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最終列車  作者: 雨咲はな
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「……えーと」

 戸惑いながら、凪子は自分の手にある紙コップを見て、それから再び、すぐ前に立っている駅員を見上げた。

 「大丈夫」 って、何が大丈夫なのか、そこからして判らない。しかし、彼はニコニコした表情を崩さないまま、凪子の疑問とはまったく無関係なことを話しだした。

「いやあ、本当はね、ホットの飲み物がいいんじゃないかと思ったんですけど、もうこの季節になると、ホットって売ってないんですよ。あれですね、自販機業界の人は、少し気が早いですよね。まだ夜は少し冷えるし、そうでなくても暑い真夏だって、もしかして温かい飲み物を欲しがる人がいるかもしれないじゃないですか。そういう人のために、二、三種類はホットドリンクを残しておくべきなんじゃないかと思うのに、どれもこれも、コールド、コールドですよ。高校野球の予選じゃあるまいし、そんなにコールドばっかり並べなくたっていいと思いませんか。似たような味のアイスコーヒーをいくつも置くくらいなら、夏でもホットを少しは置けばいいんじゃないかと思いますね、僕は」

 そう言って、同意を求めるように、ねえ? とにっこりする。

「え……は、はあ」

 そんなこと自販機の会社に投書なり電話なりして提案すればいいのでは、と思うような内容を滔々と話されて、凪子は目を白黒させるしかない。

「でも、ココアですから。ホットじゃないですけどね。ココアっていうと、冬の飲み物、っていう感じがして、飲むとあったかくなるような気がするでしょう?」

「…………」

 そうかなあ、と凪子は思ったが、あまりにも駅員が人のよさそうな顔で笑っているので、その言葉を口に出すのはためらわれた。

 曖昧に首を傾け、「……そう、かもしれません」 とぼそぼそと小声で答える。それを聞いて駅員が嬉しそうに笑みを大きくしたので、なんとなくほっとした。

「でしょう? ああよかった。せめてもの折衷案で、氷は入れていませんから。そうやって両手で持っていると、そのうち温かくなってきますよ、きっと」

 どうしてよいやら判らなくて、とりあえず両手で包むように持っていた紙コップは、未だにひんやりとした冷気を凪子の手の平に伝えている。多少ぬるくはなっても、「温かく」 はならないのではないか、と思ったのだけれど、凪子は黙ってちいさく頷いた。

「あなた、ずいぶんと寒そうな格好してるでしょう。このままだと風邪をひくんじゃないかと思って。駅のホームに座ってるお客さんが風邪をひいてしまうのも、なんだか申し訳ないような気がしましてね、ちょっとはあったかくなるといいなあと思ったんですよ。そう思ったのは僕の個人的な気持ちですが、底にあるのは鉄道マンとしての真面目な気持ちですから、これは断じてナンパではありません。ねえ、ひかりさん」

「はい?」

 何気なく最後に加えられた言葉に、思わず問い返した。

 ひかり、って誰の名前だろう、と訝しむ。もしかして、この人、あたしを誰かと間違えてでもいるのかしら。

「あの、あたし、ひかりって名前ではないです」

 だが、駅員はあははと笑い飛ばした。

「いやだなあ、そんなことは判っていますよ。ひかりっていうのはとりあえずの仮名です。名前がないと、お話ししにくいでしょう? でも、ナンパでもないのに、女性にいきなり名前を訊ねるのは失礼じゃないですか。ですから、この場だけの名前を、勝手ながら僕がつけさせていただきました」

「…………」

 はあ、と唖然と返事をするしかない。

「あの、でも、なんで 『ひかり』?」

「知りませんか、一世を風靡した夢の超特急の名前です」

「…………」

 ちっともわけが判らない。しかし彼としては、これはナンパではなくただの親切心、ということを強調したいのだな、というのは察して、凪子はまた 「はあ」 という返事をした。

 とにかく、ちょっと変わった駅員ではあるが、悪い人ではないようだ。多分、ずっとホームのベンチに座ったまま動かない奇妙な女を、本当に心配して、声をかけてくれたのだろう。

 そしてようやくその時点で、もしかして別の心配もされているのかも、と思いついた。

「……あの、変なことを考えているわけじゃありませんから」

 何時間もぼんやりとベンチに座り、電車が来るのを眺めているような人間が何をするか、駅員でなくたって想像の帰結するところは一つしかない。少し慌てて否定しながら、でも──と、その一瞬、頭の中をいろんなことが過ぎってしまうのは止められなかった。


 でも、もしも本当にあたしが今、ここから飛び降りでもしたら、悟志と玲佳は自分たちのことを悔やむかしら。

 これからのあの二人の人生に、消えない傷跡を生々しく残してやれるかしら。

 この先二人が築くであろう、明るくて温かくて幸福な未来に、暗い影を落としてやれるかしら──


 ほんの束の間胸の中に湧き上がったその強く激しい衝動は、眩暈がしそうなほど魅力的なものに思えた。この真っ暗な駅のホームで、ぽつんと一人きり佇んでいたら、凪子はもしかしたら本当に、線路に向かって足を踏み出していたかもしれない。

「ああ、そうですね、ひかりさんはそんなことはしませんよね」

 朗らかな声に、はっと我に返る。

 目を上げたら、駅員が、さっきまでのニコニコ顔とは少し違う、穏やかな笑みを顔に乗せていた。今の瞬間、自分の頭を通り過ぎて行った卑しい思いを見透かされたような気がして、凪子は恥じ入って顔を伏せる。

「第一、もしもあなたがそんなことをしたら、僕、困ってしまいます。電車に轢かれて、飛び散ったあなたの手や足を回収しなきゃいけないの、僕ですし。幸いまだ経験はないんですけど、しばらく眠れないほどのトラウマになる作業らしいですよ。それに次に来るのは終電ですからね、人身事故で電車が止まってしまうと、乗客のみなさんは家に帰るのも一苦労です。僕や乗客のみなさんに迷惑をかけたり、困らせるようなことは、ひかりさんはしませんよ」

「…………」

 台詞はちょっと脅されているみたいなのだが、駅員はにこやかに微笑んだままだ。暗いのに、彼の周りだけ、ほんわかとした陽射しが包んでいるみたいに見えた。

「ちょっとだけ、疲れちゃったんですね。そんな時は、温かいココアを飲むといいです」

 凪子は手の中の紙コップをじっと見て、それから言われたとおり、素直にそれを口に持っていった。こくんと口に含んだココアは、やっぱりまだ冷たくて、それでも甘くて、どこか懐かしい味がした。

 それが喉を通ってお腹に入った時、はじめて、思った。


 ──ああ、ホントだ。温かいわ。


 ぽとりと、涙の粒が落ちた。

「ねえ、ひかりさん、ここに座って、電車が出たり入ったりするのを見ているのは楽しいでしょう。僕も楽しくてたまりません」

 凪子が涙を落としたことを絶対に気づいたはずなのに、そんな素振りはちらりとも見せずに、駅員はそう言った。

「だってねえ、電車は本当にいろいろな人を乗せて走るじゃないですか。仕事に疲れた人とか、たくさん遊んで満足している人とか、酔っぱらってご機嫌な人とか。たくさんの人の、それぞれの事情とか思惑とか感情とか悩みとか喜びとかを抱えて、毎日毎日電車は何食わぬ顔をして律儀に走っているわけですよ。そう考えるとねえ、まるで電車それ自体が、宝物を詰め込んだ宝石箱みたいに思えませんか。僕なんかもう、そういう電車が可愛くていじらしくて、時々本気で泣きそうになるくらいです」

 言っていることはよく判らないが、熱弁をふるうこの駅員が、電車を愛していることだけは間違いないらしい。どう答えていいものか迷って、凪子は線路の向こうに視線を投げる。

「……次が、終電なんですよね」

「そうです。二十三時二十五分当駅着の予定です。ダイヤの乱れはありませんので、予定到着時刻通りにやって来ると思います」

 駅員らしい几帳面な答えに、凪子は頷いた。

 それから、

「……あたしは多分、最終列車に乗れなかった」

 と、線路の先を眺めながら、独り言のように呟いた。

 凪子はもう二十七だ。結婚を焦ったことはないが、年齢的にいって、悟志がその相手になるのかなあ、といつも漠然と考えていた。悟志もそのつもりでいるんじゃないのかと、なんの根拠もなく思って、時には二人の結婚生活、みたいなものをぼんやり夢想したこともあった。

 最初は共働きで、どこかのマンションに住んで、いつか子供が出来て、そして──

 呑気な話だ。悟志のほうにそんなつもりはまるでなく、凪子の知らないうちに、他の女とさっさと幸せを掴んでしまった。こんな形で裏切られて、これからまた、恋愛を始める気力も根性もない。大体、もっと若い頃ならいざ知らず、こんな年齢の女に、そうそう恋の相手が見つかるとも思えない。

 これが最後の恋だったのかも。楽しい思い出がすべて消え去ってしまうような、見苦しくあっけない幕切れの恋だったけれど。

 最終列車はもう、凪子の前を通り過ぎた。凪子は取り残され、茫然と一人、立ち尽くすしかない。

「大丈夫ですよ、ひかりさん」

 と、駅員がさっきまでとまるで変わらない口調で言った。

「最終列車に乗れなくたって、翌日にはまたきちんと始発列車がやってくるんですから、それに乗ればいいんです。日本の鉄道は定時運行が誇りなんですからね、見くびってもらっちゃ困ります。最終列車は車庫に入って、点検されて掃除されて、次の日からまた元気よく線路を走るんですよ」

「…………」

 少しズレたことを胸を張って力説されて、凪子は思わずぷっと噴き出してしまった。

 この人、本当に鉄道が好きで、自分の仕事も好きなんだなあ、と思うと、どうにもこうにも憎めない。

「ああ、笑いましたね。ひかりさんは、そのほうがずっといいです」

 帽子のつばを指でつまみ、駅員がにっこりと笑った。

 笑いを返すのは、案外、さして苦労はなかった。そのことに自分自身安心して、凪子はベンチから立ち上がった。

「あれ、終電は見ていかないんですか?」

 駅員は少し残念そうだった。これから僕の宝物を見せてあげようと思ったのに、と口を尖らせて不満そうにする子供みたいで可笑しい。

「はい、帰ります。今なら、すんなり家に帰れそう」

 行儀が悪いけど、このココアを飲みながらアパートまでの道を歩こう、と思った。ココアを飲んで、この妙な駅員のことを考えて、思い出し笑いをしながら歩いていれば、きっと帰る部屋が真っ暗なのも、気にならない。

 じゃあ、と軽く頭を下げて、ホームの階段へと向かった。

 階段の手前で振り返ったら、駅員はその場所でまっすぐ立って、やっぱりニコニコしながら凪子を見送ってくれていた。

「あの、あたしの名前、『ひかり』 じゃなくて、『凪子』 です」

 どうして最後になってそんなことを言う気になったのか、自分でもよく判らないのだけれど、気がついたら口を動かしていた。自分としては、ありがとうの気持ちを、そうやって表したかったのかもしれない。

「なぎこさん、ですか。やあ、いい名前です」

 駅員は嬉しそうに笑って、そう言った。



          ***



 次の日から、駅を利用するたび凪子は少しそわそわしたが、あの駅員の姿を見かけることはなかった。

 考えてみれば、それも当たり前のことなのかもしれない。毎日同じ駅に勤務するわけではないのだろうし、シフトだってあるだろう。朝はともかく、会社から帰る時間は凪子だってまちまちだ。駅員は数人いるけれど、窓口の向こうにいたら、改札を出入りするだけの凪子からは、顔なんてほとんど見えない。

 大体が、あの駅員は帽子を深くかぶっていて、顔立ちもはっきりとは見えなかった。日にちが経つにしたがって、記憶も段々とおぼろげになっていく。駅員というのがまた、みんな同じ制服を着ているので、印象は誰もかれも同じように見える。

 半分以上諦めながら、せめて胸についている名札を見ておけばよかったかなあ、と後悔するような気分と、でもこれでよかったのかもね、という気分が同時に湧いた。

 大分みっともないところを見られてしまったし、改めて顔を合わせると、自分もきっと恥ずかしい思いをするだろう。あちらだって、どういう顔をしていいのか判らないかもしれない。お礼を言っても、お互いに気まずくなるだけかもしれないし。

 ──通りすがりの関係のままでいたほうがいいんだ。

 ちょっとだけがっかりもしたけれど、凪子はそうやって自分を納得させた。




 一週間が経った。

 その日は、凪子は駅にいる誰のこともろくすっぽ目に入らずに、ただただ憂鬱な気分を抱えて、どんよりとうな垂れながら仕事からの帰路についていた。

 ……明日から、いよいよ悟志が出社してくるのだ。

 玲佳との海外ハネムーンから帰国して、新婚でございますというバカ面を下げて会社に出てくる元彼に、一体どんな顔をすればいいというのか。悟志と凪子は部署は違うが、デスクがあるのは同じフロアだ。事務職の凪子と違い、悟志のほうは外回りが多いから、会社にいる時間が少ないとはいえ、それでも朝や夕方目にしてしまうのはどうしようもない。

 明日になったら、新婚旅行の土産を渡して廻る悟志とか、旅行先での出来事を楽しそうに語る悟志とか、同僚たちにからかわれてニヤケる悟志なんかが、イヤでも視界に入ってきてしまうわけだ。その時のことを想像すると、どうしたって、気が塞いでしまわずにはいられない。

 ああ、イヤだなイヤだな、休んじゃおうかな、と後ろ向きなことを悶々と考え続けながら、駅の改札を出た。

 でも明日一日休んだところで、なんの解決になるわけでもない。凪子が、そして悟志が、同じ会社にい続ける限り、こういう事態は避けられないのだ。ああもう、腹が立つ。

 でも、自分から会社を辞めるのも業腹だ。悟志のことさえなければ、今やっている仕事自体は、自分に向いているし、好きなのだから。上司からの信頼も得ていると自負しているし、労働条件としても整っている。今さら転職して、二十七歳の凪子に、ここと同程度の仕事先が見つかるとは思えない。

 大体、なんで、あたしが尻尾巻いて逃げるような真似をしなきゃいけないのよ、という気持ちも、もちろんある。悟志にも、玲佳にも、自分の弱いところなんて見せたくはない。あんたたちのことなんて、もうどうだっていいのよ、というところを見せでもしなければ、やっていられない。内心はともかく、外見上はそういう虚勢でも張っていないと、あまりにも自分が惨めだ。

「あのー」

 とにかく、明日はしっかり気合いを入れて、家を出よう。会社に着いたら猛然と仕事をして、別の部署のことなんか知りません、という顔をしていよう。できるわ、きっと。「仲良しの玲佳ちゃんが退職して寂しいでしょう」 なんてことを先輩に言われても、そうですね寂しいですと白々しいことを笑って言えたじゃないの。

「あの、すみません」

 途中で、美味しいケーキでも買っていこうかな。そうしたら、少しは気がまぎれるかもしれないし。もうダイエットなんかするもんか。痩せても太っても、誰も気にする人間なんていない。

「すみません、よろしければ僕とお茶してもらえませんか」

「…………」

 ずっと無視していた背後からかかる声が、あまりにもベタなことを言うものだから、思わず凪子は足を止めて後ろを振り返ってしまった。この手のことには聞こえないフリをしてスルーするのがいちばんだ、ということくらいは知っていても、今どきそんなことを言うやつの顔が見てみたい、という好奇心に負けた。

 そこにはやっぱりというか若い男が立っていて、彼は、凪子が振り向いたことに、どこかほっとしたような顔をした。

 ぱっと見、二十代半ばくらいか。こんな見え透いたナンパをするわりに、それほど軽薄な感じはしない。恰好は普通のポロシャツとジーンズ姿、顔立ちはそれなりに整って、爽やかな好青年と言ってもいいくらいだ。

 その顔が、人懐っこく、にこっと笑った。

 あ、と凪子は口を丸く開けた。

「あ──え、駅員さん」

 制服ではない彼は、本当にどこにでもいそうな若者で、すぐには判らなかった。けれど、この声、この笑顔、確かに、あの時の若い駅員に間違いない。

「はい、仁科です。こんにちは、凪子さん」

 自分から名乗って、彼はまたニコニコした。

「でも、今日の僕は仕事が休みなんで、駅員じゃないんですよ。はい、ここ、重要ですから、覚えておいてくださいね。今の僕は公私混同をしない謹厳実直な鉄道マンではなく、一人の男ですから」

 混乱しながら 「は?」 と問い返す凪子に、仁科は笑いかけた。

「ですから、これは堂々と、ナンパです」




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