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悪役令嬢は盤上の駒を動かさない——軍師が隣にいるので  作者: 夜凪 蒼


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第18話「教育の種」

エルベン村の次に大きい集落、フェルデン村。ここへ足を運ぶのは、今日が最初だった。


 目的は、教室を作ること。読み書きと算術の、領内で最初の教室である。


「お嬢様、こちらが村長のベルント氏です」


 リーゼの紹介で、日焼けした顔の老人が帽子を取った。手の甲に走る血管が太い。何十年も鋤を握ってきた手だ。


「ベアトリーチェ・ストラテーガですわ。本日はお時間をくださってありがとう存じます」


「は、はい。あの、その、読み書き教室というのは……」


 声が尻すぼみになる。背後に集まった村人たちも、不安げに顔を見合わせていた。


 無理もない。辺境の農村に突然「教育」を持ち込むのは、善意の押し売りと紙一重だ。彼らにとって子どもは大事な働き手で、教室に座る時間は、畑から引き算される時間に等しい。引き算の答えを埋める用意なしに「教育は大事」と説くのは、満腹の者の作文である。今日のわたくしの鞄には、その用意が入っている。


「率直に申し上げますわ」


 広場に設えた仮の机に、交易路の地図を広げる。


「辺境は、いま変わりつつあります。道が直り、新しい交易が始まる。けれど交易には契約書が要ります。帳簿が要ります。数字を読めて、文字を書ける人が、どうしても要りますの」


 村人たちの目が地図に集まった。


「字が読めれば、商人に騙されません。計算ができれば、税の額を自分で確かめられます。教育は、あなたがたの財産を守る盾ですわ」


「でも、その間の畑は——」


 若い母親が声を上げかけて、口を閉じた。発言を恐れている。


「おっしゃってくださいまし。その疑問は、正しい疑問ですもの」


「……子どもが教室に行ったら、畑の手伝いがいなくなります」


 当然の懸念だ。これに答えを持たずに来たなら、この計画は机上の空論で終わる。


「教室は午前のみ。農繁期はお休みにします。冬の手すきの季節に集中して進める時間割ですわ。それから——」


 リーゼに目配せすると、彼女が帳簿を開いた。


「教室に子を通わせた家庭には、領から食糧の補助を出します。子どもが畑にいない分の損失を、領が補う形です。財源は新しい交易税から。算定表はこちらに」


 ざわめきが走った。食糧補助。暮らしに直接触れる言葉だ。広場の後ろのほうで、誰かが指を折って数え始めたのが見えた。あの指の動きこそ、教室で伸ばしたい力である。


「なぜ、そこまで」


 ベルント村長が訊いた。その目には疑いがある。善意を信じられない——何度も裏切られてきた者の目。


「国の強さは、民の知力にありますの」


 言い切った。前世の早乙女律が何百本も読んだ研究の、結論だけを持ち込む。教育投資の効果。識字率と国力の相関。データはある。けれどこの広場で語るべきは、データではない。


「あなたがたが賢くなれば、辺境は強くなる。辺境が強くなれば、隣国は手を出しにくくなる。——わたくしは慈善でこの提案をしているのではありませんわ。戦略ですの」


 嘘のない言葉だ。人を駒として——いいえ。駒ではなく、力として見ている。その区別は、自分の中でもまだ検品の途中だけれど。


 村長が黙った。風が広場を横切り、乾いた土埃を巻き上げる。喉の奥に、砂の味。


「……ひとつ、条件があります」


 ベルントの声に、芯が通った。


「教える人間は、村の者を馬鹿にしない人でなけりゃ困る。前に来た王都の役人は、字が読めないことを笑った。あれは、駄目だ」


 胸の奥で何かが軋んだ。知識のある者が、ない者を見下す。その構造こそが、どの世界でも教育のいちばん深い敵だ。


「お約束しますわ。教師は、辺境の事情を理解して、敬意を持てる者だけを選びます」


「——リーゼ」


「はい」


「教師の選定基準に追加してちょうだい。『知識を持つ者ではなく、知識を分かち合える者を選ぶこと』」


 リーゼのペンが走った。


 話が決まると、見物していた村の子どもたちが、仮の机の周りに寄ってきた。いちばん小さいのが、地図の隅を指でつつく。


「これ、なに?」


「地図というのよ。あなたの村が、ここ」


「ちっちゃい」


「ええ、ちっちゃいの。でもね、この紙の読み方を覚えると——自分の村がどこにあって、道がどこへ続いていて、世界がどれだけ広いか。ぜんぶ分かるようになるのよ」


「……それ、教室でおしえてくれるの?」


「教えますわ。いちばん最後の授業でね。最初は文字と数から」


 子どもは「さいごかあ」と不満そうな顔をして、それから走っていった。最後まで通う理由が、いまひとつできたらしい。教育設計とは、こういう小さな餌の配置の積み重ねである。


 ちなみに教室の場所は、村はずれの古い納屋に決まった。黒板はない。代わりにクラウスが「倉に腐るほどある」と言って、古い大盾を3枚提供してくれた。石灰を塗れば立派に黒板になる。「盾が子どもを守るのは本望だわい」とは当人の弁である。うまいことを言ったという顔をしていたので、笑って差し上げた。


 教師の人選も、その場で目処がついた。


 砦の老兵に、ヴィム爺という人がいる。膝を悪くして物見を退き、いまは武具庫の番をしている人だ。元は徴税吏の書記で、読み書きと算術ができる。そして何より——兵舎の若い兵たちに、頼まれれば嫌な顔ひとつせず手紙の代筆をしてやっている人だった。字の読めない者を、一度も笑ったことがない。


「ベルント村長。教師の候補に、こういう老人がいますの」


 経歴と人柄を話すと、村長は深く頷いた。


「字の読めん奴の手紙を書いてやる人なら、間違いなかろう」


 人柄の審査基準として、これ以上のものをわたくしは知らない。履歴書は腕前を語るけれど、代筆の評判は、腕前の使い方を語る。


 選定基準『知識を分かち合える者』、第1号の合格である。基準の正しさは、最初の人選で決まるものだ。リーゼには週1回、算術の上級組を受け持ってもらう算段も組んだ。当人は「教えるのは初めてです」と言いながら、その晩のうちに12週分の練習問題を作っていた。だから怖いというのだ、この秘書は。


 帰りの馬車には、ディルクが待っていた。村には入らなかった。軍師の姿は村人を緊張させると判断したのだろう。


「どうだった」


「村長の条件がひとつ。教師に敬意を求めていますわ」


「まっとうな要求だ」


 馬車が揺れ始める。車輪が石を踏むたび、身体が小さく跳ねる。


「それと、教本のことだが」


 ディルクが懐から紙の束を出した。手書きの文字表と、簡単な計算の例題。——彼が自分で作ったらしい。


「最初の頁は、文字の練習にしないほうがいい」


「あら。では何にしますの」


「『字が読めると、何が得か』を絵で描く。市場の値札。借用書。税の通知。それが読める者と読めない者で、何が起きるか。——学びたい理由を先に渡さなければ、大人は机に座らない。子どもはなおさらだ」


 紙の束をめくる。看板の絵、帳簿の絵、騙される人と騙されない人の絵。線は不器用なのに、設計は精密だった。市場の看板で独学した7歳の少年が、30歳になって、最初の頁を描いている。


 最後の頁には、文字の一覧表の隅に、小さく山の稜線が描き添えてあった。


「この山は?」


「グルント峠だ。……文字を全部覚えた者への、卒業の頁にする。『この峠の名が書けたら、あなたはもう、自分の住む場所を地図に書ける』と」


 自分の住む場所を、自分の手で地図に書く。王都の地図に描かれなかった男の作る教本は、最後の頁で、子どもたちに地図そのものを手渡していた。


「……完璧な教本ですわ」


「絵が下手だと言いたいなら言え」


「申しませんわ。絵心は教育投資の対象外ですもの」


「ひとつ聞いていいか」


 しばらく走ってから、ディルクが言った。


「なぜ教育を最初に持ち出した。軍備の強化のほうが、即効性がある」


「即効性のある手は、持続しませんの。兵を増やしても兵は老いる。武器を揃えても武器は錆びる。けれど知識は——」


「一度得たら、失われない。か」


「それだけではありませんのよ。知識を持つ民は、自分で考えて自分で動きます。命令を待つだけの兵より、状況を判断できる民のほうが、有事には強い」


 ディルクが黙った。長い沈黙。蹄が土を蹴る音だけが続く。


「あなたの戦略は——」


 ようやく開いた口から出たのは、予想しない言葉だった。


「どこか、祈りに似ているな」


 祈り。戦略家から最も遠い場所にある単語。


「人を信じなければ成り立たない策だ。民が学び、民が考え、民が動く。その前提にあるのは——人間への信頼だろう」


「信頼、というよりは」


 窓の外は荒野だ。けれど、春が来れば草が芽吹くことを、わたくしはもう知っている。


「投資ですわ。人は裏切ることもある。でも、機会を与えられた人間の多くは、応えようとしますの。その確率に賭けているだけ」


「確率、か」


 ディルクの口元が、ほんの少し緩んだ。


「あなたは数字で語りながら、結局は人を信じている。矛盾だな」


 矛盾。そうかもしれない。前世の早乙女律は、データと確率だけで世界を見ようとしていた。論文の結論で「人的資本への投資が有効」と書くたび、その「人的資本」に顔があることを、きれいに忘れていた。けれどいま、ベアトリーチェ・ストラテーガの目で見る辺境は、数字だけでは測れないもので満ちている。固いパンを投げる婚約者とか、いちばん強い小石とか、盾でできた黒板とか。


「矛盾を抱えたまま走れるのが、人間の強みですわ」


 馬車が城門をくぐる。帰還の鐘が、低く重く腹の底に響いた。


 作戦室に戻ると、机の上に1通の書簡が置かれていた。封蝋の紋章は——王家のもの。


 フリードリヒ王子からの、書簡。


 封蝋の鷲を、しばらく見下ろした。種を蒔いた日の夕方に、よりにもよってこの紋章か。畑に最初の芽が出る頃、それを踏みに来る靴の音まで聞こえた気がした。


 辺境の改革が、王都の目に留まり始めている。それは成功の証であると同時に——盤の外に置いたはずの駒が、こちらの盤に戻ってくる合図でもあった。

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