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【AI小説】僕たちが見た巨大な世界|2026

掲載日:2026/06/17

 僕たちの終の棲家は、世界の過酷さから隔絶された、仄かに熱を帯びた細道の奥にある。

 外の荒涼とした沈黙とは対照的に、そこには絶えず家族の温い吐息が満ちていたが、ここ数日、頼みの綱だった食料の蓄えが底をつきかけていた。

 母の乾いたため息の音を、僕は幾度も闇の底で聞いた。

 まだ体格の定まらない弟たちの、飢えに狂う微かな嘆き声が響くたび、母の触れる指先は行き場をなくして迷う。

 その瞳に宿るものが、言葉にならずに空間へと融けていた。

 外気は急速に冷え込み、あの絶対的な死の季節が近づいている。

 備えのないまま白濁した季節を迎えれば、待つのは全滅の二文字だけだった。


 開け放たれた漆黒の境界から、人工の淡い光が鋭く差し込んでいる。

 前を行く兄の背は、幾重もの荷を背負ってなお、凍りついたように真っ直ぐに伸びていた。

 背負った荷の収まりを確認する指先の、無駄のない冷徹な動き。


「五樹、落ち着け。震えがこっちまで響いてるぞ」

「うん……大丈夫。ねえ、兄ちゃん、その荷物、半分分けてよ。僕だってこれくらい運べる!」


 兄は一度も振り返らなかった。ただ、背負った荷の収まりを確かめる指先だけが、わずかに動いた。


「駄目だ。お前は身軽でいろ。そのすばしっこさが、いざって時、俺たちの命綱になる」

「……うん。わかった。兄ちゃんの足元、僕がしっかり見てる」


 兄の、硬く乾いた手のひらが僕の肩を強く叩く。

 かつて父と兄がこの光の中へ消えていった日の記憶が、足の裏から這い上がってきていた。

 あの日、父は二度と戻らなかった。

 けれど今の僕には、背中を預け合える兄ちゃんがいる。

 その重みだけで、僕はまだ世界に繋ぎ止められていた。


    ◇◇◇


 一歩を踏み出すと、視界は果てのない灰色の平原へと切り替わった。

 どこまでも均一な人工の床が延び、遥か彼方には、天を支えるかのような正体不明の巨大な構造物がいくつも乱立している。

 見上げるべき空はなく、ただ均一な蛍光の白が網膜を灼くだけだ。


「離れるな。俺の影を踏む距離を保て」


 兄の声は、かつて我が家の暗がりのなかで語りかけてくれた時の優しさを完全に剥ぎ取られ、研ぎ澄まされた金属のように硬い。

 あの日を境に、兄の輪郭は変貌してしまった。

 何に怯え、何を視ているのか、僕には測り知れない。


 やがて、平坦な灰色の世界が唐突に終わりを告げ、目の前に垂直の絶壁がそびえ立った。

 規則正しく切り出された、見上げるような褐色の巨大な段差の連続――行く手を阻む峻険な崖だ。


「……ここを登るの、兄ちゃん?」


 兄は答えない。垂直に切り立った段差を、黙って見上げている。


「奴らの縄張りが変わったんだ。ここを越えなきゃ、食料には届かない。……五樹、足元はいけるか?」

「まだ滑らないよ。ちゃんと引っかかる」


 兄が第一段に手をかけた。


「よし。べったり張り付くなよ、重心は常に前だ。ここは滑るぞ」

「兄ちゃんだってその大荷物じゃん! 僕が先に行って、安全なルートを見つけるよ!」


 兄はフッと口元を緩め、躊躇うことなく第一歩に手をかけ、己の肉体を垂直の空間へと引き上げ始めた。

 僕もすぐに後に続いた。

 手足の関節に、自重の何倍もの負荷がかかる。

 爪先が滑れば、待つのは灰色の奈落への墜落だ。

 一段登るごとに、胸の奥が焼き切れるような熱を帯びていく。


 ふと見上げた先、大荷物を背負って必死に壁にすがりつく兄ちゃんの背中が、あの日、光の中に消えていった父さんの背中と重なって見えた。

 もし、ここで兄ちゃんまでいなくなってしまったら――。

 押し寄せる不安に耐えかねて、ずっと胸の奥に閉じ込めていた言葉が、荒い息と一緒に漏れ出ていた。


「兄ちゃん、あの日……本当は何があったの? 父さんは、どうして……」


 兄の動きがぴたりと止まる。

 見下ろすその双眸には、深い沼のような暗翳が沈んでいた。


「……探しても、何も残っていなかった」


 声に、かすかな震えが混じっていた。


「奥で食料を見つけた瞬間、奴に突かれた。あの白い霧だ。父さんは俺に『逃げろ』って……。俺は、逃げたんだ」

「兄ちゃんは悪くない!」

「父さんを、見捨てたんだ……」


 兄の指先が、次の段の縁を掴んだまま動かない。


「……でも、兄ちゃんが帰ってきてくれたから、みんな今日まで生きられたんだよ」


 返答はなかった。ただ、兄の手が、ゆっくりと上へ動いた。


「……動け。本番はこれからだ」


 兄の強張らせた指先が、構造物の角に擦れて微かに鈍い色の液体をにじませる。

 けれど、その瞳の奥の凍てついた暗闇が、ほんの少しだけ揺らいでいた。


    ◇◇◇


 段差の頂上へ辿り着いた時、空気の質が変わった。

 鼻腔を突く、人工的で濃厚な甘い芳香。

 視線の先には、周囲の色彩から完全に浮き上がった、鮮烈な赤を纏った奇妙な構造物が鎮座していた。

 それはまるで、迷い込む者を誘う極彩色の墓標のようだった。


「兄ちゃん、見て、あそこ! すごく甘い匂いがする……! あそこなら、すぐに食べ物が見つかるかも!」


 僕の足が、自然と前へ出ていた。


「待て、五樹! 近づくな! その匂いを嗅ぐんじゃない!」


 兄の声が、僕の背後で鋭く弾ける。


「でも、あの中に落ちてるんだよ! 弟たちのあのごちそうが……!」


(頭の奥が痺れる。間違いない、弟たちが大好きな、あの褐色に染まった脂の塊だ……!)


「罠だ! 止まれ、五樹!」

「嫌だ! 僕はもう……母さんのあのため息を聞きたくないんだ!」


 焦燥に駆られた僕の身体は、制止の声を置き去りにして走り出していた。

 その直後、足裏を襲ったのは、底なしの泥濘に捕らえられたかのような、絶対的な拘束感だった。

 繊維の隙間から這い上がってくる半透明の粘着物質が、僕の皮膚を、肉を、床へと縫い付けていく。


「動くな! 動けば動くほど沈む!」


 視界が激しく揺れ、赤い構造物の内部が露わになる。

 そこは、かつてここを目指した同胞たちの、乾燥し、朽ち果てた骸が折り重なる地獄絵図だった。

 逃れられない死の匂いが、息を吸うたびに全身へと染み渡っていった。


「五樹、俺の手を掴め! 引っ張るから、床を強く蹴るんだ!」

「兄ちゃん、来ちゃ駄目だ! 巻き込まれる!」

「黙ってろ! 一緒に帰るんだよ!」


 飛び込んできた兄が、僕を強引に引き寄せた。

 粘着物質が引き剥がされる不快な破壊音が響く。

 兄の足元にも魔の手が伸び、その身体が沈み込みかけたが、僕の必死の蹴りと、兄の自らの限界を超えた力が噛み合い、僕たちは泥濘から引き抜かれた。

 二つの肉体は、赤い墓標の外へと転がり落ち、激しく床を叩く。


「すまない、俺の油断だ。お前の焦りに気づけなかった……」


 兄の声が床に向かって落ちていた。二人とも、しばらく動けなかった。


「ううん……僕のせいだ。僕が馬鹿だったから、兄ちゃんまで死ぬところだった……っ!」

「……責めてるんじゃない。あの匂いは、飢えてたら誰だって狂う。俺だって一瞬、足がすくんだ。……お前が必死に床を蹴ってくれたから助かったんだ。怪我はないか?」

「うん、動ける。……ごめんね、兄ちゃん。もう絶対に無茶はしない。息を合わせよう」


 兄がゆっくりと体を起こした。


「ああ、頼むぞ。ここからはお前の力が必要だ」


 緊迫した空気を紛らわそうとする兄の横顔には、しかし、一寸の猶予もないことが狂おしいほどに刻まれていた。


    ◇◇◇


 さらに進んだ先、世界の中心に、天を突く四本の太い漆黒の柱がそびえ立っていた。

 見上げる遥か上方、巨人の食卓と呼ばれるその頂に、目指す本物の食料がある。

 柱の側面を這う、一本の太い黒い索条にすがり、僕は垂直の世界へと踏み出した。

 一歩、また一歩。

 背後の空間が広がるにつれ、高度への恐怖が指先を強張らせる。

 壁面に埋め込まれた格子の口から吹き出す、不規則な人工の気流が、小さな身体を掠め、引き剥がそうと吹き荒れる。


「兄ちゃん、この風、一定のタイミングで弱くなる! 吹き止む瞬間を狙おう!」


 一瞬、気流が弱まった。


「なるほど、お前の目が頼りだ! 合図をくれ、五樹!」

「……今だ! 風が止むよ、登って!」

「よし、俺に続け!」


 息の合った連動で、僕たちは確実に高度を稼いでいく。

 しかし、その時、背後で世界の底が鳴動した。

 四足の巨獣――家猫が、音もなくその獰猛な輪刻を現した。

 毛むくじゃらの山が、僕たちの数倍の速度で垂直の柱へと迫る。


「跳べ、五樹! 下の隙間へ!」

「でも、こんな高さから──っ!」


 背後で、爪が柱に食い込む音が響いた。


「俺を信じて跳べ! お前ならいける!」


 索条から手を離し、僕たちは下方のわずかな隙間へと身を投げ出した。

 落下の衝撃が全身を襲う。

 巨獣の鋭い爪が空気を引き裂く風圧が、背中を正確に捉えていた。


「ぐ、あ……っ!」

「兄ちゃん!?」


 兄の身体が、巨獣の前足によって弾かれ、構造物の壁面へと叩きつけられる。

 動かない兄。

 迫る肉食の顎。


「やめろ! 兄ちゃんから離れろ!」


 僕は逆上したまま、床を激しく叩いてカサカサと不穏な音を立てた。自らの存在を誇示するように身を躍らせ、巨獣の鼻先へと猛スピードで突っ込んでいく。


「こっちを見ろ、このデカブツ! お前の相手は僕だ!」


 注意がこちらに向いた刹那、僕は壁の間に生じた、巨獣の爪も届かない極小の亀裂へと滑り込んだ。

 暗黒の狭間で、外から打ち鳴らされる破壊の爪音を、全身の激しい震えとともに聞き流す。

 やがて、獲物を諦めた巨獣の、低い呪詛のような唸り声が遠ざかっていった。


    ◇◇◇


「兄ちゃん、しっかりして……っ! どこが痛むの!?」


 兄は床に倒れたまま、しばらく動かなかった。


「……すまない、五樹。まさかお前に命を救われるとはな。……少し打っただけだ、動ける」

「無理しないで。ここからは、僕が兄ちゃんの盾になる」


 兄の口元が、わずかに緩んだ。


「はは……頼もしい相棒だな。だが、無茶は二人で半分こだ。食料の山は、もう目の前だぞ」


 亀裂から這い出し、満身創痍 of 兄を肩で支えながら、僕たちはついに目的の頂、光の溢れる大空間へと至った。

 そこには、僕たちの数ヶ月分を賄って余りある、乾いた粒の山と、褐色に染まった脂の塊が積み上げられていた。

 張り詰めていた表情が、その光景の前でほんの一瞬、緩みかける。


「……本当に、あったんだね」


 兄は答えなかった。その足が、静かに一歩前へ出た。


「ああ。お前が風を読み、あの獣を引きつけてくれたおかげだ。……さあ、喜ぶのはここを離れてからだ。家族のために、詰め込めるだけ詰め込むぞ」

「うん! 一緒に持って帰ろう!」


 僕たちは言葉を交わすことなく、ただ一心不乱に、背負った荷の中にその命の欠片を詰め込んだ。

 家族の、あの飢えた眼孔を満たすための重みが、確実に肩へと蓄積されていく。


 しかし、世界は最後まで僕たちを赦さなかった。

 鼓膜を破らんとする、空気を引き裂く巨人の絶叫。

 遥か上方、この家を支配する『彼女』が、その絶対的な質量を伴って姿を現した。

 見上げる二つの巨大な眼球は、冷酷な駆除の意志に満ちている。

 彼女の手が、銀色に鈍く光る円筒を掲げた。


「五樹、持てるだけ持ったな? 振り返るな、あの索条を滑り降りろ!」


 兄の瞳は、驚くほど静謐だった。


「兄ちゃんは!? その体じゃ一人じゃ無理だよ! 僕が支える、一緒に逃げるんだ!」


 兄が僕の目を見た。


「お前が残れば二人とも死ぬ! 五樹、お前なら一人でも家族を守れる……あの獣を引きつけた時、確信したんだ!」

「そんなの駄目だ! 兄ちゃんじゃなきゃ駄目なんだよ!」


 シュウウウウ、という不穏な高音とともに、世界のすべてを白く染め上げる死の気流が噴射された。

 胸の奥を、皮膚を、一瞬で冒す毒の霧。


「嫌だ! 兄ちゃんを置いていけるわけないだろ!」

「父さんと同じ役目をさせてくれ。……五樹、お前を相棒に持てて良かった」


 兄は僕の背を、奈落へと向かって全力で突き飛ばした。

 索条にしがみつきながら落下していく僕の視線の先で、兄は毒の霧のただ中へと、あえて自ら進路を取って駆けていく。

 巨人の視線を、その噴射の軸を、僕から逸らすために。


「五樹! 生きろーーっ!」


 それが、白濁した世界に消えていく兄の、最後の輪郭だった。

 霧の向こうで、ひとつの確かな質量が、音を立てて床へと崩れ落ちる。


    ◇◇◇


 やがて気流が収まり、静寂が戻った世界の底で、僕は兄の傍らへと辿り着いた。

 その肢体はすでに冷たく、しかしその表情には、奇妙なほど安らかな充足が張り付いている。


 背負った荷の重みが、肩に深く食い込んでいた。

 これは、父が、兄が、自らの命の炎と引き換えに僕へと託した、家族の命そのものだ。

 僕は立ち上がり、溢れ出ようとする水滴を腕で乱暴に拭った。

 一歩踏み出すたびに膝が折れそうになり、指先は未だに震えが止まらない。

 我が家で待つ母は、この結末に言葉を失うだろう。

 弟たちは、偉大な兄の不在をいつ理解するだろうか。


「兄ちゃん……僕、行くよ。もう泣かない。……だって、僕は兄ちゃんの、最高の相棒だから」


 二度と振り返ることはしない。

 前を向く。

 ただ、前だけを。


 重荷を抱える手足を、決意という名の冷たい熱で支配しながら、僕は灰色の荒野へと再び歩を進めた。

 一歩、また一歩。

 その背筋を、かつて僕の前を歩いていた、あの無敵の背中のように、どこまでも真っ直ぐに伸ばして。




──THE END──

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