2.移住
「あかねちゃん、何か困ったことがあったら、私を頼るのよ」
「はい。本当に、何から何までありがとうございます」
「いいのよ。これからお隣同士になるんだもの、仲良くやっていきましょうね」
玄関先で、隣に住む中村さんと挨拶を交わす。中村さんは心配そうに私の肩や腕にそっと触れ、その気遣いが、社畜生活ですり減っていた心にじんわりと染みこんでいくのが分かった。
やわらかく微笑んだ中村さんは、そんな言葉を残して玄関を後にする。扉が閉まると同時に、家の中はしんと静まり返り、一人きりだという現実が胸に広がる。
けれど、不思議と心は落ち着いていた。きっとここが、亡くなった祖母の家だからだろう。壁や床、空気までもが、懐かしい匂いを運んでくれる。
「さて……夕飯の前に、もう少し引っ越しの片付けを終わらせよう」
腕まくりをして、私は再び家の奥へと足を踏み入れた。
◇
祖母が営んでいた《星見亭》を引き継ぐために、私は会社を辞めた。だが、辞めるまでが、まさに地獄だった。
「おい、あかね。勝手に退職なんてふざけるなよ」
部長は椅子から立ち上がり、机をバンと叩いた。その音は会議室に乾いた衝撃音として響く。
「あなたに許可を取る必要はありません。すでに退職届は提出済みです」
「許可? そんなもん、俺が出さなきゃ辞められるわけないだろ」
その言葉に、胃の奥が冷たくなる。休日返上、深夜までの残業、休日呼び出し……断れば「協調性がない」と査定を下げられる日々。
この男は、部下の人生を自分の所有物だと思っている。
「祖母の店を継ぐと決めたんです。もう後戻りはしません」
「はっ、バカじゃないのか? 安定捨てて、田舎の小商売だぁ? 数か月で泣きつくのがオチだな」
吐き捨てるような嘲笑。頭の中で何度も「ここで引いたら終わりだ」と声が響く。
「部長、あなたの思う安定は、私にとって鎖です」
「……なんだと?」
「もう二度と、あなたの都合で私の時間も人生も削らせません」
沈黙のあと、部長の顔は赤黒く染まり、口が激しく動いていたが――もうどうでもよかった。椅子を押しやり、私は会議室を出る。
長年背中にまとわりついていた重い鎖が、ガシャリと音を立てて落ちたような気がした。その瞬間、胸の奥に広がったのは、恐怖ではなく――解放感だった。
執拗な引き留めを振り切り、退職届とともに退職金までもぎ取った。長かった鎖は、ようやく断ち切られたのだ。
すぐさま祖母の家への引っ越しを手配し、荷物をまとめる。書類と段ボールに囲まれた数日を経て――ついに、この自由な日を迎えることができた。
中村さんが手伝ってくれたおかげで、今日一日で荷物はすっかり片付いてしまった。もともと、社畜生活で物を持つ余裕もなかった一人暮らしだ。家具も食器も、必要最低限しかない。
夕飯にしようと、台所で蕎麦を茹で始める。グツグツとお湯が沸き立ち、湯気が立ち上る。鍋の中に蕎麦を入れ、タイマーを押す。そのまま、ぼんやりと湯気を見つめていると――。
「あらあら、もうそんなことまで出来るようになったの?」
不意に、耳に懐かしい祖母の声が届いた。はっとして振り向く。けれど、そこには誰もいない。台所の静けさが、かえって胸に重くのしかかる。
「……空耳、か」
喉の奥がきゅっと詰まり、胸がじんわり痛む。亡くなった祖母の笑顔が、まぶたの裏に浮かぶ。
台所に漂う湯気が、いつの間にか視界を曇らせていた。こらえきれず、目尻に熱いものがにじむ。鼻をすすり、なんとか涙を押しとどめる。だが、その温もりがもう二度と戻らないことだけは、痛いほどわかっていた。
その時、容赦なくタイマーが鳴った。まるで、余計な感傷を許さないとでも言うように。
寂しさに身を委ねる暇もなく、私は慌てて火を止め、蕎麦をザルにあける。流れる水で冷やすと、白い湯気が消えていく。その様子が、何か大事なものがすっと手から離れていくようで、胸が少し痛んだ。
器に蕎麦を盛り、刻んだ薬味をのせる。つゆを入れたお椀と共にお盆に載せ、静かな居間へ運んだ。座布団に腰を下ろし、両手を合わせる。
「いただきます」
箸を取り、すすり上げる麺の音だけが部屋に響く。テレビもラジオもつけていない。耳に入るのは、自分の呼吸と、麺をすする音――そして、沈黙の重さだけ。
「おいしいかい?」
ふいに、耳の奥にあの声が蘇った。
食卓の向こうで、湯呑みを手にしながら、私の食事を見守ってくれた祖母の声。返事をしようとしても、そこにはもう誰もいない。ただ、静かな空気と、箸を持つ自分だけ。
口いっぱいに広がる蕎麦の香りと味が、なぜか涙を誘う。
帰ってこられた嬉しさと、二度と会えない寂しさが胸の中で絡まり合い、あたたかくも、きゅっと締め付けられるような痛みを残した。
この家には、祖母と共に過ごした日々の記憶が、無数の小さな灯のように残っている。
台所で笑いながら包丁を動かす姿、縁側で編み物をする背中、そして眠る前にかけてくれた優しい声。どれも、私の心を支えてくれる大切な宝物だ。
けれど、そんな祖母にも、私の知らない顔がある。異世界で喫茶店を営んでいた。そんな突拍子もないようでいて、事実らしい話。
どんな街だったのだろう。
魔法使いがコーヒーを飲みに来たり、竜が窓際の席に腰を下ろしてお茶を啜ったり……そんな光景が本当にあったのかもしれない。
カウンター越しに笑う祖母の姿を想像すると、不思議と胸が温かくなる反面、そこに自分が立つ姿を想像すると、少しだけ心細くもなった。
祖母はどんな気持ちでその店を切り盛りしていたのだろう。
笑顔の裏に、苦労や孤独はなかったのだろうか。けれど、その全てを知ることはもうできない。だからこそ――私が自分の目で確かめるしかない。
蕎麦を食べ終えると、胸の奥にひそかな決意が芽生えていた。
祖母が見た景色を、私も見に行く。そして、あの喫茶店を、私の手で再び開くのだ。




