Case #002-02 思考するDT
とあるAV監督は、以下のような言葉を残している。
AV監督になるなら、童貞を捨てるのは遅ければ遅いほどよい。
女を知りたいという強い気持ちは高い想像力をはぐくみ、メイクラブを知らないがゆえに、現実を超越するエロスの妄想を生み出す。
その妄想が、優れたAVを生み出す原資となるのだ。
いまやカリスマと賞賛されるその監督も、20代半ばまで童貞であったと告白している。
そう、女性を知らない男は魔術師となるのだ。
「想像力」という魔法を使う、魔術師に。
…。
時計は、午後五時を回ったところだ。
マチコは15時頃、私用があるからと自宅へと戻っていった。マチコはいつも、この時間に一度自宅に帰り、19時頃に再び事務所に顔を出す。
一方のオレは、昨晩の不倫調査のプロファイルをまとめていた。IT会社社長、遠藤弘の不貞を暴いたこのドキュメントは、明日所長から遠藤の妻に手渡される予定だ。
キーボードを打つ手が止まった。タイプしすぎて、オレの頭の中の語彙辞典がオーバーヒートしたのかもしれない。文章がひとつも思い浮かばなくなってしまった。
冷めてしまった、ミルクたっぷりのコーヒーを飲む。ハードボイルドにブラックを飲みたいところだが、あの舌に刺さるような苦味は苦手だった。甘いコーヒーならカフェインと糖類が一緒に摂取できる。いいことづくめじゃないか。
一休みしながら、パソコンデスクの前に貼り出された吉村町の地図に目を移した。
妙齢の淑女がバッグをひったくられたのは、「大島通り」と呼ばれる通りだ。吉村町の南の外れにある裏通りで、昔から営まれている商店や、バーやスナックが並んでいる。騒々しい吉村町の中にあって、ひときわ静かなエリアだが、南のマンション街と駅をつなぐ道でもあって、人通りは少なくない。
このような通りだ。ひったくりにはあまり向かない、と言える。
それでも今まで逃げ切れているのだから、犯人はこの大島通りの地理に熟知している、と考えるのが自然だろう。捕まらない自信がなければ、大島通りでひったくりをしようなどとは思わないはずだ。
オレたちも吉村町の住人であるが、かといってその全てを知り尽くしているわけではない。地の利は間違いなく、相手方優勢だろう。
では人の力はどうか。
マチコは優れた運動能力を持っている。足も速い。マチコの小柄で細い体は、全てがバネでできているのではないかと思えるほどだ。
その瞬発力を持ってすれば、ひったくられた瞬間に体当たりして、犯人を足を止められるかもしれない。
しかし、それが失敗したら?
パチモンのプラダを掴まされて、悔しがる犯人の姿を想像するのは楽しかろう。だが、オレたちに課せられたミッションは子供のイタズラではないのだ。
それに「かもしれない」という希望的観測に頼るのは、任務の確度を下げることになりかねない。
マチコの初動がスカっても、確実に犯人を押さえられる方法。獅子搏兎をモットーとするテラダ・エージェンシーの構成員であるなら、そこまで考え抜かねばならない。
天運にゆだねるのは、それら全てを尽くしてからの話だ。
不意に、ロシアタバコの匂いが鼻をくすぐった。
目を向ければ、組んだ手の上に顎を載せ、ジトッと、こちらを見ている所長の顔があった。
まるで煙が「さぼるな」と言ってるようであった。
さぼっているわけではないと言い訳したいところだが、ここはおとなしく、所長の要望にこたえたほうが良さそうだ。
■登場人物紹介
寺戸ルミ
テラド・エージェンシーのボス。年齢、身長、体重は全て非公開。外見から見ればとにかく小さいの一言。コム・デ・ギャルソンのコートの裾を20cm切った話は、もはや伝説となっている。
数十年前に事務所を開設。以来長らく一人で探偵業を営んできたが、二年前に万智子を、去年綱禎を拾う。拾った理由は、ちょうど忙しい時に見つけたからである。
座右の銘は「獅子搏兎」。愛飲する煙草はKissオーガニック。