ドアの向こう
「 トントン‥」
いつもの音。不気味にドアをノックする鈍い音。
重たく、しかし何処か温かくも感じるこの音で、この患者が誰だかすぐわかる。
「どうぞお入り下さい~」
「はい。失礼致します。」
この年配女性は、私の病院へかれこれ20年近く通って来ている。
やる気のある前向きな精神状態の時と、がっくり落ち込む鬱的症状の時を毎度繰り返している、いわゆる躁極性障害の疑いだ。
でも、いまいち病気を確信する決定打がない。何やら、演技をしているようにも見える。でも、何の為に躁極性障害のフリをしなければならないのか。いづれにしても、まだうら若き医師にとっては厄介な患者に過ぎない。
「高久さん、こんにちわ‥調子はどうですか?
今日、もしいらしたら相談しようと思ってたのですが‥少し薬をお休みしてみましょうか?来院も、2ヶ月に一度で充分でしょう‥かえってその方が具合は改善すると思うんでね。」
「えっ、先生無理です❗
私も今日ご相談があって来ました❗
このところ、また頭の痛いのがひどくなって、外にも出たくないし誰にも会いたくないんです。先生にしか会いたくないんです。
夜中にマンションの隣の部屋の水滴の音とか‥人の寝息とかが聞こえる感じがして不眠も続いています。
どうかお願いです。今までどうり、一週に一度診て下さい」
その年配女性は、かなり蒼白な顔つきで訴えてきた。
「高久さん~わかりました。薬は今までどうり出しておきますから。それから、いつもよりチョッと強めの眠剤もね。安心してくださいよ、大丈夫ですから。」
「先生~ありがとうございます。
良かった❗先生に見捨てられたら、私は生きては行けません。」
「大袈裟ですよ~」
医師は明るく笑い飛ばして見せた。
「先生、では又来週来ますね、宜しくお願い致します。
お礼に、つまらない物ですがドアの外に置かせて頂きますので、どうぞご賞味ください。お口に合わなければ棄てて頂いて構いませんからね。」
丁寧にお辞儀をして、その年配女性はパタンとドアを閉めた。
この患者が去って10分程の時間が経過した。
(もう、いないだろう‥)
医師はわざと無造作にドアを開ける。
そこには、いつものように大量の一週間分の食糧が積見上げてあった。
直ぐに食せる弁当が3つ。みかんやリンゴといった果物と、ほうれん草やレタスや真っ赤なトマト他‥旬野菜。日持ちのする煮物、漬け物が保存容器に10パック程。他はカップラーメンやら冷凍食品やら‥とにかく大量である。
(まだ結婚もしていない年端のいかない貧乏医師を気づかっての差し入れとは百も承知だが、いったい何のつもりだ‥)
溜息が空気に溶けて虚しく消えた。
この診察室のドアの外。
その前にはもう一つ、ドアがある。
その(ドアの向こう)にて、ホッと肩を撫で下ろし安心したように微笑む先程の年配女性がいた。
「今週も無事にお役目は終わりましたよ、お父さん。」
年配女性は、今は亡き自分の夫の位牌に手を合わせ語りかけた。
「あの子がいつ自分の病気に気づいてくれるのか‥。
医大の受験に失敗してから籠りっきりですよ、お父さん‥。
あの子の部屋のドアにぶら下がっている(診察室)の札を
いつ取り去ってくれるのかと‥天にお任せですよ、お父さん‥」
年配女性は涙ぐみドアの向こうをぼんやりと眺めた。
~完~