3.再び異世界へ
翌朝、朝食を終えた私は縁側に腰を下ろし、庭の空気を胸いっぱいに吸い込んでいた。引っ越しの片付けも済み、いよいよ、異世界へ向かう準備が整ったのだ。
「数か月ぶりだけど……ちゃんと行けるかな」
脳裏に浮かぶのは、初めて異世界の扉をくぐったあの日のこと。あの喫茶店の匂い、ハイドと出会ったあの瞬間。数か月の時が流れても、あの場所は変わらずそこにあるだろうか。取り壊されたり、消えてなくなったりしてはいないだろうか。
小さな不安が胸の奥から次々と顔を出し、心をざわつかせる。けれど、確かめに行かなければ何も始まらない。私は赤い宝石を手に取り、強く頷いた。
朝の光が差し込む角度を見計らい、宝石をかざす。淡い光が宝石に触れた瞬間、赤い輝きがきらりと弾け、そこから一本の光の筋が伸び出す。やがて光は編み込まれるように広がり、空間に揺らめく入口を描き出した。あの日と同じ、異世界への扉。
「……よし、行こう」
胸の鼓動が早鐘のように高鳴り、期待と不安が入り混じって体中を駆け巡る。深く息を吸い込み、吐き出す。何度か繰り返して気持ちを整えると、私は一歩を踏み出し、光の入口の中へ身を投じた。
光の中を抜けると、視界が一瞬まぶしく揺らぎ――次の瞬間、景色ががらりと変わった。そこにあったのは、懐かしいレンガ造りの私室。
「……良かった。まだ、あった」
息を吐きながら胸をなでおろす。あの日と変わらない空間がそこにあることが、何よりも心を落ち着かせてくれた。赤い宝石をそっとポケットにしまい込み、部屋を後にする。
静かな廊下を進むと、壁に飾られたランプや、木目に沿って施された繊細な彫刻が目に映る。その一つ一つが懐かしさを誘い、胸の奥を温かく満たしていった。
そして、重厚な扉に手をかける。彫刻の曲線をなぞるように指先が震え、深呼吸をしてから押し開けた。
目の前に広がったのは、あの日と同じ喫茶店の光景。磨き上げられたカウンター、ほのかに漂うコーヒーの香り、静けさに溶け込むような温かな空気。
「……本当に、あったんだ」
二度目に見る景色なのに、胸に迫るものは前よりもずっと大きい。懐かしさと安堵と、言葉にならない感情が一気にあふれてくる。ここに帰ってこられた――そんな実感が、心をじんわりと満たしていった。
喫茶店の中を黙って見渡していると、ふいに背後から柔らかな気配が漂った。
「よぉ、アカネ。久しぶりだな」
聞き覚えのある声に肩がピクリと震え、慌てて振り返る。そこには、カウンターに腰かけて尾を揺らす白猫――ケットシーのハイドがいた。
「……ほんとに突然現れるのね」
「失礼な。いつもは空気に溶けてるだけだ。お前にもう少し力があれば、ちゃんと見分けられるぞ」
「へぇ、そういう仕組みなんだ」
なるほど、だからいつも唐突に現れるのか。納得したような、納得できないような気持ちになる。
「で――どうだ? 全部、終わらせてきたのか?」
「……うん。終わったよ。だから今日から、この喫茶店でお世話になります」
胸の奥にこみ上げる思いを抑えながら、私は深く頷き、姿勢を正してお辞儀をした。
「おいおい、そんなに畏まるなよ。こっちまで肩がこる」
「でも、ハイドは星見亭の先輩だから」
「先輩……? ふっ、悪くない響きだな」
はじめは面倒そうに耳をぴくりと動かしていたのに、先輩の一言で表情がふっと緩む。
この猫、いやケットシー、本当に表情豊かだ。尾をゆるやかに揺らす仕草さえ愛嬌があって、見ているだけで心が和んでいく。社畜生活ですり減った私の心に、じんわりと温かさが染みていった。
「それで、始めは何をすればいいの? この星見亭のことを詳しく教えてもらわなきゃ」
「まず星見亭を知る前に、やることがある」
「やることって……何?」
「チコからの力の継承だ」
そういえば、ハイドは以前もそんなことを言っていた。力を受け継げば、封印された記憶が戻るとも……。
「その力って、どんなものなの?」
「魔法や技術、知恵……そういうものだな。アカネがお前の意思でこの喫茶店を継ぐなら、それを授けてほしいとチコから頼まれていた」
「おばあちゃんが……」
その言葉に、胸がじんわりと温かくなる。おばあちゃんはきっと、すべてを見越してこの機会を用意してくれたんだ。優しい気遣いが、懐かしさと嬉しさを同時に呼び起こす。
その時、ハイドの前がぱっと光を帯びた。眩しさに思わず目を細めると、光は一点に収束し、小さな赤い宝石が現れる。
「この中にチコのすべてが詰まっている。これを握り、チコのことを想え。そうすれば力は継承されるだろう」
「……この宝石を?」
私は両手で宝石をそっと包み込んだ。触れた瞬間、じんわりと温もりが広がり、懐かしい気持ちが胸に込み上げる。まるで祖母がすぐ隣に立っているような錯覚。
強く宝石を握りしめ、祖母のことを思い浮かべる。
いつも優しく微笑んでくれた顔。私を気遣って撫でてくれた手。落ち込んだ時に淹れてくれた、あの香ばしいコーヒーの味。
どれも大切な記憶で、思い出すだけで胸がいっぱいになる。気持ちが熱を帯びた瞬間――赤い宝石がぱあっと光り輝いた。
「わっ……!」
溢れ出した光の粒がきらきらと舞い、私の身体へと吸い込まれていく。温かな流れが全身を駆け巡り、胸の奥をじんわりと照らした。
その刹那、脳裏に祖母の記憶が次々と映し出される。
楽しそうに笑う人々の顔。ゆっくりとドリップされていくコーヒー。満天の星に包まれた店内。そして――小さな私が、この喫茶店で無邪気に笑っている姿。
一つひとつの記憶が浮かんでは消えるたびに、胸が切なく締めつけられる。それでも、そこには確かに祖母の温もりがあった。
「……アカネ?」
ハイドの声に我に返る。頬に流れる涙に、自分でようやく気づいた。
「どうした?」
「おばあちゃんを……感じたの。あまりにも近くにいるみたいで……」
「そうか……寂しいよな。俺だって寂しい……」
私の言葉に、ハイドの声がかすかに切なげに揺れた。次の瞬間、彼は私の胸に身を寄せ、柔らかな毛並みを頬へと摺り寄せてくる。そのぬくもりに、胸がきゅっと熱くなった。嬉しさと切なさが入り混じり、思わず両腕でその小さな体を抱きしめる。
しなやかな毛並みが頬を撫で、甘く心地よい衝動が押し寄せた。顔をうずめてしまいたいほどの温もりに、心が安らぎで満たされていく。
――その時だった。
コンコン、と静かな喫茶店に扉を叩く音が響いた。
「えっ……なに?」
不意の音に驚いて顔を上げる。視線を向ければ、外へと続く扉から音が聞こえてくる。
「そういえば……アカネが来るとわかって、あいつを呼んでおいたんだった」
ハイドは私の腕の中からスルリと抜け出し、どこか得意げに言う。
「あいつ?」
「説明は後だ。まずは開けてやれ」
「う、うん……」
促されるままに、私はカウンターから回り込み、扉へと歩み寄る。少し緊張しながら取っ手に手をかけ、そっと扉を開け放つと――。
「店主が来たと聞いて、真っ先に駆けつけたニャ!」
そこに立っていたのは、茶トラにハチワレ模様の猫だった。




