避暑地へ
「じゃあ、僕たちのことを面白がって聞いてる訳ではない?」
「違います。すごくまじめ。それでお願いがあります」
陽介の腕を掴んだまま、唇が触れそうな距離で向き合うと、美月はささやいた。
「陽にいがここにいる間、私を陽にいの恋人にしてください」
大学が夏期休暇に入って三日目の朝。
小田陽介は岐阜キャンパスの研究センターから愛車のロードスターで、松本市郊外のマンションに帰ってきた。
全ての窓とドアを開けて、空気を入れ換える。
朝の清冽な空気が、三週間前の淀んだ室内の空気を窓から玄関の外へと追い払った。
十二階、南東の角部屋。この階は三室だけなので、開け放ったままのドアの前を通る人はいない。
父の位牌に手を合わせ挨拶を済ませると、寮から持ち帰った衣類と着ていた服を、全自動の洗濯機に放り込みシャワーを浴びる。
アラームを五時間後にセットして、裸のままベッドに倒れ込んだ。
昨日の朝目覚めてから二十三時間寝ていないが、五時間熟睡すれば今日は持つ。
ブザーの音で目覚め、まだ乾燥機の熱がこもる衣類とともに、旅行用のアメニティセット、剣道防具の新しい面紐、ノートパソコン二台を、遠征用防具バッグから防具を出して、入れ替えた。
戸締まりをして、再び地下駐車場に降りると、ロードスターの横に停めてある車のカバーをめくり、現れたジャガーEタイプ・コンバーチブルの助手席にバッグを載せる。
Eタイプのエンジンをかけ、アイドリングが安定する間に幌をたたみオープンにする。
二台の車を入れ替え、カバーを今度はロードスターに被せた。
スマホのアプリでナビを起動して、母から送られてきた住所をインプットすると、ジャガーのパネルに固定する。
父の大介は、この車にナビを付けることを許さなかった。
大介は純粋に『走る』ためだけに、この《《車を走らせて》》いた。
『この車は道や目的地を捜しながら走る車じゃない』と、『オリジナルを保つ』が彼の信念だったからだ。
カーオーディオのラジオでさえも、ロバーツとかいうイギリスの骨董品が取り付けられているが、勿論放送を聞くためなんかではない。
ただし、トランクキャリアだけは後付けで邪魔なのに、その信念と同じ情熱をもって、外させなかった。
諏訪湖東岸から二十号線を南に向かい茅野市に入る。
茅野から佐久穂町に至るドライブコースは、メルヘン街道と名付けられた、カーブの多い山道だ。
陽介は長野自動車道とこの道を、ジャガーのコンディション維持のために月に一、二度走らせているから、道は良く知っている。
蓼科湖を過ぎてしばらく走ると、見逃しそうな小さな交差点の手前で、ナビが右折の指示をした。
ナビはこの分岐を見つけるためにだけセットしておいた。
『トーブ・リゾート』と書かれた標識の矢印に従い、林の中に車を進めると、道はロータリーになり、舗装はそこで終わっている。
ナビが、目的地付近だと告げて案内を放棄した。
ロータリーから伸びている四本の道には、それぞれに標識がついているが、どの道もその先は林の中で、建物は見えない。
陽介は母からの手紙を確認し、『T』とだけ書かれた一本目の道に車を進めた。
ゆるやかに湾曲した道の末に現れた建物は、チューリッヒの写真にあるような、白い壁に木をクロスさせた、瀟洒な造りの二階建てで、そのままペンションにでもなりそうな佇まいをしていた。
陽介は車を停めて、しばらく建物を見つめた。
ここに、面影も忘れてしまった母と、存在すらも知らなかった妹がいる。
そしてここを支配する男は、嘗ては父の親友だった。