼のもとへ通っていた。彼女はもと京都の公家中御門宣胤の娘であり、その縁から駿河の今川館や彼女の屋敷には京都の公家たちが多く集まっていた。

「五郎殿もいっしょにお遣りなさいませ。」

氏真はそんな公家たちに交じって、和歌や古典文学を学び、歌合や蹴鞠を楽しんだ。

「五郎殿は筋が良い。」

今は尼御台と呼ばれる寿桂尼は氏真とそのように接し、遊んだ。

「(ここは居心地がいい。)」

氏真は和尚や義元といるときよりも、寿桂尼といることを好んだ。ゆるゆると過ぎる時間の中で雪斎や義元また竹千代のことを思い過ごす。それらの記憶はここでは過去のこととして、やがて遠くへと消えていく。

「可愛らしい寝顔じゃ。」

氏真はよく寿桂尼の屋敷で昼寝をしていた。


 天文23年。氏真17歳のこの年。今川家、武田家、北条家の三家の間に同盟が成った。

「(嫁が来る。)」

北条家から北条氏康の娘が氏真のもとへ輿入れしてくる。同じく、武田家からは武田晴信(信玄)の娘が、氏康の子氏政のもとへ。今川家からは、義元の娘が、武田晴信の子義信のもとへ嫁いでいくことになる。氏真は自分の妹が他国へ嫁に行くのを見送っていた。

「(甲斐国とはどういうところであろうか。)」

まだ見ぬ知らない土地へ嫁いで行く気持ちはどうなのであろうか。妹の輿入れ行列を見守りながら氏真は思う。

「(身内が遠くへ行くとはこのようなものなのか。)」

それは寂しさであった。そして、そんな自分と同じような気持ちを妹も、まだ見ぬ嫁も持っているのだろうと思った。

「(風そよぐ…。)」

氏真はこの気持ちを歌にしようとした。そして、自らの屋敷へ戻るとそれを、帳冊子にそっと書き留めた。

夕刻、輿が到着した。

「今、参る。」

氏真は支度部屋へ行った。これから婚姻である。氏真は屋敷の者によって正装へと着替えられていく。

 婚姻の部屋へ入ると、皆集まっていた。父、母、祖母、家臣の面々。雪斎和尚。遠くには竹千代の姿も見える。

「しばらく。」

氏真は席へ着いた。やがて、女房たちに連れられて花嫁がやってきた。長々とした口上が口ずさめられて、無事、婚姻の儀礼は終わった。その後は宴会となった。氏真は花嫁の顔を見た。

「(ふむ。)」

氏真にはそれが美しいのか醜いのかは分からなかった。

「(この女子が私の妻になるのか。)」

ただ、その思っただけであった。氏真は注がれた酒を一口飲んだ。

 今川氏真の妻は、後年、早川殿と呼ばれる。早川殿は氏真よりふたつ年上であった。

「歌を作ったことはあるか。」

「少しばかりならば。」

早川殿も武家の娘としての作法礼節、教養一式は嗜んでいた。

「この歌は知っているか。」

氏真はそういうと自ら歌ってみせた。

「初めて聞きました。」

「古今集の歌だ。」

寿桂尼の屋敷で公家と遊んでいた氏真の知識は相応なものとなっていた。

「蹴鞠はしたことがあるか。」

「蹴鞠は…。したことがありませぬ。」

女人が蹴鞠をすると、どういう目で見られるのかということを氏真は考えたことがなかった。それはふたつ年上の早川殿の方がよく知っていた。氏真は寿桂尼からもらった鞠を手にとって、その場で一人で蹴って見せた。「一、二、三…。」

それは永遠に続くかと思われたが早川殿の明るい笑い声によって途切れた。

「駿府は雅やかなところと聞いておりましたが、まことにございました。」

「そうか。我が国はそう言われているのか。」

この頃には、氏真も行く末は駿河、遠江二国の太守になるという自覚はあった。

「相模はどういうところなのか聞かせてはくれまいか。」

国を持ち、家臣をまとめる。それがどのようなことなのかは分からない。しかし、いずれ自分はその何かをしなければならなくなる。氏真は漠然と心に感じていた。

 翌年、雪斎が死んだ。葬儀は盛大に催された。

「惜しいお方を亡くされた。」

葬儀の席で家臣の一人がそう言っているのが聞こえた。

「(和尚…。)」

元服から4年。それ以前も合わせると十年以上、教えをもらった師匠であった。

「(もう起き上がることはないのか。)」

横たわる雪斎の亡骸を前に氏真は思った。晩年、雪斎は氏真にこういった。

「師を頼り過ぎてはいけない。」

自ら立つ者は自ら学んでいかなければならない。雪斎はそう言っていた。

 二年前の天文22年。義元は今川家の領国に触れを出した。『今川仮名目録追加』と呼ばれる。それは義元の父氏輝が20年程前に出した法令に追加として21条の法令を加えたものである。その制定には雪斎も深く関わっており、義元はこれを基に領国経営を強固なものとしていくつもりだった。そしてその横には雪斎の姿があるはずであったが…。

「(和尚、御冥福をお祈り申し上げる…。)」

雪斎の亡骸に焼香をあげて、合掌をする。それは今川家の一員として、また、弟子の一人としてであった。葬儀の場には、早川殿や竹千代もいる。竹千代は今年、14歳になり、元服を迎えた。義元から一字賜り、名を松平元信と改めた。元信は沈痛な面持ちで頭を垂れている。涙を流しているかどうかは分からないが、氏真自身は、感傷に浸り、眼を潤ましていた。しかし、それと同時に何か自分の頭に違う感情が取り憑いていることも感じていた。


信虎

 雪斎の葬儀から三年経つ。年号は変わり、永禄元年になった。氏真21歳。この年、父、義元は、駿河と遠江、二国の支配を氏真に分担させた。そして、自らは三河と尾張の支配へ向けた画策を担うことにした。氏真は自らの側近も持ち、次期当主として動き出していた。しかし、この頃から氏真は頭痛を患うようになっていた。

「(頭に響く…。)」

朝、起きるとズキズキと痛むことがある。しかし、それはやがて治まるので、氏真はさほど気にしてはいなかった。去年、松平元信の婚礼があったときも氏真は頭が痛かった。元信は、氏真にとっては叔母にあたる義元の妹と婚姻した。

「(彼も今川家の一門となるのか。)」

「三河の小せがれ」と呼ばれていた氏真にとって敵とも味方とも分からぬ存在もこうして晴れて味方になった。それに氏真も安心していた。

「(彼は今頃、戦場であろうか。)」

今、元信は義元とともに三河にいる。彼にとっての初めての戦である。義元の魂胆は、氏真にも分かった。まず、三河松平家の当主である元信を今川家の一門にし、その元信を前面に押し出して、やがては三河、尾張の統一を進める。元信の初陣はその第一歩目であった。

「若殿。」

「なんだ右衛門。」

その男は三浦右衛門佐義鎮。義元の家臣の一人で今は氏真とともに駿河、遠江の領国経営に携わっている。

「左京大夫様がお見えで。」

「(またあの人か…。)」

左京大夫。それは武田信虎である。氏真にとっては母方の祖父にあたる。彼はかつて甲斐国の国主であり、自分の娘を今川義元の妻とした。氏真の母である。しかし、その後、信虎は家臣たちに背かれて、甲斐国を追われた。今は彼の子の晴信が甲斐国主である。それ以後、信虎は義元のもとに寄宿している。氏真が4歳のときのことである。祖父ではあるが、氏真はこの人のことが苦手だった。胡散臭い人物だとも思っていた。

「若殿。」

信虎が座敷に座っていた。元国主のこの男は、立派な髭を持っていた。それは今でも手入れを欠かせていない。氏真にはそれがこの人の内面を表しているように見えた。今もどこかで国主に返り咲くことを望んでいるかのように。

 信虎の用件は駿河や遠江の領国経営に関することであった。これには注意しなされとか、これにはお気をつけ下されなど。それは暗に自分と同じ轍は踏まないようにとの親切心のようではあったが、腑に落ちなかった。

「左様にござるか。」

氏真はうんともいいえともつかない相槌を打っていた。それはかつての雪斎和尚の教えのように心に届くことはなく、氏真は信虎の言葉のみを追っているようであった。そして、信虎は最後には必ず、どこから仕入れてくるのやら甲斐や相模と言った隣国の様子を氏真に伝えてくる。それは氏真にとって苦痛でしかなかった。甲斐はともかく、相模の北条家は今川家と同盟関係にある。氏真の妻が北条氏だからだ。氏真に信虎の真意は掴めなかった。いや、どこかで真意は掴めてはいた。この国を追われた流浪の元国主はその元国主なりの人生を送ってきたのであろう。それにより、今日のような人生観が出来上がった。それは価値のあることなのであろうが、氏真にとっては、疑心と不信を招く言説以外の何者でもなかった。

「それでは。」

信虎は退出した。信虎の話を聞いたあとは、いつも言いようのない倦怠と疲労に包まれた。氏真はこの信虎に影響を受ける自分を否定した。そして、それは自分をも否定することにつながる。その葛藤が言い知れぬ倦怠と疲労、信虎に対する嫌悪感を生んでいた。とはいえ、信虎の話を聞くのも、自らの務めであると言い聞かせていた。

「(話していておもしろい人ではないな。)」

ああいう話が好きな人もいるのだろうが自らは違うのだろうと氏真は思った。

「ちと、空けるぞ。右衛門。」

氏真は苦い顔をして、屋敷を後にした。三浦右衛門佐はそうした氏真の姿を度々見ていた者の一人であった。

 氏真は寿桂尼の屋敷に行った。

「(やはりここが一番だ。)」

子どもの頃から、居心地の良さは変わらない。氏真は寿桂尼の屋敷の者たちと蹴鞠を興じている。寿桂尼もそんな氏真の深意を察してか何も言わず、干菓子などでもてなしていた。氏真はしばしの時を寿桂尼の屋敷で過ごした。政務が終わり屋敷に帰る。

「お帰りなさいませ。」

早川殿が迎えた。この2歳年上の妻も最近は駿河の暮らしにも慣れたのか柔和な顔をしていた。

「今日、尼御台様のところへ参った。」

寿桂尼のことである。早川殿もまた、ときおり寿桂尼の屋敷へ参っては和歌や公家の暮らしのことなどを学んでいた。

「それは、またお嫌なことがおありでしたか。」

「今朝、左京大夫殿が来られた。」

「はて。」

「また、分けの分からぬことを言っておったよ。」

「左様でございますか。」

早川殿が薄い笑みを浮かべる。それは燭台の灯りに照らされて、時が止まったかのような感覚に陥る。この燭台の油には荏胡麻が使われていた。荏胡麻油は搾ったばかりは臭いはしないが、古くなったり、火を点けたりすると魚のような臭いがする。今、この燭台からもほのかな香りがした。しかし、氏真にはそれが気にはならなかった。

「(ここは二番目に居心地が良い。)」

氏真はそう思ったが、実際はどちらも然したる差はなく、氏真にとって居心地の良い場所であった。


桶狭間

 永禄3年。義元の西三河、尾張侵攻は本格化した。この年の5月。義元は駿河、遠江、三河の兵力を結集した。その数は2万5000人余り。向かった先は尾張国であった。氏真は変わらず駿河、遠江の領国経営に当たっていた。今は皆、義元に従軍しており、特にやることもなかった。暇な時間は相変わらず寿桂尼の屋敷で過ごした。

「(元康殿は今も戦場か。)」

松平元信は二年前の初陣の後、名を元康と改めた。氏真はこの4歳年下の若者に何を感じていたのであろうか。彼はもはや、今川家一門の者といえども松平家の当主である。ここ数年で戦による功績も立てていた。それに比べて氏真はまだ戦にも出たことはなかった。

「(私はいつまでも五郎のままか。)」

寿桂尼の屋敷で一人、鞠を蹴っている。寿桂尼も含め屋敷の者たちは今日は京都から来た公家たちの接待で遊山に出かけている。近頃、ときおり氏真は兵法を学びなおすことがあった。誰もいない夜更けに刀槍を持って一人で振っていた。それは、まだ戦場に出たこともない氏真にとっての単なるままごとか慰み事であったのかもしれない。氏真にもどこか武士としての意思のようなものがあったのかと思われる。しかし、表立ってそのような兵法まがいのことを見られるのは恥ずかしく屋敷の者には内緒にしていた。妻の早川殿にも黙っていた。妻を信頼していないわけではなかったが、妻とは和歌などをいっしょに楽しみたかった。武芸事と早川殿とは別けて存在させておきたかった。

「おっと。」

ずっと宙を飛んでいた鞠が地面に落ちた。

「(そろそろ戻るか。)」

氏真が落ちた鞠を拾おうとしたとき、足音が近づいて来た。

「若殿…。大変にござりまする。」

今川屋敷の者であった。

 屋敷に戻ると留守を預かっていた老臣たちがこぞって集まっていた。氏真が来ると皆、氏真の顔を見た。

「父上が討ち死になされたというのは実か。」

氏真はそう聞いていた。

「恐れながら…。」

老臣の一人が口を開いた。老臣の話によると、義元は去る19日、尾張の桶狭間にて尾張の織田信長の攻撃を受けて戦死したという。

「(父が死んだ…。)」

氏真23歳。突然のことであった。氏真は雪斎が亡くなったときのことを思い出した。棺に横たわり動かない亡骸。父義元もあのような姿になってしまったのであろうか。数日して、敗残兵たちが戻って来た。従軍した重臣たちによれば、義元戦死の報は真実であると確信した。期せずして氏真は今川家の当主となった。当主となった氏真に初めて訪れた決断、それは義元の仇討ちであった。重臣たちの中には、再び兵を集めて尾張に押し寄せ織田家を壊滅せしとする者もいた。そのような者は、氏真に戦いを迫った。

「三河の小せがれが裏切った。」

決断の場で家臣たちからそんな話を聞いた。義元戦死を知ると、松平元康はそのまま家臣を引き連れて岡崎城へ入ったらしいという。元康はそのまま岡崎城で今川家の味方として織田に抵抗するのか、それとも今川家の敵となるのかどうかは今のところでは分からなかった。

「(あの若者がか…。)」

今川家から離れた元康は、今、独立した松平家の当主として存在する。そして、義元の戦死で家督を相続した氏真もまた今川家の当主として存在する。お互いはこのとき初めて同じ地平に立ったのだと思った。

「(元康はどう決断を下すのだろうか…。)」

氏真は右手の甲を自らの唇に当てた。それが彼の思案しているときのしぐさであった。

「(あの者がどう決断を下すのか、まずはそれを見てみたい。)」

戦をするかどうかはその後であると氏真はそう思った。

「まずは葬儀だ。」

氏真は皆にそう言い放つと席を立った。奇しくも氏真のこの決断は元康に今川家から独立する猶予を与えた。翌、永禄4年。松平家は織田家と和睦。その翌年には織田家と同盟を結び、さらに翌年、清洲城で信長と会見し、信長の娘と元康の子との婚姻を決める。そして、彼は今川義元からもらった一字を捨てて名を徳川家康と改める。

この小説はフィクションです。

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