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さよならにはまだ早い  作者: 岩本ヒロキ
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第1話

 目が覚めた時には、先輩の姿はなかった。


 昨日は僕らが部署に配属されて三ヶ月がたった金曜の夜だった。無事に研修期間も終え、その打ち上げの帰り道、先輩が「二人で飲みに行かないか」といきなり誘ってきたのである。男としては期待しないでもないが、なんのせ先輩である。いつもの慰労会という定期的な飲み会ですら一杯目から日本酒を頼む先輩に何が期待できるだろうか。


 "同い年の上司"については正直、最初は戸惑った。会社に入って最初のオリエンテーションで僕の指導員として紹介されたのは、一つ間違えれば折れてしまいそうな、そんな女性だった。僕の指導は本来ならば城崎さんという先輩と同期の男性がする予定だったそうだ。その頃の先輩は辞表をなかなか受理してもらえず渋々仕事をしていたそうだが、そんな中で城崎さんが僕の指導を先輩に押し付けるような形で会社に留まらせたのである。


 先輩は優しかった。けれど、よく悲しそうに笑った。

何もない時間、ぼうっと空を眺めつづけている事が多かった。そんな先輩の横顔を何も言えずに眺めていた。


 仕事終わりの先輩の帰宅列車を待つ間に飲む缶コーヒーが日課で、その時間だけ、仕事以外の話をした。僕自身もいつの間にかその時間が楽しみになっていた。

 そのたわいも無い会話の中で知り得た話。先輩の地元は、僕の母方の祖母と同じだった。実は家も近く、一度会ったこともあった。

 あれは高校2年の春だった。母方の祖母が用水路に足を踏み外し腕を怪我したという連絡があったのだ。最初は驚いた親族中が実家に集まったものだ。怪我が大したことないということが分かるとその時は、一人娘である母が実家に帰りしばらくは入退院の世話、退院後は月に一度実家に帰り様子を見るような生活を続けていたような気がする。当時の母は「暇なら冬至が行ってきてくれない?」と言っていたが、その町は娯楽施設やショッピングセンターも無く、遊びたい盛りの男子高校生が進んで行きたがるような町ではなかった。ただ、川だけが静かに流れていた。結局その数年後、祖母は検査入院の末に病気が見つかり、3年ほどで亡くなった。会いに行く事もなく、祖母の顔を見たのは葬儀だった。

 その際に一度だけ、春休みの終わる間際に一人で祖母の家に訪れたことがあった。暇で仕方がなくずっと祖母の家でゴロゴロと過ごしていた、その記憶の片隅に同い歳くらいの若い女の子が祖母の家を訪れていたことを思い出した。それが、10年後に出会う先輩だったのだ。


「敷島君。来週からは私の仕事引継ぐから。充分教えたし、もう大丈夫だよね?」

 居酒屋を出でどのくらい歩いただろう。真っ黒な長い髪を夜風に流しながら先輩は言った。

「急に、ですか。」

「うん。言えなくてごめんね。やっと辞表受け取ってもらえたの。」

 立ち止まる僕の足音が聞こえたのか、少し前を歩く先輩が立ち止まり振り返る。

「悲しい顔しないで!念願叶って辞めるんだから。今日は私の新しい門出と、敷島君の独り立ち記念の飲み会だよ。さ!次はどうかな?今日はまだ、こんな先輩に付き合ってくれる?」

 悲しそうに笑う先輩を見て、僕は思わず今まで僕らの間にあった距離を詰めるように、その数歩を駆け抜けた。

「敷島君?」

 酔った勢いだろう。きっと明日には僕も先輩も。いつものように忘れるだろう。そして、何もなかったかのように1日1日が移ろいで行くはずだ。

 僕の腕の中に小さくおさまる先輩は、僕と初めて会った時よりも幾分も小さく感じた。

「先輩、仕事辞めてどうするんですか。」

 先輩の両腕が僕の背中に回されるのを感じる。今日は珍しく先輩も酔っているのだろうか。


「もう一度、会いたい人がいるの。」




 お酒の強い先輩に合わせたからだろう。目が覚めた時には、あれからの記憶がなく、自分の部屋の玄関先のマットの上で着慣れたスーツのままで寝ていた。手には充電の切れた携帯電話と、金色の鎖が巻きついていた。

よくよく見るとそれは、先輩がいつも着けていた水色の星型のネックレスだった。


 飲み会の時はいつも羽目を外しがちな僕を城崎さんを始め同期や色んな人が家まで介抱してくれた。きっと昨日も僕よりもお酒の強い先輩がここまで連れて来てくれたに違いない。手の中におさまるネックレスを見つめ、昨日の先輩を思い出す。次に会えるきっかけが出来たと内心で小躍りしながら二日酔いの身体で部屋に入り、携帯電話を枕元にある充電器に刺した。

 スーツの上着をハンガーにかけ、台所に水を取りに行くなり突然携帯電話が鳴り出す。一瞬何が起こったか分からず水の入ったコップを片手に立ち尽くす。電話の呼び出し音だと気付いた時には、音は止まっていた。無くなったネックレスの件で先輩がお怒りなんだと心を落ち着け、謝罪文を頭に書き連ねる。この気持ち悪さは二日酔いなのか罪悪感なのか。


 急いで部屋に戻り、枕元にある携帯電話を手にする。着信が18件。あまりにも多すぎる。けれど、驚かされたのは件数だけではない。その履歴がほとんど城崎さんからなのだ。当の先輩からは1件もない。

城崎さんに電話を返す。コール音がしないうちにいきなり城崎さんの声が始まった。

「やっと繋がった!敷島、今まで何してた!今、お前のアパート下なんだが、山脇が遺書残していなくなった。何か知らないか?最後に一緒にいたの、お前じゃないのか?」


 全く状況が分からなかった。部屋の中を見回す。どう見たって僕しかいない。

机の上に置かれた先輩のネックレスが目につく。拾い上げもう一度手に巻きつける。決して鎖が切れたわけではなさそうだ。先輩が意図的に渡した?僕は、このネックレスを先輩が外しているのを一度だって見たことはなかった。何か意味があるのかもしれない。気がつくと僕は部屋を飛び出していた。

先輩が意図的に僕の手の中に握らせたそのネックレス。その心当たりはない。けれど無我夢中だった。まだ伝えきれない事が沢山ある。今までの御礼も言えてない。あんなに悲しそうに笑う先輩を守りたいと思った、なんて、僕の稚拙な久しぶりの感情だって。


 記憶の最後の先輩の言葉が蘇る。

『会いたい人がいるの』

誰に会いたかった?そいつに会いに行ったのか?そいつは誰だ?知りたい…


 アパートのエントランスから道へ飛び出した僕は、道路の向こう側に立つ城崎さんに駆け寄ろうとした。無我夢中になりすぎていた。


 右から来ていた車に気付けなかった。




 目が覚めると僕は、オレンジ色の光の中にいた。身体中が痛い。

 やっとの思いで身体を動かす。案外簡単に仰向けになった僕の目の前に広がるのは見慣れた天井だった。戻ってきた思考回路でここが何処かを必死に考える。上半身を起き上がらせ周りを見渡すとそこは、夕日が差す祖母の家の居間だった。

「冬至、ただいまぁ。今からご飯するねぇ」

 居間の隣の玄関から聞き慣れた声が聞こえる。あれは忘れもしない、僕が19歳の時に突然の病で亡くなった祖母の声だ。その足音が部屋の前を通り過ぎ、家の奥へと遠退いていった。一体どうなっているのか、混乱の最中、玄関のチャイムの音で我に帰る。

「冬至、悪いけど出てくれない?」

 遠くから聞こえる祖母の声に襖を開け玄関に立ち、やっとその疑問点に気付く。なぜ亡くなったはずの祖母がいるのか、事故に遭ったはずの自分がなぜ無傷でここにいるのか。もし、ありえない答えが合致してしまうなら、このドアの向こうにいるのは。まさかとは思い、玄関先に立つ人影が鍵のかかっていない引き戸を開けるのを見つめた。

「鈴子さーん!ヒナだよー!怪我どうー?」


 ほんの数時間前まで一緒にいたではないか。あんなに一緒にいて、今更気付けないなんて事はない。靴下のまま玄関を走り、扉に手をかけこちらを不思議そうに見つめる彼女を抱き寄せ、その長い髪に顔を埋める。僕の腕の中で驚いた様子で微動だにしない10年前の先輩からは数時間前と同じ匂いがした。

「冬至が行ってくれたらいいのに」そう行った母の言葉を思い出す。そうか、これはあの時の自分が選ばなかった"もう1つの選択肢だった人生"だということなのかと。


 後ろからドタドタと玄関に祖母が走ってくる音に我に返る。

 腕の中にいた10年前の先輩を解放し、小さく「ごめん」とつぶやいた。数回瞬きをし、こちらを見つめるその目から目線を外し玄関を上がり、すぐ隣の昔母が使っていたという自室へと引きこもった。


「ヒナちゃん、わざわざ悪いねぇ。そういえば、ヒナちゃんも今年から高校2年生やったねぇ。明日からうちの孫がヒナちゃんと同じ高校転校して来てくれることになってねぇ。冬至って言うんよ。お願いねぇ。ばぁちゃんの事心配してこっちに来てくれたんやわぁ。頼むわぁ」

 襖を挟んで祖母たちの会話が聞こえる。

「冬至君て、お孫さんの?だよね??埼玉から来てくれたんや!良かったねぇ!」

 こっちこっちと小声で祖母が襖の向こうから何かを指示するのが聞こえる。身構えた途端、いきなり襖があいた。

「冬至君、明日からよろしくね!私、山脇ヒナ。分からないことあったらいつでも聞いてね!」


「ごめんねぇ。ばぁちゃんが転んだばっかりに。転校なんて、嫌やったやろうに。」

「大丈夫。ばぁちゃんこそ。気ぃつけてな。」

 当時の祖母への、最期まで会いに来なかった罪悪感からか、必要以上に会話が出来ない。10年前はどんな会話をしていただろう。ここに母がいてくれたのならば、もっと会話に花を咲かせる事が出来たかもしれない。ヒナちゃんが帰った後の祖母の家は、驚くほど静かに感じた。あの時、母じゃなく僕が祖母の家に来ていたら…どうしていきなり祖母が生きていた時代に来たのだろう。祖母への罪悪感?謝罪?罪滅ぼし?先程までの記憶は鮮明にも覚えている。

そうだ、あの時僕の身体は車に激しくぶつかった。それから何が起きた。


 なぜこの時間にいるのだろう。




「埼玉県から来ました、敷島冬至です。よろしくお願いします」

 翌日、言われるがままに登校した高校。案内された教室は30人もいるかいないかのクラスだった。3階建の校舎は自分が昔通っていた高校とは違い静かで何もなかった。良い意味でも悪い意味でも。ここに先輩は通っていたのか。軽い自己紹介を終え、先生に後ろの席に座るよう促される。とりあえず、廊下側の空席へと座った。

いきなり前のヤツが振り向いて何かを言おうとする、が、声が小さくて聞こえない。身を乗り出して話しかけた。

「え。ゴメン。今なんて、、、」

 突然、真後ろのドアが立て付けの悪い音を立てて開いた。思わず振り返る。目を丸くした背の高い眼鏡をかけた男子生徒が不思議そうにこちらを覗き込む。

「ここ、僕の席なんだけど…君はどちらさまかな?」

 彼の不思議そうな顔は一瞬で消え去り、ニコニコと笑いながら僕に話しかけてきた。その人懐っこい彼に先生からの野次が飛ぶ。

「渡辺ぇ。転校生や!敷島すまんが、その隣使ってくれ。渡辺は後で職員室な!!」

 席を代わり、ジェスチャーで渡辺君に「ごめん」を伝える。すると、寝癖のついた長い髪と眼鏡で顔の半分は隠れてはいたが、それでも分かるほどの笑顔で渡辺君は笑い返してくれた。


「柊也は遅刻常習犯なの。いつもは昼前からしか来ないから、今日は早い方かな?」

 同じクラスになったヒナちゃんが次の休み時間にそう説明してくれた。ヒナちゃんには家が近所という事もあり、校内や身の回りのことを事細かに教えてくれていた。昔も今も、僕の面倒を見てくれるのは相変わらずだ。けれど、その笑顔からは僕の知る、あの寂し気は感じられなかった。

「冬至君って部活って入る?前の学校では何してたの?」

「前の学校では吹奏楽してたよ。サックス吹いてた。」

 嬉しそうな顔をするヒナちゃん、僕は知っている。10年後の先輩が僕にそう語ったのだ。自分も同じ吹奏楽部だったという事を。けれど、先輩は吹奏楽部の話をすることを極端に嫌がった。何か嫌な思い出があったんだろうと思い、特に掘り下げて聞くとこはなかった。

 すると、ヒナちゃんは最初に僕が席を間違えた時に話しかけて来た渡辺君の前の席の男子生徒を引っ張って来た。

「同じ吹奏楽部なの!横野秋月!バリトンサックスだから!秋月良かったね、男の子だよ!」

 ヒナちゃんが連れてきた彼は先ほどの渡辺君と同じかそれよりも背が高く、さっきは緊張もあってか気付かなかったが、驚くほどに顔が整っている。まるで雑誌かテレビから出てきた芸能人のようだった。

「こいつが無理矢理すまん。吹奏楽部、来れる?無理はしなくていいよ。」

 静かに話す横野の隣で膨れっ面になるヒナちゃんを他所に、横野は続ける。

「良かったら、俺ら新聞部もやってるから、そっちはどうだ?」


 その昼休み、ヒナちゃんと横野がPCパソコン教室に連れて来てくれた。自分たちの教室から隣に2つほど移動したその場所は春先にも関わらず日の当たらない、やけにひんやりとしていた。ドアを開けると20台ほどのパソコンが並び、中央付近ですでに3人の生徒が二台のパソコンを挟み何やら議論をしていた。うちの一人がゴアの音に気付き、立ち上がりこちらに声をかけてきた。

「敷島君だよね?ヒナ達が悪いな。登校初日からいきなり連れて来て。俺は部長の原田だ。部員全員同じクラスなんだけど、名前分かるか?」

 そう挨拶を始めた彼は、僕の3つ前の席の人だ。彼の隣に座るのは、今朝遅刻して職員室に呼ばれた渡辺君。ひらひらと僕に向かって手を振っていた。その隣の肩下までの髪の女の子は初見だった。

「森岡春奈です。よろしくね。」

 軽くお辞儀をしてくれた森岡さんの横にヒナちゃんが腰を下ろす。


「秋月、喉乾いたぁ…」

 ヒナちゃんのつぶやきを合図に始まったじゃんけん大会に敗北した横野と渡辺君が二人して全員分の飲み物の買い出しに行かされている間に原田が新聞部の説明をしてくれた。

「ヒナと秋月は部活掛け持ちな。俺と森岡はここだけ。柊也は、、まぁ、なかなか学校来ないからな。ここが丁度いいんだろう」

 彼らが触るパソコンの画面に映るのは、僕が昨日の夜も、10年後にも何度も見ていたこの学校のホームページだった。彼らの作業はこのホームページの更新だという。先輩もよく新聞部の話をしてくれていた。

 森岡さんと楽しそうにもう1つのパソコンの画面を覗き込むヒナちゃんの横顔に安堵感を感じながら、原田の話を聞き続ける。

「記事とか作成する時は、文字数制限があるから、みんな誰の投稿か分かるように語尾に一文字だけ入れてる。森岡なら春奈で(椿)、柊也は(柊)、秋月は(楸)だ。俺は…下の名前夏樹って言うんだ(榎)な。ヒナは、(雛)なんだがあんまり投稿はしてないかな。あいつ生徒会もやってるし。面白いだろ?春夏秋冬揃えたんだ!季節勘違いされるっていうので途中から木偏つけてさ。まぁ、秋月がなかなか入ってくれなくてさぁ。苦労したもんだ。」


 いちごみるくを片手に嬉しそうに戻ってきた渡辺君から高校生の僕にはまだ苦いコーヒー牛乳を受け取った。

「ヒナはこれで良かったんだよね?」

 と、ヒナちゃんにアイスティーを渡す渡辺君の顔は、今の僕にでも分かるほど慈愛に満ちていた。愛しいものを見るような、大切にするような目だ。笑顔でアイスティーを受け取るヒナちゃんを見つめる。


 その時僕は察した。

彼女が最後に言った言葉を。『会いたい人がいるの』と。

僕は、その人を知りたいと願った。もしあの時、僕が死んでいたのだとしたら。それは、僕の最期の願いだったのかもしれない。


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