正夢・前編
1
「はぁ、はぁ、はぁ」
鏡に映り込む顔に浮かび上がる、寝汗とは違う汗。体には痺れるような快楽の蛇が這いずり回り、心には恍惚感が漂う。その鏡の中の自分の顔を睨みつけると、自分の姿を隠すように上着を脱ぎ投げつけた。それから暫く洗面台に目を落としていた彼は、体の全ての水分が溢れ出した様な汗を流そうと風呂場に向かった。
彼の名前は水島 祐(みずしま ゆう)。今年17歳の高校2年生の男。今までも、これからも、彼は普通の人生を送るはずだった。そう、はずだったのに……。
「よ、祐。ってどうした? もしかして、まだ昨日フラれた事引きずってんのか?」
通学道、後ろから聞こえてきた声に振り返ると、そこにいたのは中学から仲良くなった沢城 達也(さわしろ たつや)。その沢城が、肩を組んだ祐の顔を見て言ったのは、昨日告白を失敗したという事だった。
「違うって、ただ、な……」
「心配すんな。誰だって通る道だ。それを経験して、人間は大人の階段を上るんだよ!」
握り拳を作って天を見上げる沢城の熱の籠った言葉に、「お前プロだもんな」と冷静なトーンで祐が切り捨てた。
「いや、祐よ、それ酷くないか、なあかなり酷いと思うけど」
祐の言葉で石の様に固まった沢城が動き出した時には、かなり先に祐は進んでいた。
後ろの入り口から教室に入り、最後列の窓際にある自分の席に向かう祐。それから暫くすると、担任が教室に入ってきた。暗くてまるで幽霊だと怖がられる祐の学校では有名な教師。その教師の顔が険しく、より一層暗い表情で教卓に手を付いた。
「え〜っと、まあ、何です」
幽霊の囁きかと思うくらい小さく暗い教師の声。聞こうと思っても聞こえないだろうし、くだらない話だろうと、祐は窓の外で猫の性格の様に気まぐれに形を変える雲を見つめていた。やはりというか、案の定、祐には終わりの「です」だけしか聞こえなかった。
“なんだ? 何騒いでるんだ?”
しかし教室の、主に前方からざわめきが押し寄せる波のように祐を飲み込んだ。それは教師が伝えたかった事。そしてそれを祐に伝えたのは前の席に座る青島(あおしま)。
「おい水島、幽霊の言ってる事聞こえなかったろ?」
「あぁ、何言ったんだ。えらく教室が――」
「死んだんだって」
「死んだ?」
「あぁ。隣のクラスの大石(おおいし)って女子。っておい、どうした水島」
その名前を聞いた時、祐の脳裏には今朝見た夢の事が思い出される。震えるが手足の指先から全身に行き渡る。真夏のはずの今、寒さで震える事は無い。
“そ、そんな、まさか、な。そんなはず、だってあれ、夢だろ? 俺、ベットで寝てた、よな? 朝まで起きる事無く、寝てた、だろ? まさか、現実なわけ――”
「おいって!」
あまりの震えに、教室の人間全てが振り向くほどの声で青島が祐に声をかけていた。
「え、何が?」
「何がってお前、今めちゃくちゃ震えてたぞ」
痛く突き刺さるほど注がれる視線。祐は変な事を言うのは不味いと思い、普段見せない笑顔を咄嗟に出す。
「いや、別に」
その笑顔がぎこちなかったらしく、青島の表情が曇る。
「どうした? 何か、らしく――」
「大丈夫だって! いや、ホント、何もないから」
静かになった教室で1人浮くような大きな声を出してしまった祐は、慌てて普段通りに装う。それでも十分おかしな目で見られる祐に、差し延べられた救いの手はホームルームの終わりを告げるチャイムだった。
それからというもの、今朝見た夢の事が頭から離れずにいた。それでも何とか普段通りに振舞って、今は家路に付く事が出来ていた。しかし、心の中は荒波漂う船よりも揺れ、酔ったかのように気持ち悪くもあった。
「おい祐」
そんな祐に、沢城が後ろから声をかけてきた。
「聞いたよな? 聞かないわけないよな?」
無言で頷くという事は返事と同じ。それを見てから沢城は話し出す。
「大石、だったよな、祐が昨日フラれたのって。まさか何か、って事ないよな? たかがフラれただけだもんな」
「……あのさ――」
顔を見せたくないのか、ただ祐は俯いたまま話し出す。下手なバイオリンの音色のような乱れた旋律の声で。
「レイプ……」
「レイプ、ってまさか祐――」
「夢の中で、夢の中でだけど、俺、大石レイプして殺してた。頭おかしいよな、たかがフラれたぐらいでそんな夢見るなんて。けどさ、そんな夢見た次の日に、その相手死ぬなんて何か怖くてさ。もしかしたら夢じゃない、とか思うんだよ」
沢城が、ほっとしたように、表情を緩めて祐の肩に手を置いた。
「夢だったんだろ? だったら、祐は関係ないって。ただ重なるような夢見ただけだって。いやな、祐のクラスの奴がさ、ウチのクラスに来て祐が変だとか言ってたんで心配してたんだよ。何だ、心配ないって。夢だったら」
2
「それで、君が見た夢は、殺された女の子を自分が殺した夢だったんだね。殺されたその日に」
頷く祐を見て、組む膝の上に置いてある紙に何かを書き込む白衣の男。その白衣の男は学校が用意した、所謂心のケアをするカウンセラー。あの事件から3日目の朝にやって来た。胸には松田と書かれたプレートを付けたそのカウンセラーが何かを書き込み終わると、膝の上から祐に視線を戻す。
「憶えているかな、私の事?」
「? いえ、すいませんが、憶えてません」
「いや、もし憶えていたら、そう思っただけだよ。気にしなくていい、今私が言った事も、その夢のこともね」
大石 香苗(おおいし かなえ)が殺されたというニュースは、たった1日で日本中に広まり騒がれていた。乱暴された形跡があるにも拘らず、着衣の乱れがなく、しかも殺害現場は自宅の自室。悲鳴や物音を聞いた人間も居らず、外から部屋に進入した形跡も無い、完全犯罪というやつらしい。
「何かニュースすっごい流れてるよな」
「そうだな……」
「あ、いやだから、そこまで気にすんなって。祐には関係ないんだしさ」
「分かってるよ」
最近祐の家の近くにある幼稚園や小学校では、集団下校がよく見られる様になった。何気なく祐が目をやると、子供を迎えに来ている母親らしき人物と目が合った。
“どこかで見たことあるな……”
祐はそんな気持ちで見ていたのに、母親らしき人物はいかにも不審者を見るような視線を返してきた。気持ちの良いものではない視線に、心の底ではムカつきながらも目が合ったので、会釈だけは返して祐は足早にその場所を去った。
暇なのかそうでないのか、コンビニでアルバイトをしている沢城は夜中までメールをしてくる。そのメールは、話が盛り上がって来ている時でも、祐が「眠たい」というとそこで強制終了となる。そして今日も同じように、午後11時10分過ぎに祐が沢城に眠たいとメールを打った。
声が聞こえた。自分の声に似ている、けれどどこか違う、まるで別人のような声。目を開く。そこに広がるのは、見たこともない家の玄関の前。手にはなにやら大きな鞄。そんな鞄触れたことも、見たこともない。そんな事を気にする素振りなく、知らない家の扉を開けて中に入り込む。扉に少しの細工をした。時間が止まっているのかのように、部屋の中は静かで物音1つしない。目的が決まっているかのように、部屋の中が暗闇でも迷う事無く、ぶつかる事無く動く体。悪い事だと分かってる、動くなと命令しても体は言う事を聞かない。
キィィイ
部屋の扉を開く。見回す部屋。ベットの上には、肌が少し見える小さな女の子2人がいる。その幼い寝顔を見ながら腕は徐に鞄の中に伸びる。そこから取り出す物、容易く何に使うか想像できない。心が止めようとすが、体は言う事を聞かない。徐々に女の子に近づく、小さな寝息、愛らしい寝顔。そんな安らかな顔をしてると、どうにかなってしまいそうになる。布で鼻と口を押さえつけ息を出来なくする。苦しそうに悶えるが、もう1人は起きない。暫くすると、動きが止まる。死んでいないか確かめる。心臓も呼吸もしている。もう1人も同じようにして気を失わせる。2人を抱え上げる。現実味はまるでない。抱えたままダイニングに向かう。大きなテーブルと六脚の椅子。女の子を並べて椅子に座らせると、また鞄の中から何か取り出す。どうやら紐のようだ。それで体を縛り付けていく。足も腕も体も口も全て塞ぐ。ただ、目だけは見えるようにしている。
準備が出来た
次に向かう部屋には、2人の女がいる。1人はこの2人の女の子の母親。もう1人はその母親の妹。
そうだ、あの時俺を睨みつけてきた女
扉を開く。昼間とは違い、驚いた怯えた表情を俺に見せる。中に入りながら扉を閉める。何が起こったと2人で話している姿は、滑稽でたまらなく可笑しい。1人に近づく、妹の方だ。この女には用はない。この場で殺しておくか。
小さく漏れる苦痛の喘ぎ声
ゆっくりと締め付けていくと、細い首に指が食い込む。暴れてるが、逃さないし邪魔もされない。女は俺を邪魔しようとするが、無駄な抵抗なんだよ。声をかけてやりたいが、出来ないのが欠点だな。そして3分もすれば女の妹は、俺の手の中で命をなくした。女は何が起こったか分からず、半分、いや、4分の3は頭の中がパニックになっているようだ。そして逃げ出すように部屋を出る。俺はゆっくりその後を追う。
ガチャガチャガチャ
必死にチェーンを外そうとしている。無駄なんだけどな。そろそろ起こす時間だ。女を背にして俺は女の子に近づく。どちらの方が目覚めがいいか分かりそうもないので、とりあえず髪の長い方でいい。猿轡を外してやると、苦しかったのか少し息が乱れている。今すぐに犯せる状況だが、それじゃあ面白くない。長い髪に指を滑り込ませ、しっかりと指に髪が絡まった所で握りながら一気に引き上げる。皮膚ごと髪を全て抜くような勢いで引き続けると、流石に目覚めるな。苦痛の声を上げて母親を呼ぶ。
そうだ、早く来い
この女の子の名前と共に足音が近づいてくる。そして女が部屋に入ってきた。俺に気づきはずもなく、女は女の子に抱きつく。それでも俺は女の子の髪を引き上げ続ける。全て毟り取る勢いそのままに。いいね、小さい子の悲鳴も。この前は同い年の女犯したし、次は年増の女と女の子二匹、か。なかなか彩り豊かじゃないか、祐。
止めてくれ、お願いだから
おかしいな。この前の女の時は、喜んでたじゃないか。さぁ、どれからいこうか。お前のタイプからして、この子は最後にするか? そうだな、じゃあ、今寝てる女の子からいこうか。どうする、服は? お前の好きなように出来るんだ。お好みでどうぞ。
違う、こんな事したくない
違う違う。これがお前のしたい事だ。全ての女を犯したい。ただ一方的に、ただ支配するだけで、後はただ殺すだけでいい。そうか、別にやりたいわけじゃいないのか。そうか、殺したいだけか。悪かったな、気づかなくて。それじゃあ、どう殺そうか。首を絞めるのは飽きたよな。この前の女も、さっきもそうだったからな。じゃあ、どうする?
嫌だ、そんな事したくないんだ、お願いだから止めてくれ
ふぅー。そんなに自分を保ちたいか? じゃあ仕方ない。お前の意見は聞かないことにしよう。どちらにしろ、お前が目覚めるまでは、俺が全て決定権を握ってるんだからな。お前はただ、見て触れて感じればいい。その後はただ罪悪感に苛まれるだけだろうが。
お願いだ、止め
3
“また、だ。また殺した……。しかも、子供まで”
夢の中の出来事。けれどそれだけでは済ますことが出来ない物。指に絡みつく長く細い髪と、体中に纏わり付く快感と罪悪感の白雲。手に残るのは、人形遊びではない人を殴りつけた痛み。それは最後の幼い少女を痛めつけた時の痛み。それを振り払おうと、何度も何度も吐きながらも、体を温めるようにシャワーを浴びていた。いつもなら10分程度で風呂を上がる祐だったが、今日は1時間を過ぎた辺りでやっと上がった。
「随分ゆっくり入ってたわね。学校遅れ――」
「今日、休む」
「え? 何でよ。特に病気でも――」
「疲れてるんだ! だから、その、休む」
そう言うと、祐は自分の部屋に足早に帰った。部屋に入った祐は鍵を閉め、パソコンを立ち上げるとそのままニュースを調べ始める。
“まだ、ニュースになってないな”
それから祐は1日パソコンに向かって調べ物をしていた。主に夢の事に関して。けれど特に成果らしい成果は上がらず、いつの間にか眠りに落ちていた。パソコン画面には大手サイトのトップページが映っていた。
それから2日が過ぎた。
「どうしたの? ねえ祐!」
部屋に明かりを点けず何も見ないよう聞かないように、汗を本物の滝のように流しながら頭から布団を被り、部屋の隅で1人震えていた。
「もう嫌だ。殺したくない、もう誰も殺したくないんだ。何も見なきゃ、聞かなきゃいいんだ。けれどもし眠ったら、俺は、俺は……」
祐は部屋から一切出ていないはずなのにベットの周りにはなぜか、女物の鞄と上着が落ちていた。
後編があります。
続きが気になる方がいれば見てください。正夢・後編です。