「契約通り、私に干渉するな」と言った夫は、鏡の中でまったく別の顔をしていました
「契約通り、私に干渉するな」と言った夫は、鏡の中でまったく別の顔をしていました
家の借金のかたに、冷酷と噂の辺境伯へ嫁がされた。
初夜、夫は氷の声で告げた。「契約通り、私に干渉するな」
好都合。三年我慢すれば、慰謝料で弟を救える。
そう決めた夜、寝室の古い姿見で、鏡越しの夫と目が合った。
笑っていた。いつも氷の顔を貼りつけている夫が、泣きそうな目でこちらを見つめていた。
「契約通り、私に干渉するな」
夫となった人は、それだけ言って背を向けた。
ルシエ・ライグランド、二十歳。今日から公爵夫人。けれど夫の声はあまりに冷たくて、結婚式から三時間、一度も笑わなかった。
ヴィルフリード・アーデルヴェク公爵。
父の借金を肩代わりする代わりに、私を娶ると言った人。ただし、形だけの妻。手紙にはそう書かれていた。
──手紙の字は、丸くて優しかったのに。
目の前のこの人の声は、まるで別人のようだった。
「……承知いたしました」
頭を下げた。声は震えなかった。商家の末娘は、場の空気を読むのが仕事だった。
夫はそれだけで階段を上がっていった。マントの裾が、床のほこりを舞わせた。
残ったのは、白髪の老執事と私。
ホールの奥に大きな鏡があった。床から天井まで届く古い姿見だ。
何気なくそちらを見て、息を止めた。
鏡の中の夫が、こちらを見ていた。
階段を上がっていったはずの夫が、鏡の中だけ振り返って、こちらを見ていたのだ。
しかも、微笑んでいた。
目の色が違う。冷たい石ではなく、澄んだ茶色。
別人だった。
(……え?)
まばたきをした次の瞬間、鏡の中の夫はもういなかった。ただ、私と老執事の姿だけが映っていた。
「奥様」
老執事の声で、われに返った。
「お部屋へご案内いたします。東棟でございます」
「……はい」
頷いた。心臓がまだ強く打っていた。
気のせい。そう思いたかった。長い一日だった。疲れているだけ。
けれど、東棟へ向かう廊下の鏡という鏡に、誰かが映っているような気配が、ついてきた。
廊下の小さな丸鏡。曲がり角の縦長の鏡。階段の楕円の鏡。どの鏡も、通り過ぎたあと、ほんの一瞬だけ別の影が残っているような気がした。
振り返らなかった。
振り返ったら、何かが待っていそうな気がしたから。
※
東棟の部屋は、思ったより広かった。
大きな寝台、古い化粧机、本棚、そして黒い枠の姿見。
「こちらをお使いいただきます」
老執事ことエルリンは、姿見の前で両手を重ねた。
「旦那様のお母様が、朝晩お使いだった鏡でございます」
「大切なものを、ありがとう」
鏡を見た。灰色のドレスを着た私が映っていた。栗色の髪、琥珀色の瞳。何の変わったところもない、私自身の姿。
「お夕食はお部屋にお運びいたします」
「……旦那様とご一緒では?」
「別室でとのご指示でございます」
エルリンの言葉が、ほんのわずかに遅れた。
「……承知しました」
エルリンは一礼して部屋を出ていった。扉が閉まる音。軽い鍵の音。遠ざかる足音。
一人になって、深く息を吐いた。
(これが、結婚……)
胸の中で、乾いた笑いが起きた。けれど鏡に映る顔は、笑っていない。
ふと、髪のリボンをほどいた。栗色の髪が肩に落ちた。
その瞬間、鏡が、かたり、と小さな音を立てた。
息を止めた。
鏡の中の私は、微笑んでいた。
こちらは、微笑んでいないのに。
次の瞬間、鏡の中の像が変わった。
立っていたのは、さっきの夫だった。
いや、夫と同じ顔の別の男だった。
茶色の瞳。襟元のボタンを一つ開けたラフな姿。そして、控えめに微笑んでいる。
夫は今日、一度も笑わなかった。けれど鏡の中のこの人は、こちらに向かって、たしかに微笑んでいた。
両手で口を覆った。
鏡の中の男は、両手で口を覆わなかった。
別人。
鏡の中の男が口を開いた。声は聞こえない。けれど唇の動きで、読み取れた。
──こんばんは。
口が、自然に動いた。
「こ、こんばんは」
声は震えた。
鏡の中の男は、嬉しそうに頷いた。目尻が細くなった。
膝をついた。スカートが床に広がった。鏡の中の男と、目の高さが合った。
「……あなたは、誰?」
声に出して聞いた。
鏡の中の男は、少し首を振った。それから胸の前で指を組んで、深く頭を下げた。
貴族の礼だった。
そのとき、扉がノックされた。慌てて立ち上がった。鏡の中を見ると、男はもう消えていた。
「奥様、紅茶をお持ちいたしました」
エルリンの声だった。
「あ、……どうぞ」
扉が開いた。エルリンは銀のお盆を持っていた。湯気の立つ紅茶、はちみつの小瓶、角砂糖のお皿。
彼の視線が一瞬、姿見へ流れた。
それを見逃さなかった。
「エルリンさん」
「はい」
「この鏡は、何ですか」
エルリンは静かに紅茶を注いだ。湯気が老人のあごの下で、細く立った。手は震えなかった。
「奥様。お聞きになる前に、まずは一口、紅茶をお召し上がりください」
「紅茶を?」
「落ち着いてお話ができるよう、温度を整えました」
カップを取って、一口すすった。甘く、ほんのり苦く、薔薇の香りがした。身体の芯が、少しほどけた。
「……ありがとう」
エルリンは椅子をすすめた。座った。
「奥様は、何をご覧になりましたか」
問いはそう来た。
「鏡の中に、別の人がいた気がしたの」
「左様でございますか」
エルリンは驚かなかった。
「それはお母様ゆずりのお血のせいでございましょう」
「母方?」
「奥様のお母様のご実家は、三代前まで『鏡の民』と呼ばれた家系でございました」
「鏡の民……」
復唱した。母が生前、寝物語に一度だけ語った言葉だった。
「詳しいことは、私の口からは申せません。ただ、本棚の下の段に古い本が一冊ございます。お母様のご遺品です」
「母の?」
立ち上がって、本棚に向かった。
下の段に紺色の革表紙の本があった。表紙を開くと、見返しに母の文字があった。
『ルシエへ。いつかこの鏡を見ることになったら、この本を開きなさい』
息を詰めた。
(……お母様)
涙は出なかった。けれど、胸の奥が熱くなった。
「奥様。本日は長い一日でございました。鏡の奥のお方も、夜が深くなれば眠られます。今夜はお休みくださいませ」
エルリンはお盆を下げ、部屋を出ていった。
本を胸に抱いて、寝台に座った。
母は、知っていたんだ。いつかこの鏡の前に立つことを。
そう思ったら、不思議と怖くなかった。
母が、そっと背中を押してくれている気がした。
※
翌朝、本を半分まで読み終えた。
鏡の民の歴史。鏡越しに魂を移す血筋。百年前、貴族の権力争いに巻き込まれて多くが殺された。生き残りは姓を隠し、商家や農家に嫁いだ。母方は、そのうちの一家だった。
そして、もう一つの能力。
「封じ……」
顔を上げた。
悪意のある魂を、鏡の中に閉じ込めることができる。逆に、罪のない魂を封じることもできてしまう。
──もし、鏡の中の男が「封じられた側」だったら?
朝の光が窓から差していた。鏡の表面は静かだった。
化粧机の前に座った。
「おはようございます」
小さく声をかけた。鏡の中は反応しなかった。
(眠っているのね)
朝食の時間になり、エルリンが扉をたたいた。
「奥様、朝食のご用意が整いました」
身支度をして部屋を出た。食堂は西棟にあった。
長いテーブルの向こうに、夫が座って新聞を広げていた。
「おはようございます」
一礼しても、夫は新聞の端で小さく頷いただけだった。
席についた。スープ、焼きパン、果物。
「ヴィルフリード様」
思いきって呼びかけた。
返事はなかった。
「ヴィルフリード様」
もう一度呼んだ。
新聞が下がった。
「何だ」
声は冷たい石。
「東棟の古い姿見を、見てもよろしいでしょうか」
夫の眉が、わずかに動いた。
「好きに使え。ただし、あの鏡は動かすな」
「動かさないこと?」
「動かしたら契約違反だ」
声が鋭くなった。
「承知いたしました」
頭を下げた。
下げた瞬間、夫が鼻で小さく息を吐いた。
苛立ちではなく、安堵の息だった。
(……この人は、あの鏡を動かされることを怖れているんだ)
商家の末娘の勘が動いた。父の顔色を読んで、危ない取引を避けてきた勘だった。
部屋に戻って、鏡の前に座った。
「ヴィルフリードさん」
小さく呼んだ。
鏡の奥が、ゆっくり揺れた。水面のように。
彼が現れた。茶色の瞳。襟元のボタンが一つ開いている男。
「ヴィルフリードさんで、いいの?」
男は少し目を伏せた。それから自分を指差し、ゆっくり指で空中に文字を書いた。
V、I、L……F。
「……同じ、名前?」
男は頷いた。
「あなたも、ヴィルフリード」
頷き、それから首を振り、二本の指を立てた。
(二人いる)
「双子、なの?」
頷き。
「弟と兄。表にいるのが、どっち?」
男は自分を指差し、両手を胸の前で交差させた。縛られている仕草。
「あなたが、封じられた方」
頷き。
「外にいる方は」
男は首を振り、自分の頬を指差して、目の色が違う、と仕草した。
「弟」
頷き。
息を吞んだ。
母の本に書いてあった一文が浮かんだ。
『鏡の民の技術を悪用し、身内を封じることで継承順を奪った例が、百年の歴史で数件ある』
今、目の前でそれが起きていた。
膝をついた。
「どれくらい、閉じ込められているの?」
男は両手の指を四本立てた。それから片方を畳んで、三本にした。
「三年か、四年」
頷き。
「そう……」
長い時間だった。鏡の中で、誰にも会えず、屋敷中の鏡を通して外を見るだけの三年間。
「最初の手紙、あなたが書いたの?」
男は目を見開いた。少し驚いた顔をしてから、深く頷いた。
「私を呼んでくれたのね」
頷き。それから自分を指差し、こちらを指差し、胸の前で手を重ねた。
──助けを乞う仕草。
「私に、何ができるの?」
男は顎を引いた。鏡の枠を指でなぞり、部屋全体を示した。
「屋敷の鏡、全部?」
頷き。両手で円を作り、その中にもう一つ円を描き、入れ替える仕草。
(鏡の配列。魂の入れ替えの儀式)
母の本の後半に、書いてあった。
「エルリンは、信じていいの?」
男は深く頷いた。迷いのない頷きだった。
その頷きで、最後のためらいは消えた。
「……わかりました」
立ち上がった。スカートのしわを払った。
扉に向かう前、振り返って言った。
「あなたの目、弟さんより、ずっときれいな色です」
男の頬が、ほんの少し赤くなった。
三年間、誰にも見られなかった人だった。褒められ方も、忘れていたんだろう。
その不釣り合いが、なぜか胸にちくりと刺さった。
部屋を出て、廊下を歩きながら、自分の頬も少し熱かった。
商家の末娘は、人を褒める作法を、習ったことがなかった。
※
満月の夜は、三日後だった。
三日間で母の本を読み切った。
鏡の配列は具体的に描かれていた。八枚の鏡を特定の角度で並べる。星のような形になる。中央に主の鏡を置く。それが入れ替えの器になる。
屋敷には、九枚の鏡があった。八枚は動かせる。動かせないのは、夫の寝室の鏡一枚だけだった。
エルリンは三日間、計画を黙って聞いた。
最後に、一言だけ言った。
「ご命令くださいませ、奥様」
声が湿っていた。
「本物の旦那様を、私は四十年お仕えしてまいりました。お生まれの時から、お育ていたしました。弟君がこのような所業に出られた時、私は、何もできませんでした」
「エルリンのせいじゃない」
「奥様。三年間、お待ちしておりました。奥様のような方が、いらしてくださることを」
エルリンは深く頭を下げた。白髪が、銀色に光った。
「ご命令くださいませ」
息を吸った。
「鏡を動かしましょう。今夜、満月です」
「承知いたしました」
老人の目に、涙はなかった。ただ四十年の仕事人の目が、こちらを見ていた。
夜半、屋敷は静まっていた。
夫は西棟の寝室で就寝していた。使用人たちは、エルリンが昼のうちに休暇を与えていた。
「奥様のご成婚三日目を祝って、今日は皆、早めにおやすみなさい」
四十年仕えた執事の言葉を、誰も疑わなかった。
屋敷の中を動いているのは、私とエルリンの二人だけ。
蝋燭を三本、東棟の床に並べた。火は細く、揺らがなかった。窓の外の満月が、雲ひとつない空に浮かんでいた。
母の本を開いた。
「最初の鏡は、ホールの大鏡」
二人で動かした。老人の背では重く、下を支えた。
一枚、二枚、三枚。
鏡は、私の部屋の中央を囲むように置かれていった。床にチョークで配列図を写した。角度をミリ単位で合わせた。
手が、一度だけ震えた。エルリンが何も言わずに、その手を支えた。四十年の仕事人の手だった。
八枚の配置が終わった。中央の姿見が主の鏡。
月は真上にあった。蝋燭の火が、少し揺れ始めた。
屋敷全体が、息を詰めた。
廊下のきしみも、庭の葉ずれも、窓の外の風も、一斉に止んだ。
自分の呼吸だけが、大きく聞こえた。吸って、吐いて、もう一度吸う。
その三拍が、儀式の合図のようだった。
鏡の表面が、水のように揺らいだ。
主の鏡の奥に、男が立っていた。
ヴィルフリード。本物のほうの。
茶色の瞳。襟元のボタンを一つ開けた、いつもの姿。
彼は深く一礼した。こちらも、胸の前で手を重ねて一礼した。
母の本の最後の章に、入れ替えの言葉があった。古い鏡の民の言葉。意味は書かれていない。音だけが書かれていた。
「アルヴィ、セレン、オル」
声に出した。声は鏡の中に、吸い込まれた。
鏡の奥の男も、同じ言葉を口にした。
部屋の空気が、押されるように重くなった。
蝋燭の火が、全部一度に消えた。月明かりだけが残った。
西棟のほうで、かすかに叫び声が聞こえた。一度だけ。
そして、静かになった。
八枚の鏡の表面が、一斉に波打った。
主の鏡の中で、男が前に出てきた。
一歩下がった。
鏡が、かたりと震えた。
そして、鏡の奥にいた男が、実体として鏡の前に立っていた。
月明かりの中で、肩で息をしていた。襟元のボタンを一つ開けたままの姿で男は膝をついた。
床についた手が、生身の温度を持っていた。
「……お迎え、ありがとうございました」
声が聞こえた。
実際の、空気を震わせる声だった。
低くて、少しかすれていて、穏やかな声。
私も、男の前に同じように膝をついた。
「お帰りなさい」
声は震えなかった。商家の娘は、帰ってきた家族を迎える言葉だけは、知っていた。
男が顔を上げた。茶色の瞳に、月光がきらめいた。
そして、初めて、声で微笑んだ。
「ヴィルフリード・アーデルヴェクです」
「ルシエ・ライグランドです」
私は自分の姓を名乗った。アーデルヴェクと名乗るのは、まだ今日ではなかった。
※
西棟の夫の寝室。エルリンが、弟のヴィルフリードを確認しに行った。
彼は寝台の中で、目を閉じていた。
息はあった。けれど、呼びかけても反応しなかった。
彼の魂は、屋敷の鏡の中に移っていた。
そこには、弟一人だけがいた。
毎夜、自分が三年間してきた行いの記憶が、繰り返し再生されるだけの部屋。
兄を鏡に封じた夜。偽の継承宣言をした朝。父の棺に涙を落とす芝居をした午後。
それらが、逃げ場なく映し続けられる。
鏡の民は、それを「記憶の展示室」と呼んだ。
罪を罪として、ただ見続ける場所。
エルリンは戻って、本物の公爵に報告した。
「旦那様。お弟君は、無事、記憶の展示室に」
「……そうか」
公爵は頷いた。目を閉じ、深く息を吐いた。
「三年、長かった」
彼は、こちらを見た。
「あなたがいなければ、私は永遠にあそこにいました」
首を振った。
「母の血が呼んだのだと思います」
「お母様のお名前を、伺ってもいいですか」
「ルナ・ライグランド。旧姓、ミレル」
「……ミレル。鏡の民の中でも、特に古い家系です」
公爵は頷いた。
「あなたのお母様は、きっとこの日のために、あなたを育てていらした」
「……そうかもしれません」
膝の上で手を組んだ。組んだ指先が、まだ少し冷たかった。
その冷たさを、公爵がそっと両手で包んだ。
生身の温度。鏡の向こうでは、得られなかった温度。
指先から手の甲へ、その奥の血の流れまで、じわりと温もりが上がった。
目を閉じた。
涙は流れなかった。ただ、目の奥が、じんわりと温まった。
(この手は、嘘をつかない)
胸の中で、そう思った。
手紙の字の温度と、この手の温度は、同じだった。
商家の末娘の勘は、ようやく正しい場所に辿り着いた。
エルリンが、お盆に紅茶を運んできた。昼と同じ、はちみつと薔薇の紅茶。
老人の手が、ほんの少しだけ震えていた。
三年間、待っていた人だけが出せる、震えだった。
「ご主人様」
エルリンは公爵にカップを差し出した。
「お帰りなさいませ」
四十年の敬語。四十年、本物の主に向けてしか出さない、敬語だった。
公爵はカップを受け取った。一口すすった。
「……エルリン。紅茶の味が、戻った」
老執事は頭を下げた。
その肩が、微かに震えていた。
今夜の屋敷の中で、初めて出た涙の気配だった。
何も言わなかった。
言葉を差し挟むべきではない静けさが、書斎を満たしていた。
※
翌朝、本物のヴィルフリードは中庭のベンチで待っていた。
秋の薔薇が咲いていた。薄い赤、深い赤、白。
公爵は白い薔薇を一輪、差し出した。
「ルシエ様」
「はい」
「契約書を、破棄したい」
微笑んだ。
「……はい」
「形式ではなく、あなたと正式にやり直したい。新しい契約書ではなく、新しい結婚を、申し込みたい」
「契約書、ではなく」
「結婚を」
公爵は丁寧に、言い直した。
白い薔薇を胸に抱いた。
「私、まだ商家の末娘です。公爵家に見合う家柄ではありません」
「家柄は関係ない。あなたの血と、あなたの人柄に、申し込んでいます」
少し俯いた。
昨日までの灰色のドレスは、脱いだ。今朝は白に青い蔦模様のドレス。エルリンが朝のうちに、用意してくれていた。
「……答えは、もう出ています」
顔を上げた。
「お受けします」
公爵の目尻が、細くなった。
昨日、鏡の中で見た、初めての微笑みと、同じものだった。
実際の顔で、それが起きた。
胸の奥に、静かな温度が広がった。
二人で食堂へ向かった。
長い廊下の突き当たりに、東棟の姿見があった。昨夜、主の鏡として使った鏡。
配列を戻したあとも、なんとなく光が違って見えた。
その前を通り過ぎる瞬間、足を止めた。
鏡の中に私と公爵の後ろに、もう一人いた。
小さな子供だった。
栗色の髪。琥珀色の瞳。
私と同じ、鏡の民の顔立ち。
年は、七つか八つ。男の子だった。
子供の口が、ゆっくり動いた。
声は、鏡の表面を震わせて、小さく届いた。
「……助けて」
一言だけだった。
息を吞んだ。
子供は、ふっと奥に引いていった。暗い水の底に沈むように。
「……ルシエ様?」
公爵が振り返った。
「どうされました」
首を振った。
「なんでも、ないです」
声は、少しだけ震えていた。
公爵は眉を寄せた。けれど、それ以上は聞かなかった。食堂の扉を開け、私を先に通した。
姿見を、最後にちらりと見た。
そこには、誰も映っていなかった。
自分と公爵の背中だけが、遠のいていった。
食堂の席についてから、胸元の白い薔薇の茎に、そっと指先を絡めた。
茎の冷たさの奥に、昨夜の膝頭の冷たさが、残っていた。
まだ終わっていない、冷たさだった。
(もう一人、いる)
心の中で呟いた。
(どこか遠くの鏡に、封じられている子が)
(鏡の民は、私が最後の一人ではなかった)
朝陽が、食堂のテーブルに差し込んでいた。
公爵がコーヒーを注いでくれた。手の動きに、迷いがなかった。
鏡の中で三年間、誰にも何も注げなかった人の手だった。
だから今、カップに熱いものを注ぐ動きの一つ一つが、丁寧だった。
「ルシエ、砂糖は」
「あとで、少しだけ」
微笑んだ。
公爵はカップを差し出した。指先が触れた。
昨夜の書斎で感じた、生身の温度と、同じ温度だった。
温度の始まりだった。
けれど、その温度の奥で、もう一つの冷たい鏡が、誰かを待っていた。
栗色の髪、琥珀色の瞳の、小さな男の子。
その顔を、目の奥に焼きつけていた。忘れないために。
(待っていて)
指先で薔薇の茎を、もう一度握った。
(私、聞こえました)
(この屋敷の鏡が静かになったら、次の鏡を探します)
(母の血が、呼ぶほうへ)
公爵が、ちらりとこちらを見た。
何か言いたげな目だった。けれど、何も聞かなかった。
この人は、待てる人だった。
三年間、鏡の中で、待ち続けた人だった。
私がいつか自分から話す日まで、きっと、待ってくれる。
そう思った。
コーヒーを、一口すすった。
苦かった。苦さの奥に、薔薇の香りが、微かに残っていた。
公爵の手が、そっとテーブルの上の私の手の横に、置かれた。
触れなかった。ただ同じ高さに、並べて置かれた。
その距離が、今の私と公爵の温度だった。
触れない約束、ではない。
急がない約束だった。
鏡の表面が、朝陽を返して、静かに光っていた。
了
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