異界の信仰
辺り一帯を濃密な森の匂いが漂っている。
雨上がりの湿気を差し引いても飽き飽きするほどだが、臓物で生臭いよりは遥かにマシだろう。
私は口の中の気持ち悪さをなんとかできないかと、空気を入れ替えるようにふぅと口から息を吹いた。
「スズナ、早くしないと鼻のいい奴がやってくるわよ。」
「わかってる。けど、この量を集めるのは大変だよ……。」
大樹をひとまずの住み処と定めた私達は、ストームバードの死骸を回収していた。
食べるためではない、捨てるためだ。
血肉の匂いは周囲から危険な生物を引き寄せる。早めに回収し、遠くに捨てる必要があった。
私は矢を受けて胴体の半分が吹き飛んだ死骸を拾い上げる。
ぽたぽたと血と雨水が混じった液体が滴るのを見て、ぼんやりと事を考える。
この世界に来る前は、こんな物を触ることなど出来なかっただろう。生まれが田舎だったので無毒な蛇くらいなら触れたのだが、もがれた鳥の翼なんか触れるほどの胆力はなかった。
それが今は平気な顔で持ち上げ、あまつさえ人を食ったかもしれない生き物の内蔵を生で食らっている。
怪物を殺し、殺されそうになった事で感覚が麻痺したか。それとも、これが順応というやつなのだろうか。
今日何度目とも知れぬため息をはく。腹から鼻腔を抜ける血生臭さに、もう吐き気などは感じない。慣れてしまった。
それが逆に私の神経を逆撫でする。
血の滴る内蔵を食べて、漂う生臭さに不快感を感じないなんて……異常ではないか?それこそ、この森に住まう魔物と何が違うと言うのか。
もしかして私は気が狂っているのだろうか。この森の瘴気にあてられて……人間としての矜持を失いつつあるのではないのだろうか。私は、今も胸を張って人間だと言えるのだろうか。
自己の喪失……それがたまらなく怖い。
「スズナ?」
「っ……!ご、ごめん。ぼうっとしてた。」
いつの間にか、レナが目の前に来ていた。
その両腕と袖から覗くクモの脚で、大量に死骸を抱え込んでいる。
ふと、蜘蛛人とは人間と言えるのか気になった。彼女は人食い鳥の内蔵を悩む様子も見せず食べてしまった。例えそれが常識で許されていたのだとしても、私には考えられない。
それは私の中の人間像からあまりにも離れすぎている。
もしかして、理性でどう考えようが、私は心の中でレナの事を――――。
「ちょっと、大丈夫?まだ体調が良くないかしら?」
「い、いや!大丈夫だよ!ごめんなさい、考え事をしてたの」
「急いだ方が良いわ。考え事は後からでもできるから」
―――よそう。もうこの事は考えない方が良い。彼女は蜘蛛人。れっきとした、人間だ。
レナは踵を返し、少し離れた茂みに死骸がかかっていないか確かめに行ってしまった。もしかしたら、私の不安定な精神事情を察したのかもしれない。
「……早く、集めなくちゃ……。」
気を逸らす為にあえて声にだし、本来の目標を思い出す。
泥に濡れていたはずの死骸だが、拾い上げて見ればその羽は水を弾き落とし湿ってすらいない。
随分と耐水性があるようだ。自分達で嵐を呼ぶのだから、当然かもしれないが。
私は何枚か風切り羽を抜き取ってみる。
抵抗なく抜けたそれらは太陽に透かせば美しく煌めき、間違いなく装飾品として一定の価値がある事を示していた。
何となく、集めたい衝動にかられた。無意識的な現実逃避と言ってもいいだろう。
私は死骸を拾ってはそのついでに綺麗な羽を選んで何枚も抜き、置場に困り自分の袖の中に放り込んでいった。
ぼたぼたと河に死骸を投げ捨てる。
早い流れは死骸が停滞する事を許さず、ぐいぐいと押し流していく。
幸いにもあちこちから死骸が浮かび上がり地獄絵図、なんて事にはならなさそうだ。
全ての死骸を捨て、少し上流へ登って汚れた手を洗う。
レナが手首を振り、水を落として立ち上りながら言った。
「……よし。ひとまず、これで臭いはこれ以上酷くならないはずよ。」
「死骸って、そのまま流していいの?」
「流して大丈夫よ、どうせ下流には誰もいないわ。」
「分かった。ついでに服も洗わない?大分汚れちゃって。」
「そうね。火を起こすから、少し待ってて。」
準備を整え、そのまま服を洗い汚れと臭いを落とす。
レナは汚れた防具を、私は白衣を河の水に浸し汚れを落とす。
ゴブリンに開けられた白衣の穴をこれ以上拡げないよう、十分注意する。
「ほら、これ使って!」
「うわっ!ちょ、急に投げてきたらびっくりするから!……なにこれ?」
白い布地なのでなかなか汚れが落ちずに四苦八苦していた私を見かねてか、レナが何か投げて寄越す。
危うく取り落としかけたがなんとか手に収まったそれは、透明感のある緑色の物体だった。
爪をたてれば食い込むほどの軟かさで大きさは手の平ほど。僅かにライムのような香りがする。
使い方に困ってレナの方を見れば自身の防具、特に血に汚れている部分を水にさらしながら渡しされた物と同じ緑色の物体を擦り付けている。
見よう見まねで、私も血に染まった袖に擦り付ける。
「これは……すごい……。」
この世界における石鹸のような物だろうか。
泡立ちこそしないが、二度、三度と擦り付けるだけで血の汚れは瞬く間にこそげ落ち、少しのシミも残さない、完璧な白を取り戻していく。
半端な洗剤なんかよりも、ずっと高性能だろう。しばらく無心になって汚れを落としていると、横合いからレナが話しかけてきた。
「スズナちゃんはさ……加護とか、魔法とかってどれだけ知ってるの?」
加護。魔法。どれも現実味のない言葉だと少し前までは思っていた。
だが、本当にあるのだ。ならば私はそれと、どう付き合うべきなのだろうか。
「魔法も加護も魔力を使うって事ぐらいかな。あとは……加護が神官と関係しているってことくらい?」
レナは結界を見て加護と断定していた。魔力の使いすぎで体調が悪くなるとも。
そして戦いの最中、私の事を神官と呼んだ。
ここからわかるのは私の謎の結界は加護という力で、それを使えるのは神官だけというなら辻褄が合う。
私は助勤、言い方を変えればバイトであったがその間とはいえ神に仕えていたのは事実だ。神官という捉え方が出来ない訳ではない。もっとも、仕えているという自意識はないのだが。
「そうね、それは正しいけど知識としては少ないわ。」
一足先に血の汚れを洗い終わり、手持無沙汰になったレナは濡れた手で自身の前髪をいじりながら「自分の力を理解する為にはもっと踏み込んだ知識が必要よ」と言いながら指先を中空に向けた。
その指先が指すすぐ前の空間が一瞬、冬場のストーブに熱が溜まった時のように揺らいだように見えた。
「『フュシウォーム』」
「うわっ、なに?……羽虫?」
レナがそう言うと、レナの指差す空間に一瞬にして蚊柱が形成される。
それは夏から秋にかけて水場に多く表れる羽虫の集団によく似ていた。が、よく見ればすぐに違うということがわかった。
「こ、これ……どうなってるの……?」
蚊柱の構成物資は虫ではなく、米粒より小さな砂粒だった。数えるのも億劫になるほどのそれらは指差された一定の空間を縦横無尽に飛び回り、それが蚊柱のごとき虫の集団に見えたのだ。
「これは目潰しの魔法。魔法は体の中の魔力を使って世界の法則をねじまげる技術よ。練習すれば、程度の差こそあれ誰でもいずれ使えるようになるわ。そしてこれが―――『矢よ』」
次に、レナが余った手を地面に向ける。言葉を口に出すと同時に地面から矢羽のない石矢が一本、アスパラガスの如く生え出てくる。
ストームバードと戦った時に見た、矢を産み出す不思議な現象だ。私は産み出された矢をまじまじと見るが、どう見てもただの矢である。
「これが、加護。信仰する神様がくれる力よ。これは技術じゃ習得はできない。神様がどれだけ自分を気にかけて、力を貸してくれるかによるのよ。」
「え?ちょ、ちょっとまって。神様?神様が、本当にいるの?」
「え?えぇ、そうよ。姿は見た事がないけれど……稀に神託が直接降りたと言う人はいるわ。何よりも、信仰によって力を貸してくれるのだからいないわけがないわ。」
「信じれば、その神様が力をくれる……じゃあ、信じなくなったら?」
「当然、その力は没収される。再び信仰したと神様から認められるまで、使おうとしても使えなくなるの。」
本当なら驚くべき事だ。
この世界には神様の存在が当たり前だというのだ。無神論などありえないほどに。
さらに、信じる事によって使える力や神託が使えたり得られるのだという。
彼女の言を信じるならば、彼女らにとって神とは極めて一般的で現実的な存在なのだ。
――ふと、何かに引っ掛かるように疑問がわいた。
ならば、私がもといた世界の神様は存在しているという事なのだろうか。現にこうして生きているのはその神様の助力があってこそなのだが―――ならばなぜ、私のいた世界に加護という概念が一般的ではなかったのか。
神様も、世界によって依怙贔屓をするという事なのだろうか。
私の疑問をよそに、レナが自身のポーチを開き中から小さなネックレスを取り出す。
弓矢と、それに絡まる翼のはえた頭のない蛇のシンボルが彫られている。
「私の信仰する神様はナイレンツァ、狩りと風、そして安全を司る男神よ。」
「え、えと、私の所属する神様は―――。」
彼女が自己紹介するような雰囲気で言ったので私も自身の仕える神の名を挙げようとしたのだが―――発言はレナの指が私の口を押さえた事で止められた。彼女は私の言葉が止まったのを待ってから緩く首を振った。
「神様の名前は言っちゃだめよ。信じる神様の名前を知られる事は、自分の手の内を晒す事と同じなの。それに、神様によって対立する事もあるわ。場合によっては殺しあったりしなければいけないようにまでなったりするの。」
「え、え?でも、今レナさんは言ったような……。」
「私はいいのよ。有名な信仰だから隠す意味もないの。」
私の世界にも三大宗教というものはあった。彼らに殺し合うような過激派は少なかったが、いがみ合いが起こらない訳ではなかった。それこそ、旗の柄一つで揉めたりする程度には。
それと似たようなものだろうか。
「ナイレンツァ様の信仰者は狩りや隠密行動、持久戦に向いた加護を授かるわ。矢を生成したり、傷の治りを早めたり、体重を軽くする加護が使えるの。」
「実際に効果があるの?」
「ええ、もちろん」
信じれば当然のように加護、力が与えられる。そんな体験がなかった私からすれば、実に衝撃的な内容だ。
いや、彼女からすればすべての神は存在して当然で、そこからどの神様に仕えるかが信仰なのだろう。
「だから、スズナちゃんも仕える神様の力をよく思い出してみなさい。きっとまだ他にも加護があるはず。バリアを展開するだけじゃ、一人の時に身を守れないわよ?」
「うーん……どうすればいいのかわからないけど、努力してみるよ……。」
私の実家で祀っている神様のご利益は縁結びや厄除け……あとは豊作とかだったはずだ。
……これでどうやってなにをしろと言うのか。
……いや、もしかしたら迷宮の瘴気とやらから私を守っていたり、結界が展開されるのはこの信仰の力なのだろうか。厄除けのご利益あたりがそれにあたっているのかもしれない。
その事をレナに伝えれば、「ありえるかも」という。もっとも詳しく知ろうにも私の信仰は伝えない方が良いらしいので詳しく説明ができず、確信は持てないのだが。
このあと二十分ほどレナのようになにか能動的な加護を発動できないかと挑戦したが、特に成果と呼べるような出来事はなかった。
あまり時間を消費する訳にもいかない。実りのない努力を区切りの良い所で切り上げ、日が高い内から明日の朝までの食料を探す事にする。
「確か……こっちに果実が実ってたような……。」
森の中を何度か歩く事で私も地形を覚えられるようになってきていた。
最初に食べた皮が硬い果物―――レナいわくグレイの実、と言うらしい―――がまだ残っていないか見に来たのだ。
彼女が言うにはあの木の実は栄養が豊富らしく、いくつかとっておきたいそうだ。
はたして私達は無事にグレイの木を見つける事ができた。その枝先には木の実がまだいくつかまばらに残っている。
「あ、まだある。よかったー」
「ちょっと木が高いわね……。登るしかなさそうね」
レナが木を見上げながら言う。
木の実が残っている場所は高く、手を伸ばした程度では届きそうもない。
少しは上る必要がありそうだ。
「私が行くよ」
そういって木に手足をかける。
滑りやすいタイプの樹皮ではなく、足掛かりになる場所も多いので、特に問題なく登れるだろう。
「気をつけてね」
レナが矢をつがえ、辺りを警戒しながら言った。
レナの怪我は最初に出会った時から時間を追うごとにどんどんよくなり、今は一人で立って歩いてもふらつかない程にまでなっていた。ナイレンツァという神様を信仰することで得られる恩恵の一つに、傷の治りを早める力があると言っていたのでそれが関わっているのだろう。
私はするすると木を登り、大きく横にはった枝の上にのって下を見る。
辺りを見回すレナのつむじが目にとまり、はて、自分はここまで短時間で登れるほど木登りが得意だっただろうかと疑問に思う。
「どう?取れそう?」
だが、そんな疑問を消化する前に声をかけられる。慌てて周りの木の実を探す。
手近な場所に三個ほど実っている。枝がしなっており、相変わらずズッシリとしている。
ナイフ片手に手を伸ばして一つ二つもぎとり、声をかけてから下に落とす。木ノ実は鈍い音をして地面に少しめり込んだ。
あの木ノ実は頑丈なので地面に落ちた程度では傷もつかないだろう。
最後の一つに手を伸ばした時、ガサリと何かが近くの枝を揺らした。
―――シャァアッ!
「きゃっ!?」
何が揺らしたのか確認する前にそれは私に襲いかかった。
飛び込んできた鋭い牙は奇襲性を伴っていたものの、私に届くことはなく結界に阻まれる。下からレナの鋭い声が届く。
「大丈夫、スズナ!?」
「へ、平気!驚いただけ!」
攻撃してきた生物の正体は私の故郷でもよく見る大きさの蛇だった。よく繁った枝に隠れた黒と茶色の斑模様はそうそう見破れるものではない。
奇襲に失敗した蛇は緩慢な動作で体を引き、その身を枝葉に隠そうとする。
私は咄嗟に抜き身のまま持っていたナイフを振った。
ブシュッ!
手に伝わる鈍い感触。私のナイフは蛇の頭の付け根に食い込み―――勢いを失わず、そのまま切り飛ばした。
飛んだ蛇の頭は宙を舞い、近くの茂みに落ちる。それが目の端に止まったのか、警戒していたレナが反射的に弓を構える音が聞こえた。
すぐに私が原因だと気付き小さく息を吐く。
「気を張ってるんだから、あんまり驚かせないでよね……。」
「ご、ごめん……。」
謝りつつも、私の頭は目の前の断面図に釘付けだった。
今だ動く心臓の脈動に合わせて少しずつ血が溢れだし始めた蛇の死体は時おり思い出したように痙攣し、ポタポタと滴を垂らす。
私はナイフの刃先でその切り口を押しやり、努めて見えないようにする。
あまり見たくないのが本音だった。肉を断った感触に、ナイフを持つ手が震える。
私はそのまま三個目の木ノ実を切り離し、落とした。木の下から声がかかる。
「ご苦労様。果物だけじゃなく肉も手にはいるとは運がいいわ。」
「え?」
「え?蛇、仕留めたんでしょ?頭が飛んできたわよ。」
「蛇……を、食べるんですね?」
「美味しいわよ?あ、もしかして宗教上食べられない?」
「いえ……」
「……食べられないなら、無理せず言ってね?」
「……。」
木に絡まった蛇の死体は剥がすのに凄く苦労するという事を、私は学んだ。