短文 代弁者~舐めないで頂きたい~
ふと腕時計を眺めると、時刻はもう二十時をとうに過ぎていた。
そりゃあ体も疲れるわけだと心の中で愚痴りながら、会社から駅までの道を急ぐ。
僕の会社は立派な会社じゃないけれど、それなりに頑張って仕事をすれば、それなりの評価も頂けるありがたい場所だ。
仕事内容そのものを嘆いた事もあるけれど、それはそれで、今もうまくやっていけている。
会社から駅までの距離も遠くない。
ほんの十分、本当にそれだけの距離を歩けば、後は電車が僕の体を運んでくれる。
あと少し、地下街を抜け、エスカレーターを登ればもう改札だ。
地下と外では景色がガラッと変化する。
理由は簡単、外に出れば、嫌がおうにも空が夜を告げてくる。
街灯の明るさが、軒並みそびえ立つネオンの煌きが、僕に現在時刻を叩き込んでくれる。
改札はもう目の前だ。
僕は百貨店へと続く大階段を横目に、一目散に改札へと足を向ける。
――そこを行く君
その時、ふと、音が聞こえてきた。
――少し、私の愚痴を聞いてはくれませんか?
思わず足を止め、僕はその音の出処へと目を向ける。
そこには、大階段の下に佇むひとりの女の姿があった。
彼女の周りには小ぶりのアンプと広げたままのギターケースが置いてあり、ようやく僕はそこで気付く。
(ああ、路上ライブか)
この場所は駅前ということもあり、夢追い人がよくこうして陣取っている。
僕自身、音楽に興味はあるが、いまさらこの年齢になって『愛だ』『恋だ』と歌われても何も響いてこないのが現状だ。
枯れているなと思わないでもないけれど、今はそんなことよりも体を休めたい。
もう一度踵を返し、今度こそ、僕は改札口へと足を運び出す。
――そこの君、君のことだよ
ずいぶんと個性的なフレーズだ。
さしずめ、何らかのメッセージソングといったところだろうか?
――いやいや、君だよ、君
それが誰宛であろうと、その呼び方は如何なものか。
背中越しに聞こえてきたフレーズに、少し顔が綻んでしまう。
――まあ、いっか。じゃあ、そのままでいいよ
ようやくそこでギターの音が混じり始める。
ずいぶんと荒っぽいコードの弾き方をするんだなと思いながら、僕はズボンの後ろポケットから定期を取り出した。
――さようならの準備を始めよう
少し古めかしたマイナーコードの波に乗せて、彼女の声が響き渡っていく。
――昨日の君は何をしていましたか?
――予定通り、平穏無事に過ごせていましたか?
――時間通りに起床し、時間を過ぎても働いていましたか?
――頑張ったねって、誰かに言ってもらえましたか?
その言葉が、帰路につく僕の足を止めた。
――両親は元気ですか?
――体の調子はいかがでしょうか?
――寒くなってきたので心配です
――大丈夫? って、誰かに言ってもらえましたか?
(何だこれ……?)
――お節介かもしれないけれど、いちおう忠告させていただきますね?
――毎日が充実していると思い込んでいませんか?
――お節介かもしれないけれど、いちおう忠告させていただきますね?
――自分を騙す言い訳は、まだまだ思い付きそうですか?
胸の奥からムカムカしたものが込み上げてくる。
身も知らずの歌い手の言葉に、僕は今、猛烈に心をかき乱されているんだ。
――悔しいですか? イラついてはいませんか?
――でも、仕方がないですよね?
――これが君の選んだ人生なんですから
(知ったような口を聞く。あんたにいったい、僕の何が分かるって……)
――誰が――君のことだと言ったんだい?
……!!
――思い当たるフシがある君には、せっかくだから歌をあげる
――私がとっておきを歌ってあげる
――君を舐めないで頂きたいと、熱唱してあげる
――君はひとりで我慢をするから、私が言葉で伝えてあげる
――ふざけんなって――こんな君を――舐めないで頂きたい
――ふざけんなって――こんな君を――舐めないで頂きたい
――ほんと、君という逸材を――舐めないで頂きたい
知らず知らずのうちに、距離が元に戻っていく。
僕はいま改札口から出てきたばかりの人間のように、群衆の中を歩き出した。
――弱音は悪ですか? 舐めないで頂きたい
――弱者は悪ですか? 舐めないで頂きたい
――何もかも全部を含めて、君という人間を舐めないで頂きたい
まるで世界の中で僕だけにしか聞こえていないかのように、彼女との距離が縮まっていく。
(近づいてどうする?)
僕はいったい何がしたいんだ。
彼女の歌を聴くだけなら、この場所で歩みを止めても問題はないはずなのに、僕の足は止まってくれない。
――世界中に届けばいいのに、私の声はそこまで届かない
――だから皆で歌ってほしい
――大きな声で叫んで欲しい
――君という人間を――舐めないで頂きたい
マイナーコードからメジャーコードへ、ギターの音色は歌に合わせて変化する。
もう、彼女は僕の目の前だ。
――聞こえていますか? この歌が
――聞こえているくせに、君の声が
僕は首元にまとわりついたマフラーに下顎を埋める。
どうしてかそれだけで、いつもより少し暖かくなれた気がした。
彼女と僕の距離は、ほんのわずかな時間で、こんなにも縮まったんだ。