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悪役令嬢は盤上の駒を動かさない——軍師が隣にいるので  作者: 夜凪 蒼


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第21話「情報の値段」

王都からの使者は、ハインリッヒ・メルツと名乗った。


 30代半ば。痩身で、指が長い。にこやかな笑顔の奥に、何も映さない目がある。文官の外套をまとっているが、歩き方に無駄がない。重心が常に身体の真下にある——武術の心得のある人間の足取りだ。


 ——間違いなく、ただの文官ではありませんわね。


 出迎えの広間でクラウスが豪快に握手を交わしている間、わたくしはリーゼの隣で一歩引いた位置を保った。目立たないこと。今日のわたくしは、影に徹する補佐役である。


「辺境伯の内政改革、王都でも評判ですよ」


 メルツの声は滑らかだ。蜂蜜を溶かしたような甘さ。その甘さが、かえって警戒を呼ぶ。


「はっは、まあ、優秀な部下のおかげだ。わしは酒を飲んどるだけだぞ」


 クラウスの冗談は半分本気で、その素朴さがそのまま盾になる。メルツの目が一瞬、クラウスの背後——ディルクとわたくしを掠めた。値踏みの視線。標本を覗く虫眼鏡の角度。


 視察は3日間。初日は領内の巡回、2日目は帳簿と報告書の閲覧、3日目に辺境伯との会談。


 問題は、その3日間のすべてが、メルツにとって情報収集の場だということだ。


 言うなれば、これは3日がかりの対局である。あちらは盤のこちら側を覗きに来た。こちらは、覗かせる範囲を盤の上で設計する。互いに駒の損得は発生しない。発生しないのに、3日後の形勢には、確かな差がつく——そういう種類のチェスだ。


「リーゼ。メルツの行動を、すべて記録してくださいまし。誰と話したか、何を見たか、どこで足を止めたか」


「かしこまりました。担当の侍女に指示を」


「いいえ、あなたが直接。人を介すと、精度が落ちますの」


「承知しました。記録の様式は、時刻・場所・接触相手・滞在時間・視線の先、の5列でよろしいですか」


「……『視線の先』まで列にしますのね」


「人は口より目で喋ります。商談で学びました」


 リーゼが小さく頷いた。


 初日の巡回で、メルツは3箇所で足を止めた。


 1つ目は物流拠点。整備された倉庫と荷馬車の動線を見て、帳面に何かを書き留めた。2つ目は兵舎の近く。表向きは通りすがり、けれど視線は明らかに兵の数と装備を数えている。3つ目は——教室だった。


 フェルデン村の読み書き教室の前で、メルツは足を止めた。窓から、子どもたちが文字を唱える声が漏れてくる。盾の黒板に、ヴィム爺の太い字。


「教育事業まで。辺境伯は実に先進的ですね」


「ええ、辺境伯のご英断ですわ」


 わたくしが応じると、メルツの目がこちらを捉えた。値踏みではない。識別する目。この女は何者か、と問う目。


「お名前を伺っても?」


「ベアトリーチェ。辺境伯のもとで、帳簿の補佐をしておりますわ」


 姓は名乗らない。ストラテーガの名は、王都の名簿で太字になっている。


「ベアトリーチェさん。補佐の方にしては、領民から慕われているご様子だ。先ほどの村でも、あなたに声をかける者が多かった」


「足繁く通っておりますので」


「なるほど。——足繁く」


 メルツの笑みが深まった。笑みの裏で、情報が整理されていく気配がする。哀れな没落令嬢の絵で受け流すには、村人たちの声が少し温かすぎた。誤算、というほどではない。けれど予定より2割ほど、わたくしは目立っている。


 エルベン村では、もっと際どい場面があった。メルツが井戸端のヘルガを掴まえて、世間話の形の聞き込みを始めたのだ。


「ご老人。あちらのご婦人は、村ではどんな評判で?」


「ベアトリーチェ様かい。ありゃあ、いい人だよ」


「ほう。具体的には、どのように」


「孫の話を聞いてくれる」


「……それだけで?」


「お役人さんよ。貴族様ってのはな、税の話はしても、孫の話は聞かんもんだよ。——それより、あんた顔色が悪いね。薬草の茶を飲んでいきな。よく効くよ、いろんなものに」


 メルツは薬草茶を3杯飲まされて解放された。聴取の成果は「孫の話を聞く没落令嬢」、損失は午後の時間半分。ヘルガに護衛の才能があることを、わたくしはこの日知った。


 ちなみにメルツは道中、リーゼからも情報を引き出そうと試みている。


「リーゼさんは、いつからこちらに?」


「本年からです」


「その前は王都に?」


「はい」


「どちらの家で?」


「守秘義務がございますので。——それより使者様、先ほどから帳面の綴じ紐が緩んでおります。中身が落ちる前に、結び直しをお勧めします」


 メルツが初めて、笑顔以外の表情を見せた瞬間だった。


 夜、作戦室でディルクと向き合う。


「初日の報告。メルツは軍事情報を最優先で集めていますわ。兵舎付近での視線は露骨でした」


「想定内だ。見せたのは新兵の訓練だけ。主力の配置は外してある」


「もうひとつ。教室に興味を示しました。教育は軍事ではないけれど、フリードリヒにとっては別の意味で引っかかるかもしれませんわ」


「思想の芽か」


「ええ。学院を統制した王子が、辺境で自由な教室が開かれていると知れば——」


「面白くはないだろうな」


 ディルクが地図を広げた。リーゼの記録から、メルツの行動の軌跡を書き写してある。点と点を結ぶと、関心の領域が浮かび上がる。


「ここからが本題ですわ」


 椅子の肘掛けに指を置く。木の滑らかさが、指先に冷たい。


「情報戦は、防御だけでは勝てません。こちらもメルツから引き出します。フリードリヒがいま、何を最も恐れているのかを」


「どうやって」


「餌を3種類、流しますの。メルツの反応で、関心の優先順位が読めますわ」


 用意した餌は、こうだ。


 1つ、辺境伯が王都の別の貴族と独自の誼を結んでいるという噂。食いつけば、王子の関心は政治的な連合にある。2つ、辺境の軍備が増強されているという誇張。反応すれば、軍事的脅威を警戒している。3つ、辺境伯がヴァルハイムと独自外交を進めているという話。これなら、外交的独立を恐れている。


「9割の真実に1割の操作。仕込む場所を変えた3皿を並べて、どの皿に箸が伸びるかを観察しますの」


「皿の出し方に、注文がある」


「どうぞ」


「同じ日に3皿出すな。反応の比較ができなくなる。1日1皿、出す順番は——政治、軍事、外交の順だ。最初の皿への反応が薄ければ、奴は2皿目を疑う。疑った状態での反応こそ、素の関心に近い」


「……採用ですわ。観察手順として完璧ですもの」


 軍師と分析官で実験計画を詰める夜が来るとは、前世のわたくしに教えてやりたい。きっと信じない。その前に転生を信じない。


 ディルクが目を細めた。蝋燭の炎がレンズに映り、小さな火が2つ、灰色の瞳の中で揺れる。


「危険な手だ。仕込みが露見すれば、攻撃の口実になる」


「ですから、噂の形で流しますわ。公式の情報ではなく、侍女の雑談、商人の世間話として。メルツの耳に、自然に届くように」


「仕掛けは誰が」


「リーゼに。彼女の情報管理は、こういう局面でこそ生きますの」


 翌朝、仕掛けが始まった。


 朝食の席で、給仕の侍女がさりげなく囁き合う。「辺境伯様、最近よくお手紙を出されるのよ。王都の伯爵家に——」


 メルツの匙が、ほんの一瞬止まった。復元は見事で、すぐ何事もなかったように食事へ戻ったけれど——反応は、捉えてある。


 2日目の帳簿閲覧でも、メルツは税収の数字より通信記録に執着する。誰と書簡を交わしているか。辺境伯の人脈はどこまで伸びているか。軍備の誇張にも、ヴァルハイムの話にも、箸は伸びなかった。


「収穫がありましたわ」


 2日目の夜、ディルクに報告する。


「フリードリヒが恐れているのは、辺境の軍事力ではありません。政治的な連合——辺境伯が他の領主と手を結び、王家に対抗する勢力圏を作ること。それが最大の警戒対象ですわ」


「つまり、軍を送ってくる線は薄い」


「直接の軍事行動は二の次。まず政治的に封じにきます。同盟を結ばせない、他領との関係を切る。外堀から埋める手ですわ」


 ディルクが頷いた。それから、その表情に、感心とは別のものがよぎった。


「あなたの情報戦は——どこか、怖いな」


「怖い?」


「人の心理を、方程式のように動かす。合理的ではあるが——」


 言葉を切って、首を振る。


「いや、いまはいい。結果が出ている」


 何を言いかけたのか。気にはなった。けれど追及する時間はない。明日はメルツの最終日だ。


 3日目の会談は、見事な空中戦だった。


 メルツは具体的な要求をひとつも口にせず、クラウスは具体的な約束をひとつもせず、互いに称賛だけを積み上げて1時間が過ぎた。称賛とは外交における梱包材である。中身のない箱ほど、丁寧に包まれる。


 一度だけ、メルツが針を出した。


「ときに辺境伯。優秀な補佐の方々の出自を、王都はあまり存じ上げないようで」


「拾いもんには自信があってな」


 クラウスは即答した。


「ディルクは農家の三男、リーゼは商家の娘、ベアトリーチェは訳ありの没落令嬢。王都が要らんと言ったもんを、わしが拾って磨いとる。——古道具屋と呼んでくれてええぞ」


 メルツは笑い、それ以上は踏み込んでこなかった。帰り際、彼は丁寧な言葉で辺境の繁栄をもう一度称え、1通の書簡を卓に残していく。


 見送りの城門で、メルツは馬上から一礼し、最後にわたくしへ視線を寄越した。


「ベアトリーチェさん。王都へ戻る前に、ひとつだけ。——あなたの淹れる帳簿は、実に整っていた」


「帳簿は、淹れるものではありませんけれど」


「ええ。ですが、香りで分かるものもある」


 それだけ言って、密偵は街道の向こうへ消えた。香り。つまり、嗅ぎ取られた何かがある。全部ではないにせよ、「没落令嬢」の包装紙の下に、別の中身があることくらいは。


 残されたのが、フリードリヒからの親書。


『辺境と王都の協力関係を、さらに深めたい』


 表向きの言葉の裏に何が畳まれているのか。封蝋の双頭の鷲は、今夜も何も教えてくれない。読み解く作業が、次の夜を埋めることになる。

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