第8話 友梨
ある夜、父からラインの電話が掛かってきた。
サイクロンの影響で飛行機が飛ばないという。
「お前、今から家に帰って、届いているはずの資料を大学の研究室に届けてくれないか」
「分かった。家に着いたらこちらからかけ直します」
「気を付けてな」
この頃、陽介はまだ移動の手段を持っていなかった。
世間では『真夜中』といわれる時間で、勿論公共交通機関も無い。
友人に話してバイクを借りた。
古いBMW。
チェーンではないシャフトドライブの、コーナーや段差で癖のでるバイクだ。
気の良い友達は、メットのほかにライダージャケットも貸してくれた。
「このジャケットは胸と脊椎を守るプロテクターが入ってるから、絶対脱ぐな」
一緒に駐車場まで来てサイドトランクを開けて見せた。
取りだしたのは彼女用のメットの横にあった二リットル入る金属製のボトルだ。
「飲むなよ。中身は非常用の予備ガソリンだから」
笑ってエンジンを掛け、燃料計を見る。
「やっぱりな。予備タンクに切り替えてもここまで帰りつかないぞ。帰りは必ず松本でガスチャージしてから高速に入れ。これを使うのは最後の手段」
「分かった」
「カード入れておくから管理を宜しく」そう言ってETCカードも差し込んでくれた。
二人は握った拳でフィスト バンプをして、陽介は中央道に向かった。
「初めて見た彼女の美しさは神秘的だった」
夜中の暗い研究室は、静謐な空気に充たされていた。
闇の黒と、銀色の光のコントラストが白衣を着た一人の女性を浮かび上がらせていた。
女性は、息づかいも無く、天を仰いで静止していた。
空気の流れも、取り巻く時間さえも止まっているように感じられる空間は、どんな小さな音も波紋となり、波一つ無い滑らかな静寂を壊しそうな気がして、陽介は凍り付いたように、ガラス窓の外からただ見つめ続けた。
美しいと思った。
多分、神の腕を持つ彫刻家であろうとも、この唇、この頬と目鼻の醸す儚さを残すことはできないだろうと思ったとき、無意識にスマホを取りだしカメラを起動していた。
やがて、魂を天使に撫でられたような不思議な笑みを浮かべて、女性は音も無く崩れ落ちた……。
床に伏した女性を見てなお、近寄ることさえ出来ずに佇んでいたのは、倒れた身体が描く余りに美しい曲線のせいだった。
それは、月に一度訪れる、エクスタシーを感じたときの彼女の聖域なんだと、あとから彼女に教えて貰った。
「『変性意識状態』いわゆるトランス状態だ」
「それで陽にいは彼女が好きになった?」
「そう。何を美しいと感じるかは人それぞれだが、僕は女性美の究極はエロティシズムだと思ってる。エクスタシーやオーガズムを感じているときはとくにそうだ。そのときは彼女の表情が何から来ているのか知らなかったが、その美しさをずっと見ていたくて彼女に関わりたいと思った」
陽介は、友梨を抱き起こして父からの資料を渡すより先に、交際を申し込んだ。
「あなたを見続けさせてほしい。邪魔にならない。拘束したり甘えたりはしない。でもあなたが望むことは全て叶えるから僕を近くに置かないか」 そんな意味のことを言った。
「それで?」
「彼女は『ありがとう』って微笑んだ」
「私を知っているの」
「いや、今、初めて見た。一目惚れだ」
「それは素敵ね。じゃあ帰りに食事をしましょう。あなたのことを教えて」
そう言ってくれた。朝早い喫茶店で、お互いのことを話して、付き合い方やルールをそのときに決めた。
「あなたのバイク随分大きいのね」
コーヒーを飲みながら彼女が言った。
「いや、僕のじゃないんだ。親父がいきなり無茶を言うんで友人に借りてきた」
「えー。じゃあ、あなた先生の息子さん?」
「まあ……そうなんだけど」
彼女――友梨は笑いながら、「それでさっき小田陽介って聞いたとき、普通に馴染んだのかあ」
ケラケラと笑い続けて
「なんだ、なんだ。そうだったのか。てっきり学生がバイク便のバイトやってる人かと思ってた」
そして突然沈黙した。一分ほど瞑想した後、「あなたが話してくれたあなたのことを、あなたの実態と融合させた。だからあなたは間違いなく、私の知っている小田陽介になった」
そう言って涙を滲ませた。
「あなたを待っていた……でも……やばい。私、本気で好きになりかけてる」
友梨は「意識を遮断する」と言った。
「私、今、あなたを好きになるのを途中で止めてるの。その訳はね、私とても大きな持病を抱えているから。だからやめるなら今のうち。友達なんて駄目、そんなもの面倒くさいだけ。どうする?」
陽介は友梨を見続けたまま、
「分かった」と言った。
「僕はもうあなたへの好きが止まらない。だから、あなたの持病に僕も付き合わせてくれ。出来ることはやるから」
「本当?じゃあ大学やめて、私の傍にいてくれる?」
陽介は声を出して笑い、
「それは噓だね。あなたは一人でいる時間を多く持たないとストレスが溜まる筈だ」
「見抜かれたか」
友梨は小さく舌を出して肩をすくめた。
「あなた獣医より人間の医者になった方がいいよ。でも――陽介――陽ちゃんとなら一緒にいても大丈夫かなって、少し思った」
「かなっ?て試しで人に学校やめさせんなよ」
「ふふっ。それでこれが最後の約束。恋人関係をやめたいって言ったらすっぱりと関係を断つこと。これはあなたの権利でもあるから、そのときになって傷つかないように自分で感情をコントロールして欲しいのだけど、いいかしら」
「OKって言った途端に、『別れて』って言うのは無しな。だったら、わかった。全てオッケイだ」
「陽ちゃん、大人だね」
「いや。これでも内心かなり嬉しいものがありまして、宝物を手に入れたみたいにワクワクしてる。しかもこの宝には『持病』という曇った部分があるので、これを磨く楽しみさえついてる」
「持病を輝かせては駄目でしょう」
「あっそうか。曇ったものは磨きたくなるんだ。取り除くと言い直そう」
二人は笑い、友梨は唐突に「海に行こう」と言った。
プロテクターの入ったジャケットを友梨に着せて、スカートのままの友梨を乗せて日本海に向かった。
初めてのキスは出会って三時間後の初めて二人で行った海だった。
直江津の海で、ビキニの水着と変わらないデザインの黒い下着で泳いでいた友梨は「陽ちゃん。私溺れているから助けに来て」
そう言って助けに来た陽介にしがみつき、キスをした。
「みつきはリビドーって知ってるか」
「リビドウですか?さあ。知りません」
「一般的に女性は受動的で、男性は能動的だ。それは男性因子の中に、リビドウという暴力的な性衝動が含まれているせいだと言われている。
「暴力的な性衝動って、女性を暴行するとか?」
「実はその側面が否定出来ない。だけど人は理性の力でリビドーの衝動を、変化に富んだ性のバリエーションに変えることができる」
「……」
他にも芸術や科学にも指向して、文化を高めるし、人としての活動の根源になるとも言われている」
「じゃあ女性に芸術家が少ないのは、女性にリビドーが無いから?」
「そこまでは知らないけど、あり得るかもな。多分、それは精神科医の分野だ。今は友梨の話だけど、彼女にはそのリビドウを誘発する何かがあり、それが一人の時、エクスタシーを求めてトランス状態になる。
海から帰り、友梨のマンションでシャワーを浴びた。
友梨も入ってきてボディソープを塗りあいした。
陽介が唇を近づけると友梨は陽介を擽り、ふざけるので、その両手を背中にねじ上げた。 すると友梨は目を瞑り全体重を陽介に預けて呟いた。
「虐めて……殺して」
二人は愛し合い、恋人同士になった。
「あ……羨ましい。なんだか顔が熱くなってきたわ」
「羨ましがることなんか何も無いだろう。みつきにも美月の美しさがあるんだから。それが引き出されるのは時間の問題だ」
「それが陽にいで、今回でもいいわけですけど」