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悪役令嬢は盤上の駒を動かさない——軍師が隣にいるので  作者: 夜凪 蒼


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第28話「補給線の弱点」

ディルクが広げた地図には、赤い線が何本も引かれていた。


 ヴァルハイム軍の推定補給路。商人の証言、斥候の報告、猟師の帳面、そして彼自身の経験から割り出した経路。赤い線は国境の向こうから3方向に伸び、イグナーツの集結地点へ収束している。


「補給線は3本。主力の食糧を運ぶ中央路。武器と資材を運ぶ東の山道。予備の物資と増援を流す、西の街道」


 深夜の作戦室。蝋燭の灯りに照らされて、赤い線が血管のように浮かび上がる。敵の軍は、この線で生かされている。血管という比喩は正確だ。そして血管である以上——絞める場所さえ分かれば、刃は要らない。


 この地図1枚に、ディルクの10年が入っている。商人の世間話を10年聞き、斥候の報告を10年突き合わせ、自分の足で10年歩いた人にしか引けない線だ。買えば領の予算でも足りない資料が、いま、蝋燭1本の灯りの下にある。


「3本は、それぞれ別の弱点を持っている」


 ディルクの指が、中央路をなぞった。


「中央路は最も太いが、ラーデン河を渡る。雨季に増水すれば、渡河点ごと使えなくなる。雨季まで、あと1ヶ月半だ」


「逆に言えば、イグナーツの側から見ると——雨季の前に決着をつけたい理由が、ひとつ増えるということですわね。締め切りのある軍隊は、焦る。焦りは、こちらの数少ない味方ですわ」


「ああ。奴の砂時計は、こちらの城壁より頼りになる」


「1ヶ月半は長いですわ。イグナーツがその前に動けば——」


「待て。東の山道を見ろ」


 指が東へ移る。稜線に沿った、細い線。


「この道は狭い。荷馬車2台がすれ違えない幅だ。荷駄は一列で進むしかない。つまり1箇所で塞ぐだけで、全体が止まる」


「塞ぐとしたら、どこですの」


「ここだ。崖が両側から迫る隘路。岩をひとつ落とせば、撤去に丸2日かかる。——ブルーノたちなら、落とす岩の見当もつくだろう」


「猟師に頼む案は、保留にしますわ。彼らの山が戦場の色になるのは、最後の最後。順番だけ、間違えないようにしましょう」


「同感だ。手札にあることと、切ることは別だからな」


「山賊に偽装した妨害工作、ということ?」


「それは最後の手段だ。いまは外交を優先すべきだろう」


「もちろんですわ。けれど、選択肢として頭に置いておくことは必要。使わない駒も、盤の脇に見えているだけで相手の読みを縛りますもの」


「盤の脇の駒で脅すのが、あなたの流儀か」


「流儀ではなく、節約ですわ。動かさずに働く駒が、いちばん安上がりですもの」


 ディルクが頷いた。


「問題は西の街道だ。ヴァルハイムの国内街道に直結して、太く、整備されている。物資も増援も大量に流せる。補給線としては最も堅い。——だが」


「だが?」


 彼が地図の一点を指した。街道が、ヴァイス伯爵領の東端をかすめて通る地点。


「ヴァイス伯爵領の領土を、通っている」


 目を見開いた。理解が走る。


「ヴァイス伯爵が通過を認めなければ——」


「西の街道は使えない。補給線は2本に減る」


「念のため、法的な足場も確認しておきますわ。領土の通過権は、慣習法上どう扱われていますの」


「平時の商用は黙認が慣習。だが軍隊と軍需物資は、領主の明示の許可が要る。30年前の条約にも明文がある。——ヴァルハイムはこれまで『演習物資』の名目で黙認を広げてきた」


「では、ヴァイスがすべきことは新しい拒否ではなく、慣習の厳格な適用ですわね。『今後、軍需物資は条約の定め通り、明示の許可制とする』。波風の立たない文面で、効果は封鎖と同じ。法というのは、敵に塩を送ってきた分だけ、引き締めたときに効きますのよ」


 ディルクが口の端を上げた。


「文官の戦い方だな」


「ええ。剣より安くて、血が出ませんの」


「同盟の布石が、ここで生きてくるのですわね」


 身を乗り出す。地図の上で、ばらばらだった組木が噛み合っていく。


「フレーデンには再交渉を申し入れてあります。国境の3000がいる今なら、商人たちの天秤は動く。ヴァイス伯爵領には連帯の使者を送ったところ。——もしヴァイスがこちら側に立てば、西の補給線を政治的に封鎖できますわ。軍事行動ではなく、領土通過権の否認という、誰の血も流れない形で」


「その通りだ。だが、ヴァイス伯爵がそのリスクを取るかどうか」


「取らせる理由を、作らなければ」


 立ち上がって、窓に向かう。夜の闇の向こうには何も見えない。けれど頭の中には、地図が鮮明に灯っている。


「ヴァイス伯爵領の主産業は鉄鉱山。その鉄の、最大の買い手はどこかしら」


「ヴァルハイムの軍だ。武器の材料——」


「ええ。ヴァイスの鉄が、ヴァルハイムの剣になっている。つまりヴァイスは、自分の売った鉄で隣人が攻められる構図の中にいますの。今日の買い手の剣が、明日は自分に向くかもしれない構図の中に」


「鉄の売り先を、軍拡する隣国に握られている。それ自体がヴァイスの弱みであり——不安の種だ」


「ですから提案しますの。鉄の販路を、辺境経由の交易網に切り替える道を。フレーデンの商会、東の街道筋、それにわたくしたちの東の道。ヴァルハイム一国への依存から抜ける経済の出口を用意して——その対価に、西の街道の通過権否認をいただく」


「条件を、先回りして読んでおきますわ。ヴァイス伯爵は堅実で、決断の遅い型。即答はなさらない。代わりに必ず、危険の担保を求めてきます」


「担保。たとえば」


「販路を切り替えて、もし辺境の交易網が想定より細かったら——伯爵領の鉄は行き場を失いますわ。ですから『初年度の買い取り保証』あたりを要求してくる。リーゼ、もし保証を呑むとしたら、財政はどこまで耐えられますの」


 控えていたリーゼが、算盤を3度往復させた。


「予備費の3分の1まで。それを超えると、冬の備蓄に食い込みます」


「では交渉の上限はそこ。提案書には書かず、向こうが言い出したら『苦渋の顔で』呑みますわ。最初から差し出すと、もうひと声と言われますもの」


 ディルクがペンを取り、地図に書き込みを始めた。補給線の分析の上に、外交と経済の線が重なっていく。


「——あなたの頭の中では、軍事と経済と外交が、ひとつの盤に載っているんだな」


「別々の盤で戦っていては、勝てませんもの。補給線の弱点とは、軍事の欠陥である前に、政治の隙ですのよ」


 ディルクが棚から別の資料を引き出した。過去10年分の、ヴァルハイム軍の行動記録。この砦が黙々と蓄積してきた、紙の山。


「もうひとつ、重要な弱点がある。イグナーツ個人のだ」


「将軍の、弱点」


「イグナーツは攻撃的な指揮官だ。速攻を好み、持久戦を嫌う。過去の演習と小規模衝突の記録を見る限り、3週間を超える作戦をやり通したことが一度もない。補給の計算が甘いのか、性格的に待てないのか」


「どちらにしても、長引けば不利になるのはあちら側ですわね」


「そうだ。仮に——あくまで仮に、国境を越えてきたとしても。辺境が持ちこたえれば、イグナーツは自分から手仕舞いする。補給が軋み、国内の支持が揺らぎ、何より本人の我慢が切れる」


「つまり最悪の場合の防衛も、核は時間稼ぎ。攻め勝つ必要はなく——」


「守り続ければいい。ステイルメイトだ。引き分けで、十分勝ちになる」


 チェスの言葉。わたくしたちの会話には、いつもあの盤が影を落としている。


「ちなみに、持ちこたえる目安は」


「峠と砦で3週間。エルスト砦が落ちなければ、もう1週。——イグナーツの我慢の限界と、ちょうど同じ長さだ」


「偶然にしては、できすぎた一致ですわね」


「偶然じゃない。半年かけて、そこまで持つように作ってきた。あなたが来てからの半年で、だ」


 道と、税と、罠線と、輪番と、猟師の帳面。ばらばらに積んできた小石が、振り返れば3週間ぶんの壁になっている。積んでいる間は、壁の高さは分からないものだ。測ってくれる人が隣にいて、初めて高さになる。


「ディルク」


「何だ」


「あなたの補給線の分析がなければ、この戦略は紙の上の絵ですわ。わたくしは大局は読めても、戦場の細部は——荷馬車のすれ違える幅なんて、知りませんもの」


「だから、ふたりでやっている」


 短い言葉だった。けれどその言葉には、作戦室の蝋燭より確かな温度があった。


 机に資料を並べ直し、ヴァイスへの提案書の骨子を書き始める。ペンを握る指にインクが滲んだ。鉄と酸の、夜の匂い。


「ところで、峠の備えは」


「ヨハンたちは持ち場についている。西斜面の伐採、罠線、輪番の三重——半年前の峠とは別物だ。それに猟師の帳面が、いまも1日と空けずに動いている。あとは、使う日が来ないことを祈るだけだ」


「祈りは専門外ですけれど、確率を下げる仕事なら、いくらでも引き受けますわ」


 固いパンを投げる婚約者のいる見張り兵が、今夜も峠に立っている。その事実が、この夜更けの作業のいちばん深いところで、燃料になっている。数字は頭を動かすけれど、頭を朝まで保たせるのは、いつだって顔の見える誰かのほうだ。


「明日、ヴァイスに使者を送りますわ。提案書は朝までに仕上げます」


「手伝う」


「また徹夜ですわよ」


「軍師は眠らない」


「人間は眠りますわ」


「いまは軍師だ」


 反論の余地がなかった。この詭弁の型、わたくしの「いまは分析官ですの」と同じ工房の製品である。


 ふたりで机に向かう。蝋燭の下で、ペンが紙を走る音が交互に響いた。


 ふと、ペンを止めて思う。前世の深夜の職場には、蛍光灯の白い光と、自販機の珈琲と、ひとりの机しかなかった。いまは蝋燭の橙色の光と、林檎茶の残り香と、向かいで紙をめくる音がある。労働環境としてどちらが上等かは、議論の余地があるけれど——少なくとも徹夜の質は、こちらのほうが格段にいい。


 窓の外に、朝の気配はまだない。けれど夜明けは、確実に近づいている。


 補給線の弱点。それは敵の急所であると同時に、こちらの戦略の生命線でもある。


 赤い線を1本断てれば——盤面は、確実に動く。

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