プロローグ
今日、僕はまだ目覚めていない。
「じゃあ誰がこれを書いてかいているんだ」
小田陽介は、引き継ぎのログに書いた自分の文章を見て、一人で笑い声を上げた。
今日から七日間、ゼミから抜け出すために、昨夜から一睡もせずに二つのレポートをまとめた。
寝ていないのだから目覚めがないのは当然で、文章はおかしいけど間違いではない。
間違いではないが混乱するだろう。これでは出動を待つ戦闘ロボットだ。
交代に来る後輩に当てた引き継ぎの注意書きに、かの名作『朝、目覚めたら……』という書き出しで、観察中の被験体の急変を伝えたら、さぞインパクトがあるだろうに……と、症状の変化しない検体を見ながらこんな書き出しで遊んでみた。
もっとも、目覚めて急変に驚いていたら、何のために徹夜で観察をしていたのか分からない。その場合、陽介は轟々たる非難を受けることになる。例えクスリが効いて検体のウサギが回復したとしてもだ。
『だから松本に帰って寝る。今後七日、小田はこの世から消えるノダ』そう、蛇足を付け足して、ログを閉じた。
微かに駐輪する音が聞こえた。続いて搬入扉が開閉する気配がして、足音が遠ざかる。
初年兵の亜樹が来て、引き継ぎの前にトイレに行ったのだと判る。
午前三時五分。空は第一黎明が始まろうとしていた。
引き継ぎを終えた陽介は静かに車のアクセルを踏み、松本のマンションに向かう。
そもそも大学が夏期休暇中という、様々な些事を処理するのに最も適したこの時期に、日常を押しのけた白紙の時間を確保しようと陽介が決意したのは、父と離婚した母から来た手紙のせいでもある。
『あなたの将来に影響するとても大事な話がある』
『お父様が亡くなられたけれど、あなたは一人ではありません。あなたには、もうすぐ18歳になるとてもかわいくて素敵な妹がいることを知っておいてほしいし、誕生日を祝ってあげてほしい』
『私達は家族です。涼しい避暑地で、少しでもリラックスされては如何ですか。高木もあなたとお話がしたいみたいですよ』など、など。
高木とあるのは、父と離婚した母が、後妻で嫁いだ父の古くからの友人のことだ。
今時手紙という、逆に新鮮さを感じるアイテムを使い、内容も興味のある誘い文句で埋められていたが、会うことを決めた理由の一つは、恋人の友梨がどうしても研究室を抜けられない期間が五日間あったからだ。
それに合わせて調整すれば、とても有効かつ、うまい時間の活用が可能だと思われた。
つまり、母が招待してくれた別荘に五日間。友梨とのデートを二日。後は論文の準備と剣道部の後輩の指導に粉骨砕身努力して夏を過ごす。
「完璧だ」陽介は自画自賛する。
別荘に行く理由がもう一つあった。
六月末の土曜日に、父が生前からお世話になっていた弁護士の吉本先生から電話があった。
話の内容は、父の特許が、ある石油会社からアクセスされ、その背景に高木の存在が見え隠れする。というものだ。
そのことと、母が高木に逢わせたがっている事が、陽介には無関係とは思えなかったのだ。