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最終列車  作者: 雨咲はな
3/6



 十五分後、凪子は、白いテーブルを挟んで、仁科という駅員と向かい合って座っていた。

 なんでこんなことになっているのか、自分でもよく判らない。

 ナンパがどうこう、と言われて。

 え? と困惑していたら、「凪子さん、ケーキは好きですか」 と、いきなり問いかけられて。

 まるで自分が思っていたことを読まれたような気がして、どぎまぎしてしまった凪子が、ええ、とか、はあ、とか適当な答え方をしているうちに、「じゃあこっちですよー」 と当然のように仁科に先導されて、いつの間にかこの店にいた──という感じなのである。

 そこは、カフェというよりはケーキ屋のイートインスペースと呼んだほうがいい、可愛らしくて洒落た内装の店だった。ケーキを買っていくのは大半が女性、店内で食べているのも女性同士ばっかりだ。どちらも繁盛しているようだからきっと美味しいのだろうが、その中で機嫌良さそうにメニューを眺めている仁科は、かなり浮いていた。

「口コミで、わりと有名なところなんですよ。知りませんでした? 僕、ここのケーキ好きなんですよね。でもほら、やっぱり男一人が店内で食べるのって、けっこう悪目立ちしそうでしょう。だからいつも買ってね、休憩時間とかに食べたりするんです。先輩も後輩も冷たい目で見るだけで、ちっとも付き合ってくれないし、寂しいんですよ。でも今日は念願かなって店内で食べられるので、大満足です。凪子さんもいますしね、味も数十倍美味しくなりそうで、嬉しいなあ」

「………………」

 やっぱりあの夜の駅員さんだわ、と凪子は改めて納得した。

 あの時は、ぼんやりした様子の凪子を慰めようとして、わざといろいろおかしなことを言って気を引き立たせようとしてくれたのかも、と思っていたのだが、どうやら違う。もともと、こういう人なのだ。

「凪子さん、何にします?」

 訊ねられて、凪子も慌ててメニューに視線を走らせる。美味しそうなケーキがずらりと並んで、目移りしそうだ。美味しそう、と思える分、駅の改札を出た時よりもずっと気分は浮上しているらしい。

「あ、えーと……どうしよう」

「ここは何でも美味しいですよ。そうは言っても、さすがに全種類制覇したわけではないんですけどね。僕、ベリー系とか、少し苦手なんですよ。だって、こういうピンク色のケーキって、わりと酸味がある場合が多いじゃないですか。せっかく甘いケーキを食べるのに、口に入れたら酸っぱいって、ちょっと悲しくありません?」

「そ……そうですね」

 我慢ならなくなって、凪子は噴き出してしまった。

 くすくす笑いながら、「じゃあ、ショートケーキにします」 と言ったら、仁科はうんうんと頷いた。

「ああ、渋いですね。そういえば、僕、この店のショートケーキは食べたことなかった。つい、いろんな味のケーキの方に吸い寄せられちゃうんですよね。僕もショートにしようかな……いやでも、他の味にした方が、お互いに楽しめていいかな……けど、はじめて一緒に入った店で、『一口ずつ交換』 っていうのは、いくらなんでも図々しいか……」

 ぶつぶつ呟きながら、大真面目に悩んでいる。口に手を当て、凪子は笑いださないように必死で耐えた。



 結局仁科はフルーツのたっぷり乗ったタルトを選び、それぞれの注文したものが、飲み物とともにテーブルに運ばれてから、ようやく、「さて」 という雰囲気になった。

 なったのはいいのだが、それからどうしたらいいのか、正直、凪子は困ってしまう。ゆったりと寛ぐ仁科のほうは、目の前のケーキと凪子を見比べながら、ものすごく嬉しそうにニコニコしているけれど。

 こうして見ると、仁科は、人の好さと性質の明るさが嫌味なく同居した、健全そうな若い男性だった。イケメンというのとも少し違うが、見た目だけで彼に対して悪感情を抱く女性はほとんどないだろうと思わせる、感じの良さと、清潔感がある。

 とどのつまり、ここにいる仁科は、本人が言っていたように、どこからどう見ても 「一人の男」 なのだ。

 制服を着ていた時の彼は、「駅員」 というカテゴリに入っていて、それだけでなんとなく安心させられるものがあったが、こうして一個人としてすぐ前に座っている現在、どう接したらいいものか、今ひとつ判断できない。

「どうかしました?」

 ためらっていると、仁科に問いかけられた。無邪気な表情に、ますます反応に困る。

「あ、いえ、制服を着ている時と着ていない時とでは、ずいぶん印象が違うな、と思って」

 思ったことをそのままするりと口にしてしまってから、失礼な言い方かしら、と後悔した。しかし仁科はちっとも気にしたようではなく、それどころかますます嬉しそうに満面の笑みを浮かべた。

「そうでしょう。制服って、人を五割増しくらい格好良く見せますよね」

「そ、そうですね」

 格好良く見える、とは言っていないのだが、内容自体は反論するほどのことでもないので、曖昧に同意する。相手があまり嬉しそうにしているものだから、少し申し訳ないような気になって、確かに制服姿っていうのは、人を凛々しく見せる効果があるかも……と、一生懸命いろいろな職業を思い浮かべた。

「えっと……警察官とか、消防官とか、自衛官とか」

「駅員とか、車掌とか、運転士とか、保線作業員とか」

 仁科が口に出す例は、非常に偏っている。

「僕は鉄道オタク的なところもあるんですけど、どっちかというと、昔から、鉄道そのものより、鉄道マンに対する憧れのほうが大きかったんですよね。だからもう、その憧れの職業につけた時にはそりゃあ嬉しくて。毎日、制服姿の自分を鏡で見てウットリしちゃってます」

「はあ……」

 この人の言うことは、どこからどこまでが冗談なのか、さっぱり判らないわ、と凪子は思った。

「……好きなことを仕事に出来るっていうのは、幸せですか」

 いくら好きなことでも、仕事にしてしまえば、ただひたすら憧れていた頃とは違う、いろんなものが見えてくることもあるだろう。実際に働いてみて、失望や、落胆もあっただろう。仕事であるからには、苦労もあり、綺麗ごとでは済まされないものもたくさんある。

 そう思いながらの凪子の言葉に、仁科は 「はい」 と迷わず笑って答えた。

 隠されているもの、口には出せないものがあるとしても、そこにあるのは、まったく曇りのない、澄んだ瞳だった。

 ──ああ、羨ましいな、と凪子は心から思った。

 この人は、自分の職業のことが本当に好きで、誇りを持っているんだ。そして、その仕事をしている自分自身のことも、やっぱり好きなんだ。だからこんな目で、ためらいもなく返事が出来るんだ。

 今の凪子には、それを正面から見られない。

「そういうの、いいですね。……あたしは、自分のことが好きじゃないから」

 ぼそりと口をついて出た言葉に、自嘲しそうになった。それを見せたくなかったから、テーブルの上にあった紅茶のカップに手を伸ばし、口許に持っていく。

「え、どうしてですか」

 仁科がきょとんとした。

「…………」

 子供みたいなその顔を見ていたら、ふいに、凪子の胸の内に、話してしまいたい、という強い衝動がせり上がった。

 だって、凪子は今までずっと、悟志のことも、玲佳のことも、全部一人きりで抱え込んでいたのだ。親にはもちろん、友人にも話せなかった。社内では、この三人の間にあったことを気づいている人さえいない。明日から出社してくる悟志と顔を合わせなければならないというこの状況で、何もかもを自分の中にしまい込んでいるのは、本当のことを言うと、しんどくてしょうがなかった。

「──あたしね、恋人を友達に取られちゃったんです」

 なるべく声音を抑えて静かに言ったつもりだったけれど、それでもやっぱり、どうしたって滲んでしまう感情はあったのだろう。仁科が口を閉じ、真っ直ぐに凪子を見返してきた。

 この人にはすでに、枯れた花みたいに萎れた自分を見られているんだし、と思うと、少し気が楽だった。仁科が黙って続きを促してくれているのを見て取り、結局、凪子は悟志との別れから、結婚式のことまでを、すべて話してしまった。

 ところどころでつっかえたし、話が前後してしまったりして、さぞかし聞き苦しい話であっただろう。極力、悟志と玲佳に対する悪口や、言いつけ口にはならないように、言葉を選んだつもりだけれど、凪子は聖人ではないので完璧にそんなことが出来たとも思えない。

 でも、仁科はほとんど口を挟まず、じっと聞いていてくれた。

「そんなわけで、あたしは今の自分が嫌いなんです」

 ちょっと笑って、凪子はそこで話をお終いにしようとした。だから、あなたみたいな人が眩しいくらいなんです、と。

「? なんでですか?」

 仁科が心底不思議そうに問いかける。少し気まずい思いで視線を落とし、手の中のフォークをいじりながら、「ですから──」 と凪子は言った。

「……恋愛を、勝ち負けっていう観点でしか見られないところとか。彼氏に別れを切り出されて、泣いたり喚いたりして取り乱さなかったのは、やっぱりあたしに愛情が不足していたせいなんだろうな、だから捨てられちゃったのか、なんて卑屈なことも考えずにいられないところとか。たくさん人を恨んだり憎んだりして、そういう気持ちを今も心の中にいっぱい溜め込んでる。そんな自分は、イヤになるくらい醜いです」

 駅のホームで、ここで飛び降りてやればあの二人に一矢報いることが出来るだろうかと、浅ましいことまで考えた自分。いつまでも吹っ切れず、明日から悟志の顔を見ることに、これほど怯えている、情けないくらい臆病な自分。

 好きになんて、なれるわけがない。

「よくわかんないな」

 仁科はそう言って、首を捻った。

「この場合、いちばん悪いのはその男でしょ。凪子さんが気に病む必要なんて、これっぽっちもないと思うんですけど。怒ったり恨んだりするのは当たり前だし、なんでそんなに自分を責めることがあるんです?」

 まるで気負うところのない、さらりとした言い方だった。凪子を慰めようとか、力づけようとか、そんな意志もあまり感じられないくらいだ。

「凪子さんは、その男の前でも、友達の前でも、泣かなかったんでしょう。精一杯頑張って、涙を堪えてたんでしょう。結婚式にもきちんと出席して、堂々とした態度を最後まで貫き通したんでしょう。偉いじゃないですか。格好いいですよ。僕だったら、そんな残酷なことをされたら、世界中のすべてを呪っちゃいますよ。あ、もちろん、鉄道と鉄道マンに関わる以外のすべてを、って意味ですけど」

 そして、温かい笑顔でにっこりした。

「凪子さんは、たくさん、つらくて、悲しい思いをしたんですね。そりゃそうです。当然です。酷いことされて、いっぱい傷ついちゃったのに、これ以上自分を痛めつけることなんて、ないじゃないですか」

「──……」

 急に、瞼の裏が熱くなった。慌てて下を向く。

 仁科の声は優しく、穏やかで、凪子の胸にじんわりと沁みていくようだった。

 悟志と玲佳に裏切られて、悔しかった。腹も立った。恋というもの、人の気持ちというものはそういうものかもしれないと、懸命に自分を宥めようとしても、どうしても煮え立つものは収まらなかった。どろどろした真っ黒な感情が、まるで自分を呑み込んでしまいそうだった。醜くて、浅ましくて、こんな女だから恋人にも友達にも見放されるのかと、思考は堂々巡りを繰り返し、いつまでも一人、闇の中に取り残された気分だった。

 でもね。でも、本当は──


 つらかった。悲しかった。

 根っこのところにあったのは、ひたすらそればかりだったのだ。

 悟志も玲佳も大事な人だったのに、二人を憎まずにいられないのが、本当に苦しかった。

 仁科に言われて、凪子はようやくそれを理解した。


「……ありがとう」

 少しだけ震える声でそう言ってから、凪子は顔を上げた。唇を上げ、笑顔らしきものを作るのにちょっと努力したけれど、仁科はまったくはじめと変わらない、人の好さそうなニコニコとした笑いを返した。

「あの、よかったら、仁科さんのお仕事のこととか、聞かせてもらえますか」

 遠慮がちにそう切り出したのは、今さらになって恥ずかしくなってきたためもあるが、本当に興味が湧いてきたためもある。

 仁科はそれを聞いて、異様に目を輝かせた。

「え、いいんですか。僕がそれを話しはじめると、平気で二時間とか経っちゃうんですけど」

「じゃあ、もう一個くらい、ケーキを頼んだ方がいいかしら」

 そう言って、笑ってしまった。今度のは、なんの努力も要らなかった。

「もう一個ですか。うわー、悩むなー」

 悩むのは、次は何を頼むか、という理由らしい。早速メニューをひっくり返し、「凪子さん、何にします? 僕はね、今度はコレにしようかなと思うんですけど」 と嬉々としてケーキを選び始める姿に、凪子はもう一度笑った。




 結局、凪子が仁科の話を二時間も聞く前に、閉店時間が来てしまった。カフェと言ってももとはケーキ屋なので、閉まるのが早いのだ。

「いやー、こんなことなら、普通の喫茶店にしておいた方がよかったかな」

 と仁科は残念そうだった。心ゆくまで鉄道と鉄道マンの素晴らしさを語り尽くすことが出来ず、それが心残りなようだ。

 仁科の話を聞いている最中、ずっと笑い通しだった凪子も、実を言えば残念だった。彼が話してくれるのは、日常の業務に関わる失敗談や面白かったことなどで、いわゆる 「オタク」 にありがちな専門用語に偏ることはなく、鉄道のことはほとんど何も知らない凪子が聞いても、とても興味深く、楽しい内容ばかりだったのに。

「今日はありがとうございました」

 閉店になった店の前で、凪子は仁科に向かって頭を下げた。

「楽しかったし、話を聞いてもらえて、すっきりしました。わざわざ気にかけていただいて、嬉しかったです。もう、大丈夫ですから」

 そう言ったのは、仁科はきっと、駅員としての責任感、親切心の続きとして、凪子に声をかけてきたのだろう、と信じて疑っていなかったからだ。ナンパ、などという言葉を、そのまま鵜呑みにするほど凪子だって子供ではない。

 そこまで心配されるくらい、ホームにいた凪子が、よっぽど普通ではない状態に見えたのか、と思うと少々気恥ずかしい。けれど、その気持ちはありがたいものだと思ったから、素直に頭を下げて礼を言った凪子に、彼はぽかんとした表情をしていた。

「……あれ」

 片方の手をジーンズのポケットに入れて、もう片方の手の人差し指で、こりこりと顎の先を掻く。妙に、困ったような顔つきだった。

「僕、あれだけ強調したつもりだったのに、わかってもらえてませんでしたか」

「はい?」

 意味が判らなくて首を傾げると、仁科は少しだけ顔を赤くした。

「あのね、凪子さん」

「はい」

「僕ね、ホームのベンチに座ってたあなたを見て、キレイだなあって思ったんですよ。あ、いやいや、今は背中に下ろしている髪をアップにしてドレスを着た凪子さんはとても素敵でしたが、そういう意味ではなくね。細い身体で、背中をぴんと伸ばして、ただじいっと真っ直ぐ電車を見ている姿が、非常に綺麗だなと思ったんです。僕、しばらくあなたから視線を外せなかったくらいで。いやでも、あの時、声をかけたのはナンパじゃないんですけどね。鉄道マンが神聖な職場でそんなことをするわけにいきませんから、そこは声を大にして主張しますが。でもやっぱり忘れられなくて、こうして仕事から離れて、ようやく勇気を出して声をかけた次第で、だから、あれとこれとはちょっと違うっていうか。……なんか僕、言ってることがおかしいな」

「…………」

 おかしいといえば最初からおかしかった、とは指摘できないくらい、仁科は真顔で考え込んでいる。

「とにかく、はじめに言ったように、今の僕は善良で公明正大な駅員ではないんです。駅員ではなくて一人の男である僕、凪子さんともう少し仲良くなれたらいいなーってちょっと下心もあったりする僕と、これからもこうして時々お茶を飲んでもらえたら嬉しいんですが、って言えば、わかります?」

 生真面目に訊ねられて、凪子は一分くらい思考が停止した。




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