十一・明里とシン
「う、んん……」
身体全体に、かすかな振動を感じる。
ゆっくりと目を開けると、ぼやけた視界に不思議な光景が飛び込んできた。
レンガのようなものが流れていく。少し目線を動かすと、黒い何かが視界に入った。
そして、腹部には圧迫感。
え? 何これ。どうなってるの?
次第にクリアになっていく思考で、あたしはようやく状況を理解した。
「え!? ちょっ……な、何よこれっ!」
「ん? 気が付いたか、アカリ」
かなり近くからヴィンスの声が聞こえてくる。
それもそのはず。何故ならあたしは、ヴィンスの肩の上に、うつぶせの状態で担ぎ上げられていたのだ。膝の裏には、ヴィンスの腕が回されている。
「ちょ、ちょっと! 下ろしてよ! 今すぐに! 早く!」
「何故だ?」
「何でもよ!」
こんな格好で担がれるなんて恥ずかしいし、他の人達からスカートの中が見えてるんじゃないかとか、ヴィンスはあたしを重いと思ってるんじゃないかとか、色々と複雑な事情があるのだ。女の子には。
「お前は守護者としての力を使って疲弊しているんだぞ」
「し、心配しなくても大丈夫だから! 早く下ろしてよっ!」
「……仕方ないな」
ヴィンスは、あたしをそっと地面に下ろした。
「ふう。全く……」
あたしはため息をつき、歩き出そうとする。しかし――。
「あ、あれ……?」
全身に力が入らず、まっすぐ歩く事ができない。立っているのがやっとという状態だった。
「お姉ちゃん、大丈夫?」
「う、うん……大丈夫」
シンくんが心配そうな顔であたしを見る。
口では大丈夫と言ったものの、やはりあたしの足元はおぼつかない。
再び歩き出そうとして転びそうになったところを、ヴィンスに支えられた。
「……ごめん、ヴィンス。やっぱり肩貸して」
「わかった」
結局、あたしはヴィンスの肩に腕を回し、彼に支えられながら歩く事になった。
しばらく無言で歩いていたが、やがてシンくんが口を開き、衝撃的な言葉を口にした。
「ねえ。お姉ちゃんとお兄ちゃんは、恋人同士なの?」
「えっ!?」
あたしは驚きのあまり、声が裏返ってしまう。
まさかシンくんが、あたし達をそんな風に見ているとは思わなかった。
だが、ヴィンスは冷静だった。顔色ひとつ変えずに、短く返事をする。
「違う」
「そうなの? すっごく仲がよさそうだから」
「俺とアカリは仲間だ。それ以上でもそれ以下でもない」
「そっかぁ」
すると、何故かシンくんは満面の笑みを浮かべ、あたしの顔を見た。
そしてシンくんの口から、あたしの予想の斜め上をゆく言葉が発せられた。
「じゃあ、お姉ちゃん! ボクが大人になったら結婚してくれる?」
「えっ!?」
あたしは、驚きに目を見開いた。
こういうシーンが漫画とかアニメでよく登場するけど、まさか自分が言われるとは思わなかった。
「シ、シンくん! 急にどうしたの!?」
「だってお姉ちゃん、すっごく強くてカッコいいし、優しいんだもん!」
何て返すべきか迷っていると、不意に隣から殺気のようなものを感じた。
隣を見ると、先程は眉ひとつ動かしていなかったヴィンスが、露骨に不機嫌そうな顔をしていた。
「ヴ、ヴィンス? どうしたの? 怖いよ」
「……いや、何でもない」
「あーっ! お兄ちゃん、ヤキモチやいてるんでしょ! お姉ちゃんを取られたくないんだ!」
「……違う」
「じゃあ何で今、怖い顔したの?」
「……」
気のせいだろうか。ヴィンスの眉間のしわが深くなっているような気がする。
これ以上この話を続けるとヴィンスがますます不機嫌になりそうな気がしたので、あたしはシンくんに別の話題を振る事にした。
「そ、それよりシンくん、好きな女の子とかいないの?」
「お姉ちゃん!」
「……」
……うん、今のはあたしが馬鹿だったかもしれない。
「シンくんは将来、何になりたいの?」
「お姉ちゃんのお婿さん!」
「えっと、そうじゃなくて、お仕事とか……」
「お姉ちゃんとおんなじお仕事!」
「……じゃあ、趣味は……」
「お姉ちゃんとお喋りする事!」
「……」
……駄目だ。さっきから自分で墓穴を掘ってるような気がする。
あたしがどんな質問をしても、シンくんはあたしを関連付けて答えようとする。そのたび、ヴィンスの眉間のしわがどんどん深くなっていき、あたしは背筋に寒気が走った。
「シンくん、あの……」
「……お姉ちゃん、さっきからごまかそうとしてない?」
「!」
シンくんに図星を指され、あたしの肩はぴくりと反応する。
「お姉ちゃんはボクの事、キライなの?」
「ち、違うよ! そうじゃなくて……」
「じゃあ『はい』か『いいえ』で答えてよ。ボクと結婚してくれる?」
「……」
あたしは少し思案した後、こう答えた。
「……ごめんね。あたし、シンくんのお嫁さんにはなれないよ」
「……どうして?」
「シンくんは、まだ子供だから。そういう事は、大人になってからもっとじっくり考えた方がいいよ。それに……」
「それに?」
「……あたしの家、ここからすっごく遠いところにあるんだ。あたしはどうしても、そこに帰らなきゃいけないの。だから、ごめんね」
「……わかった」
シンくんは渋々ながらも、頷いてくれた。
ふと隣を見ると、何故かヴィンスも寂しげな顔をしていた。
「ヴィンス? どうしたの?」
「あ、いや……何でもない」
その後、あたし達三人は無言でスカイ事務所まで歩き続けた。
そして、スカイ事務所の扉を開けると、そこにはシンくんのお母さんの姿があった。
「シン!」
「お母さん!」
シンくんのお母さんは、シンくんを強く抱きしめる。
「シン。大丈夫? どこか怪我してない?」
「うん、大丈夫! お姉ちゃんとお兄ちゃんが助けてくれたから!」
そう言って、シンくんはあたし達を指差す。
シンくんのお母さんは、あたし達に向かって深々と頭を下げた。
「息子を助けてくださって、ありがとうございます……! もう、何とお礼を申し上げればいいか……」
「いえ、気にしないでください」
「本当に、ありがとうございます……!」
その後、何度もお礼を口にしながら、シンくんとお母さんは事務所を出ていった。